柴田宵曲 俳諧博物誌 (2) 鳶 一
[やぶちゃん注:「鳶」動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata鳥綱 Aves タカ目 Accipitriformes タカ科 Accipitridae トビ属 Milvus トビ Milvus migrans。]
一
別所梅之助氏の『聖書動物考』という書物の中に、「トビ」について次のような事が書いてあった。
[やぶちゃん注:「別所梅之助」(明治四(一八七二)年~昭和二〇(一九四五)年)は牧師(メソヂスト監督教会所属)。豊橋・川越などで牧師を勤め、その後はメソヂスト教会の機関紙『護教』主筆や青山学院教授を勤めてもいる。明治三六(一九〇三)年と昭和六(一九三一)年の賛美歌改訂編集作業に携わり、自身も賛美歌を創作、日本の讃美歌史に貢献した。大正六(一九一七)年の「大正改譯聖書」の改訂にも委員として参加している。
「聖書動物考」別所梅之助著。大正九(一九二〇)年警醒社書店刊。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらで視認出来る。ここでは底本に従わず、その原典画像から全文を正字正仮名で再現した。因みに別所は翌年には同書店から「聖書植物考」という姉妹編も出版している(それも国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める)。
以下の引用は底本では全体が二字下げだが、無視した。その代り、引用が判然とするように前後を一行、空けた。]
かつまた鳶の晴空に舞ふは、日本國土の風景として、すぐれたものゝ一であるのに、歌人も、俳人も、あまり詠じない。淸少は「鳶烏などの上は、みいれ、きゝ入れなどする人、世になしかし」と、けなしてゐる。さすがに畫工はこの鳥をうつしている。「鳶飛んで天に戾」っても、神武の御門の弓弭(ゆはず)にとまつて、御軍をかたせても、「鳶の子鷹にならず」などと、日本人はよきものに馴れて、その美しさをも、強さをも認めてゐないらしい。
[やぶちゃん注:「淸少」清少納言。私は個人的に研究者などがしばしば口にするこの省略形には生理的に激しい虫唾が走るタイプの人間である。
「鳶烏などの上は、みいれ、きゝ入れなどする人、世になしかし」一般に「枕草子」の第三十八段とされる「鳥は」の鳥尽くしの中の長い鶯についての複雑な感懐を語る中の一節に出現する。
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鳶・烏などの上(うへ)は、見入れ聞き入れなどする人、世になしかし。されば、いみじかるべきものとなりたれば、と思ふに、心ゆかぬここちするなり。……
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訳すなら、「鳥の中でも、鳶(とび)や烏(からす)などといった、どこにでもいて、大方、憎らしく思われている手合いに関しては、それにわざわざ心を留めて注目してみたり、その鳴き声に聴き耳を立てたりするような人は、世の中に一人だっていはしないではないか。だから、鶯は、当然の如く、とっても素敵なものと相場が決まってしまっているものだと思うにつけて、いろいろな人の勝手な鶯に対する物言いや批判には、私は納得が行かない気持ちがするのである。」である。ここまでの前の鶯の叙述と絡んで述べているので、完璧に理解するためには原典を参照されんことを望む。「枕草子」の原文や現代語訳は有象無象腐るほど(残念ながら、一部は歴史的仮名遣も知らず、また、とんでもない誤訳が散見する、サイト全体が存在しない方がよい部類のものも多いので精選されたい)ネット上にある。
『「鳶飛んで天に戾」っても、神武の御門の弓弭(ゆはず)にとまつて、御軍をかたせて』「御門」は「みかど」、「御軍」は「みいくさ」(底本にはルビがあるが、原典には「ゆはず」以外はない)。「弓弭」は弓の木製本体部の上下の両端の、弦(つる)の輪を掛ける部分の名称。弓を射る際に上になる方を「末弭 (うらはず)」、下になる方を「本弭 (もとはず)」 と称する。以上は「日本書紀」の「神武紀」の「神武天皇卽位前紀戊午年」(単純換算で紀元前前六六三年)の「十二月丙申」の冒頭の以下。
