《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 猪・鹿・狸
[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年十二月六日発行の『東京日日新聞』の「ブックレヴィュー」欄に掲載された。「猪・鹿・狸」は画家から民俗学者となった早川孝太郎(明治二二(一八八九)年~昭和三一(一九五六)年)が大正一五(一九二六)年十一月に郷土研究社から刊行した表題の三種の動物に纏わる、早川の郷里である愛知県の旧南設楽郡横山村(後注参照)を中心とした民譚集で、本篇はその書評である。底本は岩波旧全集を用いた。但し、元は総ルビであるが、読みが振れると私が判断したもののみのパラ・ルビとした。傍点「ヽ」は太字とした。簡単な注を後に附した。因みに、私はこの早川孝太郎の「猪・鹿・狸」を、いつか、全篇、電子化注したいと思っている。【2017年11月30日 藪野直史】念願であった早川孝太郎の「猪・鹿・狸」の全電子化注をブログの独立カテゴリで完遂した。是非、読まれたい【2020年4月12日 藪野直史】]
猪・鹿・狸
僕の養母の話によれば、幕末には銀座界隈にも狸の怪のあつたといふことである。酒に醉つた經師屋(けうじや)の職人が一人(或は親方だつたかも知れない)折か何かぶらさげながら、布袋屋(ほていや)の橫町へさしかゝると、犬が一匹道ばたに寢てゐた。犬は職人が通りかゝるが早いか、突然尾でも踏まれたやうにきやんと途方もない大聲を出した。職人は勿論びつくりした。するといつか下げてゐた折も足もとの犬も見えなくなつてゐた。これは狸が折を盜むために職人を化したとかいふ噂だつた。……
今日(こんにち)の銀座界隈に狸のゐないことは勿論である。いや、早川孝太郞さんの「猪・鹿・狸」(鄕土硏究社出版)の敎へるところによれば、遠江の國橫山にさへ狸の人を化すことはだんだん稀になつて行くらしい。しかしその話だけは未(いま)だに澤山殘つてゐる。のみならずそれは人跡の少ない山澤(さんたく)の氣(き)を帶びてゐるだけに經師屋の職人の話よりも底氣味(そこきみ)の惡いものを含んでゐる。
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──或男が日暮方(ひぐれがた)に通りかゝると、道の脇の石に腰をかけてゐる人があつた。かたはらへ寄つて見たら、それが男だか女だか、又前向きだか後向きだか薩張(さつぱ)り分らなんださうである。──
かういふ話は、世間に多い怪談より餘程無氣味である。尤も「猪・鹿・狸」はその標題の示す樣に狸の話ばかり書いたものではない。同時に又前に擧げたやうに氣味の惡い話ばかり書いたものでもない。僕はこの本を讀んでゐるうちに、時々如何にも橫山じみた美しい光景にも遭遇した。
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──又自分の村の山口某(ぼう)は山中の杣小屋(そまごや)へ、村から飛脚に立つた時途中の金床平(かなとこだひら)の高原で夥しい鹿を見たというた。(中略)金床平へ掛かつた時は、八月十五夜の滿月が晝のやうに明るかつたさうである。見渡す限り廣々とした草生(くさふ)へ掛かつて、初めて鹿の群(むれ)を見た時は、びつくりしたといふ。丸で放牧の馬のやうに、何十とかず知れぬ鹿が月の光を浴びて一面に散らかつてゐたさうである。人間の行くのも知らぬ氣に平氣で遊んでゐたのは恐ろしくもあつたが、見物(みもの)でもあつた。中には道の中央に立ふさがつたり、脇から後を見送つてゐるのもあつた。──
かういふ鹿の大群の話に、フロオベエルの「サン・ジユリアン」の狩(かり)の一節を思ひ出すものは僕ばかりではないかも知れない。「猪 ・鹿・狸」は民俗學の上にも定めし貢獻する所の多い本であらう。しかし僕の如き素人にもその無氣味さや美しさは少からず魅力のある本である。僕は實際近頃にこのくらゐ愉快に讀んだ本はなかつた。卽ち「オピアム・エツクス」をのむ合ひ間にちよつとこの紹介を草することにした。若し僕の未知の著者も僕の「おせつかい」をとがめずにくれれば仕合せであると思つてゐる。(一五・一一・二七)
