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2017/11/04

北條九代記 卷第十一 淺原八郎禁中にして狼藉

 

      ○淺原八郎禁中にして狼藉

 

同三年三月四日、紫宸殿の師子(しゝ)・狛犬、何の事もなきに、中より裂けて、兩方に別れたり。「是は如何樣、只事にあらず、天下国家の重き御愼なるべし」とて、陰陽寮に仰せて、御祈禱あり。京中、聞傳へて、「古も斯(かゝ)る例(ためし)あり、非常の災(さい)に禁裡を汚(けが)し、弓箭(きうせん)の難に人品を損する事あるべし」と、世には私語(さゝや)き申しけり。同九日の夜、甲斐源氏の末葉(ばつえふ)、淺原〔の〕八郎爲賴と云ふ者、その子・兄弟二人を召連れ、甲胄を帶し、馬に乘りながら、禁門に馳入(はせい)りて、長橋(ながはし)の局(つぼね)よりして、殿上に參り、女房共に向ひて、「主上の御座(ござ)は何處(いづく)ぞ」と問ひけるに、典侍(ないし)以下の官女、大に肝を消し、「玉上は此所許(こゝもと)にはおはしまさず。杳(はるか)に北なる御殿にこそ渡らせ給へ」とて彼方此方する間に、主上は女房の姿にて、忍出(しのびい)でさせ給ひ、中宮、東宮も潛(ひそか)に他(た)所へ遁れ給ふ。爲賴父子、中宮の御方(おんかた)へ押入りつゝ、主上の御座を尋求(たづねもの)む。宿直(とのゐ)の侍共、「太刀よ、長刀よ」とて、犇(ひしめ)き出でつゝ、殿中にして相戰(あひたゝか)ふ。その間に、近邊の篝(かゞり)の武士五十餘騎、馳來(はせきた)り、四方より取𢌞(とりまは)し、生捕(いけどり)にせんと仕(し)ければ、爲賴、叶はじと思ひけるにや、「口惜くも主上を取逃しける事」と訇(のゝし)りながら、夜殿(よるのおとゞ)の御茵(おんしとね)の上にて、鎧、脱置(ぬぎおき)きて、自害したり。嫡子賴資(よりすけ)は、紫宸殿の御帳(みちやう)の内に蒐入(かけい)りて、跡より來る宿直の武士三人に手負せ、その間に腹卷(はらまき)を脱ぎて、自害したり。次男賴堅(よりかた)は、大障子の下に伏して矢を放ちて防ぎければ、昏さは暗し、物間(ものあひ)は定(さだか)ならず。敵は何人何處に(いづく)ありとも知難(しりがた)し。間每(まごと)を蒐囘(かけめぐ)り、鼠を追ふが如くしければ、賴堅が伏したる所を求出(もとめいだ)したり。武士等(ら)、大勢、詰寄(つめよ)せて、生捕(いけどら)んとしければ、矢種は射盡し、今は叶はじとや思ひけん、立ちながら、腹、搔切(かきき)りて死ににけり。父子三人が尸骸(しがい)は六波羅へ遣して實檢す。「是は、そも、何者なれば、禁中に蒐入(かけい)りて詮なき命をば失ひけるぞ」とて、武士に仰せて見せらるゝに、知る人、なし。爲賴が放ちける矢注(やじるし)に「太政大臣源爲賴」と書きたりけるを見出して、其(それ)とは知りにけり。かの爲賴は大力の強弓(つよゆみ)武勇(ぶよう)の精兵(せいびやう)なりけるが、國郡に橫行(わうぎやう)し、村邑(そんいふ)に徘徊して、人の妻子を犯し、財産を掠(かす)め、非道濫惡の所行、更に云ふ計(ばかり)なし。惡逆の張本なりければ、鎌倉よりその所領を沒收(もつしゆ)して、國中に觸れて、追放せらる。「爲賴父子、身の置き所のなき故に狂亂となり、かゝる淺ましき事を仕出(しいだ)しけるにや」と、憐(あはれ)がる人も多かりけり。「爲賴が自害せし刀は、三條宰相中將實盛の家に相傳する所、世に隱(かくれ)なき刀なり」と申すに依て、六波羅より子細落居(らくきよ)の程、僉議(せんぎ)に及び、同四月に、實盛卿竝に子息侍従公久(きんひさ)を召捕(めしと)りぬ。爲賴と同意して、内々叛逆(ほんんぎやく)の企(くはだて)ありと風聞せし故なり。遂に鎌倉に下し遣し、謀叛の子細、同意の輩を糺問せらる。「是等の事も王道の磷(ひすろ)ぎて、武門に侈(おごり)ある故なり」と貴賤、唇を翻し、上下、眉をぞ顰(ひそ)めける。糾明募りて、この事の源(みなもと)は中院龜山の叡慮より起りける由、沙汰あり。西園寺内府實兼(さねかぬ)の息、中宮大夫公衡(きんひら)、是を聞きて、本院後深草〔の〕院へ奏し申しけるは、「皇統改(あらたま)り、政理、偏(ひとへ)に武家の計(はからひ)として、當今(たうぎん)、御位に卽(つ)き給ふを、中院龜山院、新院後宇多院、是を怨み給ひて、竊(ひそか)に爲賴に仰せ付らるゝ所なるべし。中院をば、六波羅へ移し參らせ、重(かさね)て評定の上にて遠流に處し申さん」とありけれども、本院後深草〔の〕院、更に御許容なし。西園寺家、既に武家に贔屓(ひいき)ありけるを以て、嚴しく糾明を遂げられん事を勸めて、此(かく)は奏し參らせらる。中院、新院、聞召(きこしめ)され、大に騷ぎ給ひ、誓詞(せいし)を鎌倉に遣され、樣々に陳謝(ちんじや)し給へば、武家、殊なる沙汰にも及ばすして、事、漸く靜(しづま)りぬ。

