柴田宵曲 俳諧博物誌(5) 龍 一
柴田宵曲 俳諧博物誌 龍
龍
一
『荘子(そうじ)』に屠龍之技(とりょうのぎ)ということがある。龍を屠(ほふ)る技を学んで、三年にして技成ったのはいいが、遂にその技を用いる所がなかった。爾来実際の役に立たぬ技芸を屠龍之技と称するので、天下無用の徒には極めて工合のいい言葉だから、抱一はこの語を取って自分の・句集の名にした。『屠龍工随筆』とか「龍の庖丁」とかいう書名も、皆著者自身無用の書なりとする謙抑の意に外ならぬ。しかるに戦争中一時「屠龍」という飛行機が現れたのは、文字面の壮な方だけを見てその裏に存する故事を顧みなかったためであろう。戦争中たると平時たるとを問わず、飛行機のような実際的道具が屠龍であった日には、卒然として存在の意義を失うわけである。俳句は抱一が句集に名づけた通り屠龍之技であるかどうか、人によって種々の見解があろうと思うが、そういう面倒な議論はともかくとして、古来の句集を点検して見ると、龍を俎上に上(のぼ)せた句は相当出て来る。屠龍之技たる俳句が龍を如何に料理しているかということは、見方によっては面白い問題になるかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「屠龍之技」は「荘子」の「雑篇」の「列御寇(れつぎょこう)」に出る。
*
朱泙漫學屠龍於支離益、單千金之家。三年技成、而無所用其巧。
*
(朱泙漫(しゆひやうまん)、龍(りゆう)を屠(ほふ)るを支離益に學び、千金の家(か)を單(つく)せり。三年にして技(わざ)成るも、其の巧(こう)を用ふる所、無し。)
*
「家」は家産。財貨。但し、本来の荘子の思想に従うなら、これこそ「無用の用」の最たる在り方であり、パラドキシャルに実用性が全くないが故にこそ真に絶対の価値がある技術と言えるのである。ただ、この「雑篇」そのものが老荘思想から外れた内容をかなり含み、正しく語っているものでも別な解釈を許してしまう多面的な属性を多く孕んでしまっている。また後世、「荘子」自体が儒家や載道派から確信犯に表面的歪曲的に読まれ、これも、ただ「無益で役に立たぬことの譬え」としてしか生きていない故事成句に成り下がってしまっているのである。私は科学技術は真の科学ではないと考えている。人倫に基づくべき科学をやすやすと越えてしまってずっと先へ行ってしまった科学技術は価値ある技術であるとは考えていないのである。無為自然の絶対原理を侵し、クローンを生成し、人工知能を作り、原子力によって人類自らが破滅せんとする今、まさに「屠龍之技」こそ復権すべき荘子の思想であると私は大真面目に考えている。
『「屠龍」という飛行機』第二次世界大戦中の大日本帝国陸軍の二式複座戦闘機(試作名称:キ四五改)の愛称。川崎航空機が開発製造した。初飛行は昭和一六(一九四一)年五月で、生産数は一千六百九十機で、運用開始は同年十月であった。ウィキの「二式複座戦闘機」によれば、一九三〇年代半ばから一九四〇年(昭和十五年)頃にかけては、『航空先進国の欧米の航空技術者たちの間では「双発万能戦闘機」なる機体の開発が盛んに行われていた。双発機は単発機より航続距離が長く、爆撃機に目的地まで随伴し護衛が可能。運動性は単発機に劣るが、二基エンジンの大出力で単発機を上回る高速で、これをカバーする。武装(機関銃/機関砲)は機首に集中装備、これをカメラに変えれば写真偵察機となる。