江戸川乱歩 孤島の鬼(36) 古井戸の底
古井戸の底
私たちは、その夜は諸戸屋敷の一と間に枕を並べて寝たが、私はたびたび諸戸の声に眼を覚まさなければならなかった。彼は一と晩じゅう悪夢にうなされつづけていたのだった。親と名のつく人を、監禁しなければならぬような、数日来の心痛に、彼の神経が平静を失っていたのは無理もないことである。寝ごとの中で、彼はたびたび私の名を口にした。私というものが彼の潜在意識にそんなにも大きな場所を占めているのかと思うと、私はなんだかそら恐ろしくなった。たとえ同性にもしろ、それほど私のことを思いつづけている彼と、こうして、そしらぬ顔で行動を共にしているのは、あまりに罪深い業ではあるまいかと、私は寝られぬままにそんなことをまじめに考えていた。
翌日も、例の五時二十五分がくるまでは、私たちはなんの用事もないからだであった。諸戸には、かえってそれが苦痛らしく、一人で海岸を行ったりきたりして時間をつぶしていた。彼は土蔵のそばへ近よることすら恐れているように見えた。
土蔵の中の丈五郎夫婦は、あきらめたのか、それとも三人の男の帰るのを心待ちにしているのか、案外おとなしくしていた。私は気になるものだから、たびたび土蔵の前へ行って、耳をすましたり、窓から覗いて見たりしたが、彼らの姿も見えず、話声さえしなかった。啞のおとしさんが、窓からご飯をさし入れるときには、母親の方が、階段をおりておとなしく受取りにきた。
かたわ者たちも、一と間に集まって、おとなしくしていた。ただ私が時々秀ちゃんと話をしに行くものだから、吉ちゃんの方が腹を立てて、わけのわからぬことをどなるくらいのものであった。秀ちゃんは話してみると、一そう優しくかしこい娘であることがわかって、私たちはだんだん仲よしになって行った。秀ちゃんは智恵のつきはじめた子供のように次から次と私に質問をあびせた。私は親切にそれに答えてやった。私はけだものみたいな吉ちゃんが、小面憎いものだから、わざと秀ちゃんと仲よくして、見せびらかしたりした。吉ちゃんはそれを見ると、まっ赤に怒って、からだを捻って秀ちゃんに痛い目を見せるのだ。
秀ちゃんはすっかり私になついてしまった。私に逢いたさに、えらい力で吉ちゃんを引きずって、私のいる部屋へやってきたことさえある。それを見て、私はどんなに嬉しかったであろう。あとで考えると、秀ちゃんが私をこんなに慕うようになったことが、とんだ禍の元となったのだが。
片輪者の中では、蛙みたいに四つ足で飛んで歩く、十歳ばかりの可愛らしい子供が、一ばん私になついていた。シゲという名前だったが、快活なやつで、一人ではしゃいで、廊下などを飛びまわっていた。頭には別状ないらしく、片言まじりでなかなかませたことをしゃべった。
余談はさておき、夕方の五時になると、私と諸戸とは、塀そとの、いつも私が身を隠した岩蔭へ出かけて、土蔵の屋根を見上げながら、時間のくるのを待った。心配していた雲も出ず、土蔵の屋根の東南の棟は、塀そとに長く影を投げていた。
「鬼瓦がなくなっているから、二尺ほど余計に見なければいけないね」
諸戸は私の腕時計を覗きながらいった。
「そうですね。五時二十分、あと五分です。だが、一体こんな岩でできた地面に、そんなものが隠してあるんでしょうか。なんだか噓みたいですね」
「しかし、あすこに、ちょっとした林があるね。どうも、僕の目分量では、あの辺に当たりゃしないかと思うのだが」
「ああ、あれですか。あの林の中には、大きな古井戸があるんですよ。僕はここへきた最初の日に、あすこを通って覗いて見たことがあります」
私はいかめしい石の井桁(いげた)を思い出した。
「ホウ、古井戸、妙な所にあるんだね。水はあるの」
「すっかり涸(か)れているようです。ずいぶん深いですよ」
「以前あすこに別の屋敷があったのだろうか。それとも昔はあの辺もこの邸内だったのかもしれないね」
私たちがそんなことを話し合っているうちに、時間がきた。私の腕時計が五時二十五分を示した。
「きのうときょうでは、幾分影の位置が変っただろうけれど、大した違いはないだろう」
諸戸は影の地点へ走って行って、地面に石で印をつけると独り言のようにいった。
それから私たちは手帳を出して、土蔵と影の地点との距離を書き入れ、角度を計算して、三角形の第三の頂点を計ってみると、諸戸が想像した通り、そこの林の中にあることがわかった。
私たちは茂った枝をかきわけて、古井戸のところへ行った。四方をコンモリと立木が包んでいるので、その中はジメジメとして薄暗かった。石の井桁によりかかって、井戸の中を覗くと、まっ暗な地の底から、気味のわるい冷気が頰をうった。
