江戸川乱歩 孤島の鬼(29) 三日間
三日間
諸戸の想像した通りだとすれば、彼の父の丈五郎は、そのからだの醜さに輪をかけた鬼畜である。世に比類なき極重悪人である。悪業成就(じょうじゅ)のためには、恩愛の情なぞ顧みる暇(いとま)はないのであろう。また道雄の方でも、すでにたびたび述べたように、決して父を父とは思っていない。父の罪業をあばこうとさえしている。この、世の常ならぬ親子が、一つ家に顔を見合わせていたのだから、ついに、あのような恐ろしい破綻(はたん)がきたというのは、まことに当然のことであった。
平穏な日は、私たちが島に到着してから、たった三日間であった。四日目には私と諸戸とはもう口を利くことさえ叶わぬ状態になっていた。そして、その同じ日、岩屋島の住民が二人、悪鬼の呪いにかかって、例の人喰いのほら穴、魔の淵の藻屑(もくず)と消えるような悲惨事さえ起こった。
だが、その平穏無事な三日間にも、しるすべき事柄がなかったのではない。
その一つは、土蔵の中の双生児についてである。私が諸戸屋敷に最初の夜を過ごした翌朝、土蔵の窓の双生児を垣間見て、その一方の女性(つまり日記にあった秀ちゃん)の美貌にうたれたことは前章にしるした通りだが、異様なる環境が、この片輪娘の美しさを際立たせたとしても、その垣間見の印象が、あれほど強く私の心をとらえたというのは、なんとやらただ事ではない感じがした。
読者も知るように、私はなき木崎初代に全身の愛を捧げていた。彼女の灰を呑みさえした。諸戸と一緒にこの岩屋島へきたのも、初代の敵を確かめたいばっかりではなかったか。その私が、たった一と目見たばかりの、しかも因果なかたわ娘の美しさにうたれたというのは、別の言葉を使えば、愛情を感じたことである。恋しく思ったことである。そうだ、私は白状するが、かたわ娘秀ちゃんに恋を感じたのである。ああ、なんという情ないことだ。初代の復讐を誓ったのは、まだきのうのように新しいことである。現にいま、お前はその誓いを実行するために、この孤島へきているのではないか。それが、到着するかしないに、人もあろうに、人外のかたわ娘を恋するとは。私はこうも見下げ果てた男であったのかと、そのときはそんなふうにわれとわが身を恥じた。
しかし、いかに恥かしいからといって、恋する心は、どうにもできぬ真実である。私は何かと口実を設け、我が心に言いわけをしながら、ひまさえあれば、ソッと屋敷を抜け出して、例の土蔵の裏手へ廻るのであった。
ところが、二度目にそこへ行ったとき、それは最初秀ちゃんを垣間見た日の夕方であったが、私にとって、一そう困ったことが起こった。というのは、そのとき、秀ちゃんの方でも、一方ならず私を好いていることがわかったのだ。なんという因果なことだ。
たそがれの靄(もや)の中に、土蔵の窓がパックリと黒い口をひらいていた。私はその下に立って、辛抱強く娘の顔の覗くのを待っていた。待っても待っても、黒い窓にはいつまでたってもなんの影もささぬので、もどかしさに、不良少年みたいに、私は口笛を吹いたものだ。すると、寝そべっていたのが、いきなり飛び起きた感じで、秀ちゃんのほの白い顔が、チラと覗き、アッと思う間に、何かに引っぱられでもしたように、引っ込んでしまった。一瞬間ではあったが、私は秀ちゃんの顔が、私に向かってニッコリ笑いかけたのを見のがさなかった。そして「吉ちゃんのほうがやいていて、秀ちゃんを覗かせまいとするんだな」と想像すると、なんとやらくすぐったい感じがした。
秀ちゃんの顔が引っ込んでしまっても、私はその場を立ち去る気にはなれず、未練らしくじっと同じ窓を見上げていたが、ややあって、窓から私を目がけて、白いものが飛び出してきた。紙つぶてだ。足元に落ちたのを拾い上げて、ひらいて見ると、次のような鉛筆書きの手紙であった。
わたしのことわ本をひろうた人にきいてください、そうしてわたしをここからだしてください、あなたわきれいでかしこい人ですから、きっとたすけてくださいます。
非常に読みにくい字だったけれど、私は幾度も読み直してやっと意味をとることができた。「あなたわきれいで」というあからさまな表現には驚いた。例の日記帳の記事から想像しても、秀ちゃんの綺麗という意味は、われわれのとは少しちがっているのだけれど。
それから、同じ土蔵の窓に、実に意外なものを発見するまでの三日間、私は五、六度もそこへ行って(たった五、六度の外出に私はどんな苦心をしたことだろう)、人知れず秀ちゃんと会った。家人に悟られるのを恐れて、お互いに言葉をかわすことは控えたが、私たちは一度ごとに、双方の眼使いの意味に通暁(つうぎょう)して行った。そして、ずいぶん複雑な微妙な眼の会話を取かわすことができた。秀ちゃんは字はへただったけれど、また世間知らずであったけれど、生れつき非常にかしこい娘であることがわかった。