大出力と大柄な機体により、搭載力が大きく爆撃機』乃至『攻撃機として多くの爆弾やロケット弾を搭載可能で、航法装置や強力な通信機を搭載、複座として後部乗員を航法士・通信士とすることで嚮導機・指揮機ともできる。結果、一機種で戦闘・爆撃・偵察・指揮など多用途な機種として、P-38 ライトニング、メッサーシュミット Bf110やポテ 631といった機体が次々と現れた』。『これに影響を受けた日本陸軍は』昭和十二年に『主要航空機メーカーに対し』、『双発複座戦闘機の研究開発を命令、川崎造船所(のちの川崎航空機)にはキ38の名で開発を命じ』、二年後の昭和十四年一月には『試作1号機が完成した。しかしながら、装備されたハ20乙エンジンは馬力不足なうえ』、『故障が続出、テスト飛行の結果も軍の要求を到底満足させるものではなく、キ45の性能は遠く要求に及ばなかった。また、機体にもナセルストール』(『飛行姿勢の変化等の条件により、エンジンカウリングからナセル(エンジン取り付け部)に至る空気の流れが乱れて主翼上面の空気を剥離させ、揚力を奪う現象。墜落につながる』)『を引き起こすという問題がつきまとった』。『キ45は不採用になったが、双発複座戦闘機の実用化を強く要望する陸軍は』、『開発の継続を川崎に命じ』、曲折を経、『キ45改』『試作1号機が昭和一六(一九四一)年九月に完成、翌昭和一七年二月、『二式複座戦闘機として制式採用された』。『二式複座戦闘機は当初、爆撃機の護衛という遠距離戦闘機(遠戦)的な運用がなされた。独立飛行第』八十四『中隊に配備された二式複戦は』、昭和十七年六月、『中国大陸の広東方面において爆撃隊の護衛として桂林攻撃に参加、アメリカ義勇航空隊(AVG)「フライング・タイガース」のP-40B/C トマホークと対戦したが、この戦いで二式複戦は惨敗を喫した。同隊は同年』九『月、ハノイにおいてもP-40E キティホークと戦って敗れた。これらの事実は、二式複戦が単発戦闘機とまともに戦えないということを示していた』(但し、これは『他国においても』、『類似した例は散見されている』)。『二式複戦はあらゆる戦域の部隊に配備され、進攻戦のみならず』、『迎撃戦や船団護衛など多くの任務に用いられたが、二式複戦を配備された戦闘隊では本機の評判は芳しくなかった。最大速度はカタログ上の数値で540km/h(実戦部隊の機体の速度はこれより低い)に過ぎず、運動性は単発単座機である一式戦闘機「隼」や二式戦闘機「鍾馗」に著しく劣った。大型機迎撃に威力を発揮したものの、護衛の戦闘機が随伴してくる場合には』、『これに撃墜されることも多かった。二式複戦を配備された部隊の中には、機材の消耗に伴い』、『一式戦や二式戦に機種変更する部隊もあった。一方、九九双軽に換わって軽爆隊に配備され対地対艦攻撃に使用された二式複戦の評判は上々であった。対地、対艦用にホ203 37mm機関砲1門を装備した丙型(キ45改丙)を受領した一部の部隊では二式双発襲撃機とも呼ばれた』。『しかし、それらの中で二式複戦が最もその威力を発揮したといえるのが、日本本土防空戦におけるB-29迎撃任務』であった。『二式複戦は日本本土の防空部隊にも配備され』、昭和十七年四月の日本本土に対する初めての空襲となった『ドーリットル空襲』(B-25双発爆撃機ミッチェル十六機による)『の際には出撃したものの、会敵できずに終わった。B-29による本土空襲が』昭和十九年六月に『開始されると(八幡空襲)、二式複戦を装備する飛行第』四『戦隊や飛行第』五『戦隊、飛行第』五十三『戦隊といった部隊が戦果を挙げた。