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十有二月癸巳朔丙申。皇師遂擊長髓彦。連戰不能取勝。時忽然天陰而雨氷。乃有金色靈鵄。飛來止于皇弓之弭。其鵄光曄煜。狀如流電。由是、長髄彦軍卒、皆迷眩不復力戰。長髓是邑之本號焉。因亦以爲人名。及皇軍之得鵄瑞也。時人仍號鵄邑。今云鳥見。是訛也。
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以下、我流で私が理解出来るように訓読してみる。
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十有二月(しはす)癸巳(みづのとみ)朔(ついたち)丙申(ひのえさる)。皇師(くわうし)、遂に長髓彦(ながすねひこ)を擊つ。連(しきり)に戰ふも、取り勝つこと能はず。時に、忽然にして、天、陰(ひし)げ、雨氷(ひさめふ)る。乃(すなは)ち、金色の靈(あや)しき鵄(とび)有りて、飛び來たり、皇弓の弭(はず)に止まる。其の鵄、光り曄-煜(かかや)きて、狀(かたち)、流電(いなびかり)のごとし。是れに由りて、長髓彦が軍卒、皆、迷ひ眩(くら)みて、復た戰(いくさ)を力(きは)めず。長髓、是れ、「邑之本(むらのもと)」の號なり。因りて亦、以つて人の名と爲す。皇軍の鵄の瑞(みつ)を得るに及ぶなり。時の人、仍りて「鵄邑(とびのむら)」と號(なづ)く。今、「鳥見(とみ)」と云ふは、是れ、訛(なま)れるなり。
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鳶は尋常詩歌の材料にはあまり取入れられていないかも知れない。しかし俳語の世界では相当活動しているような気がする。別所氏が「歌人も、俳人も」といわれたのは、いささか早計に失しはせぬかとも考えたが、さてどの位鳶の句があるかということになると、俄に挙げる便宜がない。俳諸には歳時記というものが発達していて、季題になっている動物の事はいろいろ研究してあり、句集も多くは季題によって分類されているので、容易に検出し得るけれども、それ以外の動物の句を特に分類して集めた本は見当らぬからである。相当数の多い鳶の句について、別所氏が前のように述べておられるのを見て、先ず古人が鳶をどう詠んでいるか、少し調べて見たくなった。勿論こういう仕事は、何人(なんぴと)も万全を期するわけに往かぬ。またわれわれの目的は、鳶が如何に俳人に扱われているかを見るにあるので、必ずしも手許にある句を全部羅列しようというのではない。これだけの材料について見ても、俳人が決して鳶に冷淡でなかったことは、十分立証出来るというに過ぎぬのである。
かつて先輩から聞かされた話によると、以前は東京の空も、麗(うらら)かな日和(ひより)には鳶や鴉が非常に多く飛んだものだが、今は少しも見えない。これは市中の掃溜(はきだめ)が綺麗になって、彼らの拾う餌がなくなったためだろう、ということであった。なるほどその通りであろう。われわれの子供の時分を考えて見ても、鳶はまだそれほど珍しくなかった。漣山人(さざなみさんじん)のお伽噺に、高千穂(たかちほ)艦のマストにとまった鷹の話を聞いて、その運命にあやかろうとした鳶が、町中の電信柱にとまってわざと子供につかまるという筋のものがある。或時われわれの通っていた下町の小学校の屋根に、鳶がとまって長いこと動かぬのを発見し、この話の趣向の偶然ならざるを合点すると共に、鳶という鳥の意外に大きいのに驚いたことがあった。あの頃の市中には彼らの餌になるものがいくらもころがっていたに相違ない。