眼の会話によって、吉ちゃんが秀ちゃんをどんなにひどい目に合わせるかがわかった。ことに私が現われてからはやきもちを焼いて、一層ひどくするらしい。秀ちゃんはそれを眼と手まねで私に訴えた。
あるとき秀ちゃんをつきのけて、吉ちゃんの青黒い醜い顔が恐ろしい眼で長いあいだ私の方を睨むようなこともあった。その顔の不快な表情を、私は今でも忘れない、ひがみとねたみと、無智と、不潔との、けもののように醜悪無類な表情であった。それが、まるで睨みっこみたいに、瞬きもせず、執念深く私の方を見つめているのだ。
双生児の片割れが醜悪なけだものであることが、秀ちゃんへの憐みの情を一倍深めた。私は一日一日と、このかたわ娘が好きになって行くのをどうすることもできなかった。それが私にはなんだか前世からの不幸なる約束事のようにも感じられた。顔を見かわすたびごとに、秀ちゃんは早く救い出してくださいと催促した。私はなんの当てがあるでもないのに、
「大丈夫、大丈夫、今にきっと救って上げるから、もう少し辛抱してください」と胸をたたいて、可哀そうな秀ちゃんを安心させるようにした。
諸戸屋敷には幾つかの開かずの部屋があって、土蔵はいうまでもなく、そのほかにも、入口の板戸に古風な錠前のかかった座敷があちこちに見えた。諸戸の母親や男の召使いなどが、それとなく絶えず私たちの行動を見張っていたので、自由に家の中を歩き廻ることもできなかったが、私は雪時、廊下を間違ったと見せかけてソッと奥の方へ踏み込んで行き、開かずの部屋のあることを確かめることができた。ある部屋では、気味のわるい唸り声が聞こえた。ある部屋では何かが絶えずゴトゴト動いている気配がした。それらはすべて、動物のように監禁された人間どもの立てる物音としか考えられなかった。
薄暗い廊下にたたずんで、じつと聞き耳を立てていると、いい知れぬ鬼気に襲われた。諸戸はこの屋敷にはかたわ者がウジャウジャしているといったが、開かずの部屋には土蔵の中の怪物(ああ、その怪物に私は心を奪われているのだ)にもました、恐ろしいかたわ者どもが監禁されているのではなかろうか。諸戸屋敷はかたわ屋敷であったのか。だが丈五郎は、なぜなれば、そのようにかたわ者ばかり集めているのであろう。
平穏であった三日間には、秀ちゃんの顔を見たり、開かずの部屋を発見したほか、もう一つ変ったことがあった。ある日、私は諸戸が父親のところへ行ったきり、いつまでも帰らぬ退屈さに、少し遠出をして、海岸の船着場まで散歩したことがあった。
来たときには夕闇のために気づかなかったが、その道の中ほどの岩山の麓に、ちょっとした林があって、その奥に一軒の小さなあばら家が見えていた。この島の人家はすべて離れ離れに建っているのだが、そのあばら家は、ことに孤立している感じだった。どんな人が住んでいるのかと、ふと出来心で、私は道をそれて林の中へはいて行った。
その家は、家というよりも小屋といったほうがふさわしいほどの小さな建物で、しかも、到底住むに耐えぬほど荒れすさんでいた。その小屋の地面は小高くなっていたので、海も、例の対岸の牛の寝た形の岬も、さては魔の淵といわれる洞窟さえも、すべて一望のうちにあった。岩屋島の断崖は複稚な凹凸をなしていて、その一ばん出っ張った部分に魔の淵のほら穴があった。
奥底の知れぬほら穴は、魔物の黒い口のようで、そこにうち寄せる波頭が、恐ろしい牙に見えた。見つめていると、上部の断崖に魔物の眼や鼻さえも想像されてくる。都に生れ育った世間知らずの私には、この南海の一孤島は、あまりにも奇怪なる別世界であった。数えるほどしか人家のない離れ島、古城のような諸戸屋敷、土蔵にとじこめられた双生児、開かずの部屋に監禁されたかたわ者、人を呑む魔の淵の洞窟、すべてこれらのものは、都会の子には、奇怪なるおとぎ話でしかなかったのだ。
単調な波の音のほかには、島全体が死んだように静まり返って、見渡す限り人影もなく、白っぽい小石道に、夏の日がジリジリと焦げついていた。
そのとき、ごく間近いところで咳払いの音がして、私の夢見心地を破った。振り向くと、小屋の窓に一人の老人が寄りかかって、じつと私の方を見つめていた。思い出すと、それは、私たちがこの島に着いた日、この辺の岸にうずくまって、諸戸の顔をジロジロと眺めていた、あの不思議な老人にちがいなかった。