特に山口県下関市小月飛行場に駐屯する第』十二『飛行師団隷下の第』四『戦隊は、日本の鉄鋼生産業の心臓部でもある北九州の八幡製鉄所を防空地区としていたこともあり、西部軍管区司令部直轄の来襲機情報の早期伝達、完全に整備された無線電話の積極的な活用、地上の戦隊長による戦隊指揮所から無線電話を利用しての部隊指揮、地上部隊(高射砲・照空灯)との緊密な協同戦、特に錬度の高い操縦者で構成されるなど、対B-29の本土防空部隊としては日本一の精鋭部隊とも称された。それらの準備は実戦においても生かされ、B-29の日本本土初爆撃となった』昭和一九(一九四四)年六月十五日から『迎撃戦に参加し、最多B-29撃墜王となった樫出勇大尉(B-29の』二十六『機撃墜を報告)を筆頭に多くのエース・パイロットを輩出し、以降』、『終戦に至るまで連日』、『出撃した』。『しかし、高性能のB-29を撃墜するには二式複戦では性能不足であり、有効な攻撃をかけることは難しかった。そのため、体当たり攻撃専門の空対空特攻隊(震天隊・回天隊)が一時編成された。通常攻撃の機でも体当たり攻撃は頻繁に行われた』。昭和二十年になって、『アメリカ軍が戦術を変えて夜間無差別爆撃を行うようになると、二式複戦は機首の大口径砲(37mm砲)と上向き砲(20mm砲)をフルに活用して戦果を重ねるようになるが、レーダーをはじめとする電波兵器を持たず』、『地上からの誘導と目視に頼らざるを得なかったため、ドイツ空軍の夜間戦闘機のように次々と目標を捕捉して撃墜するということ』は『出来なかった。レーダー装備の実験機は試作されたものの、実用化の域に達しておらず、実戦に使用することはできなかった。二式複戦は昼夜を問わずB-29迎撃に出撃したが、アメリカ海軍・海兵隊の艦載機が来襲する際には戦闘に参加できず、退避行動をとらなくてはならなかった』。昭和二十年四月に硫黄島が陥落すると、アメリカ陸軍航空軍のP-51D』(マスタング:North American P-51 Mustang)『がB-29に随伴するようになり、本機の昼間活動は封殺されてしまった』とある。]
龍はかなり古い時代から、俳諧の上に異様な姿を現しているが、貞門の作家の手に成ったものは、単なる思いつきの滑稽にとどまって、句として見るに足るものはない。
五月雨(さみだれ)の晴間や龍のけつまづき
貞室
夕立の切物きれもの)なれやのぼり龍 庚伽(こうか)
それが談林時代に入って来ると、趣向の奇を好む関係から、随分いろいろな龍が飛出して来る。談林時代ばかりではない。談林と蕉風との分水嶺のような形になっている『独吟二十歌仙』などを見ても、全体を通じて龍の字が頗る多い。「釣所形は龍に似て是(これ)はぜか」「霧深く飛脚は龍にまたがりぬ」「秋の海龍頭(りようたう)觀音の蛇(だ)を浮(うか)め」「或(ある)は霞に大龍之糞」「鼠か龍かいづれあやしき」「うづまく雲に龍の串ざし」「逆浪(さかなみ)に打(うつ)針飛(とび)て龍と化す」「龍の毛刷毛(けばけに)に露時雨(つゆしぐれ)降(ふる)」――これらの作者はいずれも蕉門の先駆者と目される人々である。尋常の趣向に甘んぜぬということと、新風の興起とに密接な関係があるならば、こういう龍も等閑視するわけに往かぬかも知れぬが、連句の世界まで話をひろげては、収拾すべからざる結果に陥る虞(おそれ)がある。『独吟二十歌仙』の龍は一瞥するだけにして、談林時代の龍を挙げなければならぬ。
[やぶちゃん注:「独吟二十歌仙」「桃青門弟独吟二十歌仙」。杉風等著・桃青(芭蕉)編。延宝八(一六八〇)年刊。]