[やぶちゃん注:「漣山人(さざなみさんじん)」児童文学者巖谷小波(いわやさざなみ 明治三(一八七〇)年~昭和八(一九三三)年)の別号。以上のお伽話は「鳶ほりよ、りよ」(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該話の画像の冒頭)である。前年に日本が圧勝した日清戦争を題材にしたもので、明治二八(一八九五)年の『少年世界』第一巻第二号に発表された。「個人サイト「巌谷小波研究」の「7.小波御伽噺の展開(2)」にある「失敗するキャラクターたち」によれば、以下のようなおぞましい隠喩(メタファー)が隠されたおぞましい童話である。
《引用開始》
安倍季雄が心に残っていると回想していた「鳶ほりょ、りょ」を見てみよう。これは、高千穂艦の帆柱にとまった鷹の真似をして、鳶が電信柱の上にとまって、人間がつかまえてくれるのを待つ話である。子どもは鳶をつかまえて「豚尾、捕虜、虜」と町じゅうを引きずりまわす。鳶は清国の辮髪を豚尾と呼んだのとかけている。清国のアレゴリーである。寓意の方は、鳶が鷹の真似をする〈身の程知らずの大たわけ〉という小波お伽噺のなかでも一番馴染みのものである。この時期の作品は、大部分が清国を暗喩するキャラクターの一人芝居による失敗談だが、この鳶の失敗ぶりは、「鳶ほりよ、りょ」という語呂合わせの洒落もうまくいって、その代表といっていいものになっている。
《引用終了》
題名の「ほりよ、りよ」は最後まで読むと判る。]
ペルリ上陸の大きな記念碑の建っている久里浜の一角に、一泊がけで遊んだ時は、何よりも鳶の多いのに驚かされた。鳶の声で目を覚したのは、この時が最初の経験である。一泊した家の外側が直(す)ぐ広い砂地で、そこに魚か何かが干してあったから、それを狙って来るのであろう。多くの鳶は悠々と空に輪を描かず、砂の上に下りて頻(しきり)に鳴き立てる。全くうるさい位であった。鳶の少くなった今の東京でも、東京港となった芝浦の空には、しばしば鳶の飛翔するのを見かける。あれは御浜御殿(おはまごてん)の鬱蒼たる立木の中に、巣があるために相違ないが、同時に彼らの餌が絶無でない結果と思われる。
[やぶちゃん注:「御浜御殿(おはまごてん)」現在の東京都中央区浜離宮庭園にある都立庭園浜離宮恩賜庭園。]
大正十一年であったか、亡友井浪泊村(いなみはくそん)君が須磨に病を養っていた頃、送って来た句稿の中に、鳶を詠んだものが沢山あった。今おぼえているのは、「亦今日も午後の曇や鳶の秋」という一句に過ぎぬが、その句が多いだけ須磨の空には多くの鳶が飛翔し、病牀(びょうしょう)の泊村君は窓外に眼を放って無聊(ぶりょう)を慰めつつあるものと想像された。同君を須磨に見舞ったのは八月の暑い頃で、蒼茫と暮れて行く海の色を見ながら、夜に入るまで雑談に耽ったが、鳶の事は記憶にない。その後また暫く須磨におった時分の句に、「秋の鳶返りつゝ鬪へり」というのがある。あるいは須磨の鳶は秋に入って特に人の眼に親しくなるのかも知れない。元禄時代にも
鳴(なき)もせで鳶の山行(ゆく)須磨の秋 史顯
という句があるから、古人も夙(つと)に、須磨の鳶に著眼していたのである。山を負い海を控えた須磨のような土地に、多くの鳶が飛翔するのは当然でなければならぬ。
[やぶちゃん注:「大正十一年」一九二二年。
「井浪泊村」不詳。]
岡本綺堂氏の随筆に「鳶」という一篇があって、東京に鳶の多かった時代から、次第に少くなった昭和年間にまで説き及ぼしてある。麹町に生れた綺堂氏は子供の時分から鳶は毎日のように見ており、トロトロトロというような鳴声も聞慣れていた。鳶に油揚を攫われるという事実もしばしばあったし、肴屋が盤台をおろして肴を拵えているところへ、鳶が突然舞下って来て、魚や魚の腸(はらわた)などを攫み去ることも珍しくなかった、と書いてある。日露戦争前に東京に来ていた英国の留学生が、大使館の旗竿に鳶がとまっているのを見て、「鳶は男らしくて好い鳥です。しかしロンドン附近ではもう見られません」というのを聞き、心ひそかにおかしく思ったが、その鳶もいつか保護鳥になり、東京人もロンドン人と同じく、鳶を珍しがる時代が来た。自然の運命であるから、特に感傷的の詠歎を洩すにも及ばないが、「鳶の衰滅に對して一種の悲哀を感ぜずにはゐられない」というのである。都市の発展に伴う鳶の衰滅は、明治より大正昭和に至る変遷の一片であるが、「鳶」の書かれた昭和十一年から、約二十年たった今日でも、東京の鳶は絶滅に帰していない。大東京の空は以前とは比較にならぬ広さだから、まだまだ当分は高く舞う彼らの姿を眺め得るはずである。