「お前さん、諸戸屋敷の客人かな?」
老人は私がふり向くのを待っていたように話しかけた。
「そうです。諸戸道雄さんの友だちですよ。あなたは、道雄さんをご存じでしょうね」
私は老人の正体を知りたくて、聞き返した。
「知ってますとも。わしはな、むかし諸戸屋敷に奉公しておって、道雄さんの小さい時分抱いたり負んぶしたりしたほどじゃもの、知らいでか。じゃが、わしも年をとりましたでな。道雄さんはすっかり見忘れておいでのようじゃ」
「そうですか。じゃあ、なぜ諸戸屋敷へきて、道雄さんに会わないのです。道雄さんもきっと懐かしがるでしょうに」
「わしはごめんじゃ。いくら道雄さんにあいとうても、あの人畜生(にんちくしょう)の屋敷の敷居を跨(また)ぐのはごめんじゃ。お前さんは知りなさるまいが、諸戸の佝僂夫婦は、人間の姿をした鬼、けだものやぞ」
「そんなにひどい人ですか。何か悪いことでもしているのですかね」
「いやいや、それは聞いてくださるな、同じ島に住んでいるあいだは、迂潤なことをいおうものなら、わが身が危ない。あの佝僂さんにかかっては人間の命はちりあくたやでな。ただ、用心をすることや。旦那方はこれから出世する尊いからだや。こんな離れ島の老人にかまって、危ない目を見ぬように用心が肝腎やな」
「でも丈五郎さんと道雄さんは親子の間柄だし、私にしてもその道雄さんの友だちなんだから、いくら悪い人だといって、危ないことはありますまい」
「いや、それがそうでないのじゃ。現に今から十年ばかり前に、似たようなことがありました。その人も都からはるばる諸戸屋敷を訪ねてきた。聞けば丈五郎の従兄弟(いとこ)とかいうことであったが、まだ若い老先(おいさき)の長い身で、可哀そうに、見なされ、あのほら穴のそばの魔の淵というところへ、死骸になって浮き上がりました。わしはそれが丈五郎さんの仕業だとはいわぬ。じゃが、その人は諸戸屋敷に逗留していられたのや。屋敷のそとへ出たり、舟に乗ったりしたのを見たものは誰もないのや。わかったかな。老人のいうことに間違いはない。用心しなさるがよい」
老人はなおも、諄々(じゅんじゅん)として諸戸屋敷の恐怖を説くのであったが、彼の口ぶりはなんとなく、私たちも、十年以前の丈五郎の従兄弟という人と同じ運命におちいるのだ、用心せよといわぬばかりであった。まさかそんなばかなことがと思う一方では、都での三重の人殺しの手並みを知っている私は、もしやこの老人の不吉な言葉がほんとうになるのではあるまいかと、いやな予感に、眼の先が暗くなって、ゾッと身震いを感じるのであった。
[やぶちゃん注:「諄諄と」相手にわかるようによく言い聞かせるさま。]
さて、その三日のあいだ、諸戸道雄のほうはどうしていたかというと、
私たちは、毎晩枕を並べて寝たが、彼は妙に無口であった。口に出してしゃべるには、心の苦悶があまりに生々(なまなま)しすぎたのかもしれない。昼間も、彼は私とは別になって、どこかの部屋で、終日佝僂の父親と睨み合っているらしかった。長い用談をすませて、私たちの部屋へ帰ってくるたびに、ゲッソリと窶(やつ)れが見え、青ざめた顔に眼ばかり血走っている。そしてムッツリとだまりこんで、私が何を尋ねても、ろくろく返事もしないのだ。
[やぶちゃん注:前の「さて、その三日のあいだ、諸戸道雄のほうはどうしていたかというと、」での改行は底本のママ。実は、この次の章にも出てくるので、組み版の誤りではないようである。]
だが、三日目の夜、ついに耐え難くなったのか、彼はむずかった子供みたいに蒲団の上をゴロゴロころがりながら、こんなことを口走った。
「ああ、恐ろしい。まさかまさかと思っていたことが、ほんとうだった。もういよいよおしまいだ」
「やっぱり、僕たちが疑っていた通りだったの」
私は声を低めて尋ねてみた。
「そうだよ。そして、もっとひどいことさえあったのだよ」
諸声は土色の顔をゆがめて、悲しげに言った。私は、いろいろと彼のいわゆる「もっとひどいこと」について尋ねたけれど、彼はそれ以上何もいわなかった。ただ、
「あすはキッパリと断わってやる。そうすればいよいよ破裂だ。蓑浦君、僕は君の味方だよ。力をあわせて悪魔と戦おうよ。ね、戦おうよ」
といって、手を延ばして私の手首を握りしめるのだった。だが、勇ましい言葉に引きかえて、彼の姿のなんとみじめであったことか。無理もない、彼は実の父親を悪魔と呼び、敵に廻して戦おうとしているのだ。やつれもしよう。私は慰める言葉もなく、わずかに彼の手を握り返して、千万の言葉にかえた。