芋糊(いものり)や龍を封じてけふの月 由々(ゆうゆう)
龍王のみゆきまたなん鮒の秋 如壽
棒鱈や雲あらざるに何の龍ゾ 常矩
けふぞ知る滿干(みちひ)を龍の眼玉(まなこだま)
言水(ごんすい)
錢やふらす龍の生捕(いけどり)初しばゐ
才葉
龍神のくさめいく度(たび)おそ櫻 友水
釜の淵(ふち)龍や水まく角粽(かくちまき)
高枕(かうちん)
太刀の魚獻上涼し龍の宮 流水
龍宮や檐(のき)の風鈴五月雨(さつきあめ)
義忠
けふぞ塩干龍のつまづき沖の石 心色(しんしき)
龍宮もけふは江戸なり鹽干潟 政信
夏の夜や龍宮の箱の鼠ども 幽山
けふぞ海龍女惜(をし)まん子安貝(こやすがひ)
靑松
三熱や龍の宮古の夕涼み 友可
親龍神いたゞく浪や生見魂(いきみたま)
泰德
鬼灯(ほうづき)や八歳(やつ)の龍女が袖の玉
正友
海老(ゑび)上﨟(じやうらう)龍の都や屠蘇(とそ)の酌
如蛙(ぢよあ)
比禮振(ひれふり)し龍女の聲や蘿(つた)の松
桐陰
五月雨や小龍の合羽(かつぱ)浮海月(うきくらげ)
山夕
五月雨や尾上(をのへ)の上の鐘も龍宮界
風虎
將棋さす人のもとにて
龍の駒卦引(けびき)の道をむかへけり 似卷(じくわん)
二十一句のうち半数以上は龍宮を扱ったものである。龍宮は海国日本における一の夢幻境で、古来多くの美しい伝説を残しているから、これらの句も龍宮文学の片鱗と見るべきであろう。尤も友水の「おそ櫻」の句は、同じく「龍神」の語は用いてあっても、陸上に祀られた神らしく思われる。その他は悉く海底の龍王宮である。心色が汐干の沖の石に「龍のつまづき」を持出したのは、貞室の後塵を拝した嫌があるけれども、汐が遠く干たために龍宮を江戸の内の如く感ずるという政信の句の方は、この時代のものとして或点まで気持が出ておらぬこともない。太刀の魚で太刀献上を利かせたり、鬼灯を龍女の袖の玉に擬したり、海老上﨟が屠蘇の酌をしたり、海月の浮いているのを小龍の合羽に見立てたり、談林一流の奇想簇出(そうしゅつ)するにかかわらず、俳句として成功の域に達せぬのは、この種の趣向が十七字詩に適せぬためで、黄表紙か何かの中にでも用いたら、あるいは気の利いた材料にならぬとも限らぬ。
[やぶちゃん注:「三熱」(さんねつ)とは仏語で主に神仙に成ることが出来る代わりに、竜蛇が受けねばならぬ三つの苦患(くげん)で、熱風・熱砂に身を焼かれること・悪風が吹きすさんで住処や着服類を奪われること・金翅鳥(こんじちょう:迦楼羅(かるら)。サンスクリット語で「ガル(ー)ダ」。インド神話に登場する鳥類の王で竜を常食するとされる聖鳥)に食われることを指す。
「卦引(けびき)」罫を引くこと・罫の引いてあるものを指すから、ここは将棋盤のこと。「簇出(そうしゅつ)」群がり出ること。しばしば「ぞくしゅつ」と読むが、あれは慣用読みであって本来は正しくない。]
龍宮以外の句でも、常矩の「棒鱈」は「阿房宮賦(あぼうきゅうのふ)」を利用した文字だけの龍である。将棋の駒を使ったのは一の思いつきであるが、龍馬は天上界に限らず、時に駿馬(しゅんめ)の場合に用いることがあるから、龍の影は稀薄になるかと思う。卦引の道を進むに至っては益々本物の龍らしくない。そこへ往くと安永年間の句に、
三 波(龍)
夕立や頷下(がんか)の珠(たま)の命置(おく)
桃甫