[やぶちゃん注:『岡本綺堂氏の随筆に「鳶」』昭和一一(一九三六)年五月発行の『政界往来』初出。後の単行本「思ひ出草」「綺堂むかし語り」に収録された。後者が「青空文庫」で電子化されており、こちらで読める。]
後徳大寺実定(ごとくだいじさねさだ)は寝殿に鳶がとまらぬように、屋の棟に縄を張った。西行法師がそれを見て、「鳶の居たらむ、何かは苦しかるべき。この殿の御心さばかりにこそ」といって、その後は実定のところへ行かなくなつた。しかるに綾小路(あやのこうじの)宮(性恵法親王)の小坂殿(こさかどの)の棟に、やはり縄を引かれたことがあったので、これも実定のような事かと思ったら、「鳥の群れ居て、池の蛙を取りければ、御覧じ悲ませ給ひてなむ」という慈悲に基づくものであった。後徳大寺にも何か理由があったのかも知れぬ。――こういう話が『徒然草』に出ている。藤岡東圃(ふじおかとうほ)博士の説によると、西行が実定のところへ行かなくなったのは、更に大なる理由があったからで、鳶のために縄を張ったというような瑣々(ささ)たる話ではない、ということだったと思うが、そう脱線していては際限がないから、穿鑿には及ばぬこととする。もし鳶に手近な目的があって屋の棟にとまるものとすれば、その対象が池の蛙であるにしろないにしろ、愉快な事柄ではあるまい。われわれでもかつて雞(とり)を飼っていた頃、鳶が低く舞い過ると、雞が一斉に怕(おそ)れて声を立てるので、長閑(のどか)なるべき鳶の影にも、あまり親しみを感じなかった経験を有するからである。
[やぶちゃん注:文中の「綾小路(あやのこうじの)宮」の読みの「の」は私が恣意的に補ったもので底本にはない。
「後徳大寺実定」公卿で歌人の徳大寺実定(保延五(一一三九)年~建久二(一一九二)年)のこと、別名を「後徳大寺左大臣」と称したことから、「後」が附されてある。右大臣徳大寺公能(きんよし)の長男。最終官位は正二位・左大臣。親幕派で源頼朝から厚く信頼された。西行はその昔、徳大寺左大臣の家人(けにん)で、彼は元主君あった。
「綾小路(あやのこうじの)宮(性恵法親王)」(生没年未詳)「しょうえほうしんのう」と読む。鎌倉後期の亀山天皇の皇子。母は三条公親(きんちか)の娘。弘安七(一二八四)年に天台宗妙法院で出家、翌年、親王となり、後、同院門跡となった。「綾小路宮」は通称。
「小坂殿(こさかどの)」不詳。妙法院内の性恵の居所の通称か、或いは、妙法院そのものの別号かも知れない。
「こういう話が『徒然草』に出ている」第十段。
*
家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、假(かり)の宿りとは思へど、興あるものなれ。
よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も一きはしみじみと見ゆるぞかし。今めかしく、きらゝかならねど、木立、もの古(ふ)りて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子(すのこ)・透垣(すいかい)のたよりをかしく、うちある調度も昔覺えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。
多くの工(たくみ)の、心を盡してみがきたて、唐(から)の、大和の、めづらしく、えならぬ調度ども並べ置き、前栽(せんざい)の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。さてもやは長らへ住むべき。また、時の間(ま)の烟(けぶり)ともなりなんとぞ、うち見るより思はるる。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。