 

[やぶちゃん注:これは、あまり知られてはいないと思われる、正応三年三月九日(一二九〇年四月十九日)に発生した伏見天皇暗殺未遂事件の顛末を語った章である。ウィキの「浅原事件」によれば、三月九日『夜、浅原為頼(浅原八郎為頼)ら武装した』三『名の武士が騎馬で、御所である二条富小路殿に乱入した。浅原は御所内にいた女嬬』(にょじゅ/めのわらわ:後宮に於いて内侍司(ないしのつかさ)に属して掃除や照明を点(とも)すなどの雑事に従事した下級女官)『を捕まえて』、『天皇の寝床を尋ねた。危険を感じた女嬬は咄嗟に違う場所を教え、その間に天皇に事の次第を伝えたため、天皇は女装をし』、『三種の神器と皇室伝来の管弦』二『本(琵琶の玄象・和琴の鈴鹿)を持って春日殿に』、『春宮(のちの後伏見天皇)は常盤井殿に』『脱出した』。『一方、浅原らは天皇と春宮を探して』、『御所内を彷徨ったものの、御所内の人々が騒ぎに驚いて逃れ去った後だったため』、『天皇・春宮の居所を見つけることが出来ず、そのうちに篝屋の武士』(かがりやのぶし:鎌倉幕府の職名で「篝屋守護」「篝屋守護人」或いは単に「篝」とも呼んだ。京都市内四十八ヶ所に置かれた篝屋に宿営して、京の市中の治安に当たった武士)『が駆け付けたため、失敗を悟って自害した』。『首謀者である浅原為頼は甲斐武田氏または小笠原氏の庶流奈古氏の一族(ともに甲斐源氏系)で』、先の『霜月騒動に連座して所領を奪われたために悪党化し』、幕府の『追捕の対象となり』、『指名手配されていた』人物であった。『事件の折に御所内で射た矢には「太政大臣源為頼」と記すなど、事件当時』、『常軌を逸した行動があったとされている。また共に襲撃し』、『自害した』、『名は彼の息子(光頼・為継』『)であったという』(本文の名前は異なっているが、こちらが正しいようである)。『ところで、浅原為頼が自害した時に用いた鯰尾(なまづを)という太刀が実は三条家に伝わるもので、事件当時の所有者が庶流の前参議三条実盛』(?~嘉元二(一三〇四)年:権中納言三条公泰(きんやす)の長男)『と判明したために、六波羅探題が実盛を拘束した。伏見天皇と関東申次の西園寺公衡は実盛が大覚寺統系の公卿であることから、亀山法皇が背後にいると主張したが、持明院統の治天の君である後深草法皇はこうした主張を退け、また亀山法皇も鎌倉幕府に対し』、『事件には関与していない旨の起請文を送ったことで、幕府はそれ以上の捜査には深入りせず、三条実盛も釈放された』。『浅原為頼の天皇暗殺未遂騒動は』「増鏡」及び「中務内侍日記」に『記述されている』とある(下線やぶちゃん)。

「師子(しゝ)」獅子。

「腹卷(はらまき)」簡易の鎧の一種。

「物間(ものあひ)は定(さだか)ならず」敵と思われる人物の居る位置や距離の見当が全くつかないことを言っている。

「間每(まごと)を」殿中の部屋部屋を。

「磷(ひすろ)ぎて」薄らいで。弱くなって。

「西園寺内府實兼(さねかぬ)」既注。「さねかね」は「さねかぬ」とも読んだ。]

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