とあるのは、同じ将棋の句でも龍の趣を得たところがある。これだけ見たのでは何の事だかわからぬようであるが、「樗庵主(ちよあんじゆ)白溝戲(はくこうぎ)を造(つくる)、予、是を好(このむ)、局中に鷺鯉龍の三渡あり、此に楽しみて夏日の永きを忘る」という前書があり、白溝戯の下に「南京(ナンキン)ノ將棊(しやうぎ)也、印本(いんぽん)世ニアリ」と註してあるので意味が判然する。句中に龍の字を用いず、「頷下の珠」を以てそれを現したのである。南京将棊だから、盤も駒も常矩の詠んだのとは同じでないに相違ない。龍宮の句が奇を求めながら類型を脱し得ぬに反し、ちょっと人の思いもよらぬ奇趣を発揮したのが由々の句である。芋糊というものは実際にあるかどうか知らぬが、これは月見の芋から来た趣向と思われる。龍を封ずるのは雨を降らせぬためで、例の弘法大師が神泉苑で請雨経(しょううきょう)を修(しゅ)した際、七日に及んでも雨が降らぬのを怪しみ、定(じょう)に入って見たところ、競争相手の守敏が龍を悉く水瓶(みずがめ)の中に封じこめてしまって、ただ北天竺の境にある無熱池の龍王だけが洩れていることがわかった。乃(すなわ)ち修法を二日延べんことを乞い、はじめて甘雨到ると伝えられている。月見の場合はこれと反対に、雨が降られては困るから、天下の龍を皆水瓶の中か何かに押込め、芋の糊で固く封じようというのである。芋の糊では力が弱いかも知れぬが、そこが一の俳諧手段で、芋名月を利かせたことになるのであろう。
[やぶちゃん注:「阿房宮賦(あぼうきゅうのふ)」晩唐の名詩人杜牧(八〇三年~八五三年)の名作。原田俊介氏のサイトのこちらに原文及び阿房宮(始皇帝が建てようとした大宮殿で、咸陽の東南、渭河を越えた現在の陝西省西安市西方の阿房村に遺跡が残る。始皇帝の死後も工事が続いたが、秦の滅亡によって未完のままに終わった)の解説(ウィキの「阿房宮」への嵌め込みリンク。前の解説もそれを用いた)や現代語訳もある。
「安永年間」一七七二年から一七八一年。]
談林の句の特色は趣向の奇を競うところにある。杜甫のいわゆる「語不驚人死不休」を極めて浅い意味に実行するので、蕉門の徒が味得したような自然の境地には遂に到り得なかった。龍の如き題材を好んで用いるのもそのためであり、真に詩としての成功を収め得なかったのもそのためである。同じ龍宮や龍神を描くにしても、芭蕉以後の作品は自(おのずか)ら趣を異にしている。
[やぶちゃん注:「語不驚人死不休」はルビがあるが、底本ルビに従って訓読で示すと「語(ご)人を驚かさずんば死(し)すとも休(や)まず」となる。これは杜甫の「江上値水如海勢聊短述」(江上(こうしやう)水の海勢のごとくなるに値(あ)ひ聊(いささ)か短述す)という七律の一句である。この詩、必ずしも本邦では知られている杜甫の詩の一つとは言えない。杜甫五十歳の春、粛宗の上元二(七六一)年、安禄山の乱で幽閉されて辛くも逃げ延びてから四年後のことであった。原詩・訓読・注記(一部)は岩波文庫「杜詩」(第四冊・鈴木虎雄/黒川洋一訳注・一九六五年刊)を参考(敢えて底本としなかったのは仮名遣いが歴史的仮名遣でないためである)にした。
*
江上値水如海勢聊短述
爲人性僻耽佳句
語不驚人死不休
老去詩篇渾漫與
春來花鳥莫深愁
新添水檻供垂釣
故著浮槎替入舟
焉得思如陶謝手
令渠述作與同遊
江上(こうしやう)水の
海勢のごとくなるに値(あ)ひて
聊(いささ)か短述す
人と爲(な)り 性(せい)僻(へき)にして 佳句に耽(ふけ)る
語 人を驚かさずんば 死すとも休(きゆう)ず
老い去つて 詩篇渾(すべ)て漫與(まんよ)なり
春來たつて 花鳥深く愁ふること莫(な)かれ
新たに水檻(すいかん)を添へて垂釣(すいちよう)に供し