[やぶちゃん注:「僕の養母」芥川龍之介の実母フクの兄で養父となった道章の妻トモ(儔)。
「經師屋」書画の幅(ふく)や屏風・襖(ふすま)・御経などを表装する職人。表具師。
「布袋屋」銀座(当時は尾張町)にあった呉服店の屋号。
「遠江の國橫山」愛知県の旧南設楽郡長篠村横山(現在の新城市横川。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「自分の村の山口某(ぼう)は……」これは「猪・鹿・狸」の「鹿」のパートの「十九 木地屋と鹿の頭」の掉尾にある話で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。
「金床平」恐らくは愛知県新城(しんしろ)市黄柳野金床(つげのかなどこ)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「フロオベエル」フランスの小説家ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert 一八二一年~一八八〇年)。
『「サン・ジユリアン」の狩(かり)の一節』一八七七年に刊行されたフロベールの短編小説集「三つの物語」(Trois Contes)の中の、聖人を題材にした「聖ジュリアン伝」(La Légende de Saint Julien l'Hospitalier)の第一節の後半、ジュリアンが狩りに出、擂鉢状の谷に無数の鹿が群れているのを発見し、残らず射殺すシークエンスを指す(ここは筑摩書房全集類聚版芥川龍之介全集の注記に拠った)。
「オピアム・エツクス」opium extract か。ケシから抽出された阿片エキス。アヘン末をエタノールに浸出させたもの。この頃、芥川龍之介は痛み止め(主に悪化していた痔疾に由来する痛み)や睡眠薬(神経衰弱)として齋藤茂吉から本剤を処方して貰っていたことが書簡(本脱稿の六日前の齋藤茂吉宛同年十一月二十一日附〔旧全集書簡番号一五二九(『アヘンエキス』送付懇請)・一五三〇(「オピウム」受領御礼)〕・同宛同年十二月四日附〔旧全集書簡番号一五三六(『オピウム每日服用致し居り』)〕・同宛同年十二月十三日〔旧全集書簡番号一五四一・『鴉片丸乏しくなり心細く』〕(総て鵠沼から)によって確認出来る。鴉片エキスの他、ホミカ・下剤・ベロナール・痔の座薬等、まさに薬漬けの痛ましい毎日であったことが知れる。
「(一五・一一・二七)」脱稿日。大正一五(一九二六)年十一月二十七日。この凡そ一ヶ月後の十二月二十五日に昭和に改元。自死のほぼ八ヶ月前。因みに本篇の発表された十二月六日の三日後の十二月九日は師夏目漱石の祥月命日で、盟友小穴隆一によれば、芥川龍之介はこの日に自殺を決行しようと考えていた時もあったとしている。私の『小穴隆一 「二つの繪」(12) 「漱石の命日」』を参照されたい。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介全作品事典」で本篇を担当した中島和也氏は『満月の光を浴びて高原に群なす鹿の姿を記した』早川の本文の『引用から「フロオベエルの「サン・ジユリアン」の狩の一節を思ひ出す」芥川の眼は、近代の日本が駆逐した幻想性の魅力に注がれる。そして、「僕は実際近頃にこのくらゐ愉快に読んだ本はなかつた」と率直に評しながら、一方で「オピアム・エツクス」を(麻酔薬)を飲む合間の仕事と』、『日常の薄暗さをシニカルに垣間みせる。当時の芥川の苦悶さえ窺わせる書評である』と評しておられるのには激しく同感するものである。満身創痍の龍之介の、たかが書評、されど、である。]