後德大寺大臣(ごとくだいじのおとど)の、寢殿に鳶ゐさせじとて、繩を張られたりけるを、西行が見て、
「鳶のゐたらんは、何かは苦しかるべき。この殿(との)の御心(みこころ)、さばかりにこそ。」
とて、その後は參らざりけると聞き侍るに、綾小路宮の、おはします小坂殿の棟(むね)に、いつぞや繩を引かれたりしかば、かの例(ためし)思ひ出でられ侍りしに、
「まことや、烏の群れゐて、池の蛙をとりければ、御覽じかなしませ給ひてなん。」
と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覺えしか。德大寺にも、いかなる故(ゆゑ)か侍りけん。
*
「藤岡東圃」東京帝国大学助教授で国文学者(専門は国文学史)の藤岡作太郎(明治三(一八七〇)年~明治四三(一九一〇)年の号。
「西行が実定のところへ行かなくなったのは、更に大なる理由があった」私は藤岡氏の論考を読んだことがないので、不詳。ただ、この話、「徒然草」にやや先行する「古今著聞集」の「卷第十五 宿執」にも「西行法師、後德大寺左大臣實定・中將公衡等(ら)の在所を尋ぬる事」と題した一章としても載っており、そこではこの実定が、かくも物や金やに激しく執着し、主に経済上の問題から正妻をもないがしろにして別な女性に走っていたこと(新潮古典文学集成の頭注に有り)、また、彼の一族が出家に踏み切れぬことなどに対し、西行が完全に愛想を尽かしている様子が語られており、藤岡氏の言っているのは、或いはそうしたものと関係があるのかも知れぬ。
「雞(とり)」鶏(にわとり)。]
以上のように見て来ると、鳶のわれわれに与える印象も大分複雑である。別所氏は「この鳥も視力が強く、遠くよりおろし来って、ヘビや、ネズミをとり、腐肉を食して、人間を助ける」という功績を認められた。鳶が保護鳥になっているのもそのためであろうが、この能力が一面において油揚を攫い、魚や魚の腸を掠(かす)め去る上にも役に立っている。遂には人間にして白昼搔払(かっぱら)いを働く者が、昼鳶(ひるとんび)の尊称を受けるに至るのだから、なかなか油断は出来ない。尤も俳人はそんな点に深く拘泥せぬ。林若樹(はやしわかき)氏のいわゆる風流無責任論で、菜畑に舞う翩々たる蝶の姿も、卵を産みつけに来るのだと思えば、可憐とのみいい去ることは出来ぬかも知れぬが、俳人は蝶の前身や後身に思(おもい)を致さず、ただ眼前の姿の美を句にしている。「胡蝶にもならで秋ふる葉蟲かな」というような見方をしている者は極めて少い。鳶についてもまた同様であろう。
[やぶちゃん注:「林若樹」(明治八(一八七五)年~昭和一三(一九三八)年)は在野の考古学及び民俗学研究者で古書古物の収集家。本名は若吉。東京生まれ。ウィキの「林若樹」によれば、『早くに両親を失い、叔父の林董』(ただす 嘉永三(一八五〇)年~大正二(一九一三)年:旧幕臣で外交官・政治家)『に養われる。祖父の林洞海』(どうかい 文化一〇(一八一三)年~明治二八(一八九五)年:蘭方医で幕府奥医師)『から最初の教育を受け、病弱であったため』、『旧制第一高等学校は中退する。その頃から遠戚にあたる東京帝国大学の教授・坪井正五郎の研究所に出入りし』、『考古学を修める。遺産があったので定職に就かず、山本東次郎を師として大蔵流の狂言を稽古し、狂歌・俳諧・書画をたしなみ、かたわら古書に限らず』、『雑多な考古物を蒐集する』明治二九(一八九六)年、『同好の有志と「集古会」を結成。幹事となり』、『雑誌『集古』の編纂をする。人形や玩具の知識を交換し合うために』、明治四二(一九〇九)年に『「大供会」を結成。「集古会」「大供会」「其角研究」などの定期的ではあるが』、『自由な集まりを通じて』、『大槻文彦・』『山中共古・淡島寒月・坪井正五郎・』『三田村鳶魚・内田魯庵・』『寒川鼠骨・』『森銑三・柴田宵曲といった人々と交流し、自らの収集品を展覧に任せた』(下線やぶちゃん)。]
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