故(もと)より浮槎(ふさ)を著(つ)けて入舟(にふしう)に替(か)ふ
焉(いづく)んぞ 思ひ 陶謝(とうしや)のごとくなる手を得て
渠(かれ)をして述作せしめて與(とも)に同遊せん
*
・「江」錦江。現在の四川省省都成都市中心部を流れる長江水系の岷江の支流。川の流路の大部分は成都市域内を流れる。
・「値」たまたま出遇う。
・「僻」偏頗(へんぱ:かたより)であること。
・「語不驚人死不休」鈴木・黒田氏訳によれば、『人を驚かすような語を吐きだすまでは死んでも休まないというふうであった』とある。
・「漫與」漫然に同じい。とりとめもなくさらっとこうして短律で詠(うた)えるのは、最早、深刻な思いが失せたことを伝えている。「與」を「興」とするものもある。
・「春來花鳥莫深愁」鈴木・黒田氏訳によれば、『だから春かけて花や鳥も深く心配するには及ばないよ』とある。頷聯の規程通り、前句と綺麗な対句を成しながら、感懐の原因と結果を語って余りあり、しかも読む我々の誰もが、彼の先行する長安幽閉時の絶唱「春望」の同じ頷聯「感時花濺淚 恨別鳥驚心」(時に感じては花にも淚を濺(そそ)ぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす)を直ちにフラッシュ・バックさせる。結果としては心憎い手法となっている。
・「水檻」板で作った手摺り。
・「故著浮槎替入舟」鈴木・黒田氏訳によれば、『もとから水辺にはいかだをつないで舟に乗るのに』代えて『いるが』とあり、この頸聯の句を前後入れ替えて訳されておられる。対句であるから、入れ替えは全くおかしくなく、寧ろ、確かに、平生、水辺の草堂暮らしで、舟の代わりに筏を繫いでそぞろ行く邸内の一部のように使っているけれど、今度は新たに手摺りを設けて釣りをする場所に供しようかと思っている、という(意味だと私は思う)のはすこぶる腑に落ちる。
・「焉得」「ああ、何とかして~したい」であるが、多く反語で「不得」の意となる。ここも実際には「陶謝」(陶淵明や謝霊運)のような名詩人の「手」腕を得ることは到底私には出来ないのである。
・「思」詩想。文藻。
・「渠」彼ら。俗語。]
名月や龍神達の冠物(かぶりもの) 桃鯉
船に生(いき)よ濱の龍王の車百合(くるまゆり)
泰次(たいじ)
龍宮の鐘のうなりや花ぐもり 許六
元祿十七甲申年賀初老
龍宮に三日居たれば老の春 支考
越中生地にて
龍宮の連中何と春くれぬ 秋之坊
田原藤太(たわらとうだ)に龍宮から鐘を持帰る話があるが、そうでなくても水底に沈む鐘の話は龍神の連想を伴いがちである。幸田露伴翁は「土偶木偶」の中に「逢魔(あふま)が時は今ぞと告ぐる三井寺の鐘の音(ね)、大湖の氣に響きて深きに潛(ひそ)める龍王を覺(さ)ますかと凄(すさま)じく忽ちにごーんと起つて空に浪(なみ)なして響きぬ」と書いた。許六は彦根の人だから、琵琶湖の句であること疑を容れぬ。花曇の陰に籠って聞える鐘の唸りを、龍宮から響いて来るものとしたので、これなどは龍宮を使った句の中でも、最もすぐれたものの一であろう。仙家の一日は浮世の何年に相当するとかいう。浦嶋太郎が龍宮から帰って見たら已に何百年か経過していた。支考はこの意味で「龍宮に三日居たれば」といい、初老を賀する句としたものと思われる。
[やぶちゃん注:「車百合(くるまゆり)」単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属クルマユリ Lilium medeoloides。和名は茎に輪生する葉を車輪の輻(や)に譬えたことに由来するが、掲げたタイプ種は高山帯から亜高山帯にしか植生しないから、「濱」に咲いている以上、ここで言っているのは本種ではなく、恐らくは近縁種であるユリ属オニユリ Lilium lancifolium 或いは、低地の湿原に咲くこともあるコオニユリ Lilium leichtlinii ではないかと私は推定する。
「元祿十七甲申」一七〇四年。因みにこの年は元禄の最後で同年三月十三日(グレゴリオ暦一七〇四年四月十六日)宝永に改元されている。
「田原藤太(たわらとうだ)に龍宮から鐘を持帰る話がある」「田原藤太」は平将門追討や近江三上山の百足退治で知られる平安中期の貴族武将藤原秀郷(生没年未詳)。竜宮の鐘の話はその百足退治の後日談。サイト「龍学」(しばしばお世話になっている)の「田原藤太秀郷(鐘の話)」から引用させて貰う。
《引用開始》
瀬田の唐橋の下に棲む竜神に三上山の大百足退治を頼まれた秀郷は、見事に大百足を討ち取る。)竜神は喜び、取れども尽きぬ米俵、切れども減らぬ絹一疋、薪なしで煮える釜、慈尊出世を告げる名鐘を秀郷に贈った。
秀郷は名鐘を三井寺に奉納した。後、文保三年(1319)三井寺炎上の際、鐘は無動寺にあずけられた。しかし、無動寺ではどう撞いてもこの鐘が鳴らない。怒った法師どもは、鐘を谷へ突き落とし、砕いてしまった。
砕かれた鐘は三井寺に戻されたが、破片ではどうにもならず放っておかれた。すると、ある時一尺ほどの蛇が現われ、尾で鐘の破片をたたくと一夜のうちにもとどおりになり、痕ひとつのこらなかったという。
《引用終了》
『幸田露伴翁は「土偶木偶」の中に「逢魔(あふま)が時は今ぞと告ぐる三井寺の鐘の音(ね)、大湖の氣に響きて深きに潛(ひそ)める龍王を覺(さ)ますかと凄(すさま)じく忽ちにごーんと起つて空に浪(なみ)なして響きぬ」と書いた』引用部は誤りがあるため(冒頭「逢魔」を「大魔」とやらかしていて、全く以って話にならないからである。宵曲の引用は正直、杜撰が目立つ)、独自に所持する原作に当たり、恣意的に漢字を正字化、読みも歴史的仮名遣で独自に附した。「土偶木偶」は「どぐうもくぐう」と読む。幻想小説。明治三八(一九〇五)年日本新聞社の『日本の明治』に断続掲載したのが初出。引用部は「情難(じょうなん) 四」の掉尾。国立国会図書館デジタルコレクションの画像でも視認出来る。ここ。]
龍宮の人の天窓(あたま)や笠の雪 移竹
龍神も花見なりけん舟の上 口遊
龍神の棧敷(さじき)拜まむはるの月 大江丸
移竹の句には長い前書があるが、要するに雪夜貴人より迎を受け、駕(が)に乗って勿々(そうそう)に伺候すると、途中はどうであったかと尋ねられた。「浪をわける心して舁人(かまびと)の桐油(とうゆ)は袖廣くをかし」とあってこの句が出ているので、笠の雪を龍宮の人の天窓(あたま)に見立てたのである。口遊の句にも「いせに住(すみ)ける庭のさくらを江戸に移し侍るに二月十二日舟出して三月晦日(みそか)靑葉にて著船(ちやくせん)したるをうらみて」という前書がついている。伊勢から桜の木を江戸へ移したところ、途中一カ月半以上かかったので、著いた時には花は散って青葉になっていた。その間龍神がこの桜の花見をしたことであろう、といったのである。当時の輸送状況も想像出来るし、事柄としてもこの方が大分面白い。大江丸の句には前書はないが、恐らく春月朦朧たる海上を眺めやった場合の句であろう。龍宮という別天地を一つ覗いて見ても、談林以後における俳句の歩みはほぼ見当がつくのである。