私たちはもう一度正確に距離を測って、問題の地点は、その古井戸にちがいないことを確かめた。
「こんなあけっ放しの井戸の中なんて、おかしいですね。底の土の中にでも埋めてあるのでしょうか。それにしてもこの井戸を使っていた時分には、井戸さらいもやったでしょうから、井戸の中なんて、実に危険な隠し場所ですね」
私はなんとなく腑(ふ)に落ちなかった。
「さあそこだよ。単純な井戸の中では、あんまり曲がなさすぎる。あの用意周到な人物が、そんなたやすい場所へ隠しておくはずがない。君は呪文の最後の文句を覚えているでしょう。ホラ、六道の辻に迷うなよ。この井戸の底には横穴があるんじゃないかしら。その横穴がいわゆる『六道の辻』で、迷路みたいに曲りくねっているのかもしれない」
「あんまりお話みたいですね」
「いや、そうじゃない。こんな岩でできた島には、よくそんなほら穴があるものだよ。現に魔の淵のほら穴だってそうだが、地中の石灰岩の層を、雨水が浸蝕して、とんでもない地下の通路ができたのだ。この井戸の底は、その地下道の入口になっているんじゃないかしら」
「その自然の迷路を、宝の隠し場所に利用したというわけですね。もしそうだとすれば、実際念に念を入れたやり方ですね」
「それほどにして隠したとすれば、宝というのは、非常に貴重なものにちがいないね。だが、それにしても、僕はあの呪文にたった一つわからない点があるのだが」
「そうですか。僕は、今のあなたの説明で全体がわかったように思うのだけど」
「ほんのちょっとしたことだがね。ほら、巽の鬼を打ち破りとあっただろう。この『打ち破り』なんだ。地面を掘って探すのだったら、打ち破ることになるけれど、井戸からはいるのでは、何も打ち破りやしないんだからね。それが変なんだよ。あの呪文はちょっと見ると幼稚のようで、その実、なかなかよく考えてあるからね。あの作者が不必要な文句などを書くはずがない。打ち破る必要のないところへ『打ち破り』なんて書くはずがない」
私たちは薄暗い林の下でしばらくそんなことを話し合っていたが、考えていてもしようがないから、ともかく、井戸の中へはいって、横穴があるかどうかを調べてみようということになり、諸戸は私を残しておいて、屋敷に取って返し、丈夫な長い縄を探し出してきた。漁具に使われていたものである。
「僕がはいってみましょう」
私は、諸戸よりからだが小さくて軽いので、横穴を見届ける仕事を引き受けた。
諸戸は縄の端で私のからだを厳重にしばり、縄の中程を井桁の石に一と巻きして、その端を両手で握った。私が降りるに従って、縄をのばしていくわけである。
私は諸戸が持ってきてくれたマッチを懐中すると、しっかりと縄をつかんで、井戸端へ足をかけて、少しずつまっ暗な地底へとくだって行った。
井戸の中は、ずっと下まで、でこぼこの石畳になっていたが、それに一面苔が生えていて、足をかけると、ズルズルと、辷(すべ)った。
一間ほどくだったとき、私はマッチをすって、下の方を覗いて見たが、マッチの光ぐらいでは深い底の様子はわからなかった。燃えかすを捨てると、一丈あまり下の方で、光が消えた。
多少水が残っているのだ。
さらに四、五尺さがると、私はまたマッチをすった。そして、底を覗こうとした途端、妙な風が起こってマッチが消えた。変だなと思ってもう一度マッチをすり、それが吹き消されぬ先に、私は風の吹き込む箇所を発見した。横穴があったのだ。
よく見ると、底から二、三尺のところで、二尺四方ばかり石畳が破れて、奥底の知れぬまっ暗な横穴があいている。不恰好な穴の様子だが、以前にはその部分にもちゃんと石畳があったのを、何者かが破ったものにちがいない。その辺一体に石畳がゆるんで、一度はずしたのを又さし込んだように見える部分もある。気がつくと、井戸の底の水の中から、楔(くさび)型の石ころが三つ四つ首を出している。明らかに横穴の通路を破ったものがあるのだ。
諸戸の予想は恐ろしいほど的中した。横穴もあったし、呪文の「打ち破る」という文句も決して不必要ではなかったのだ。
私は大急ぎで縄をたぐって、地上に帰ると、諸戸にことの次第を告げた。
「それはおかしいね。すると僕たちの先(せん)を越して、横穴へはいったやつがあるんだね、その石畳のとれた跡は新しいの」
諸戸がやや興奮して尋ねた。
「いや、大分以前らしいですよ。苔なんかのぐあいが」
私は見たままを答えた。
「変だな。確かにはいったやつがある。まさか呪文を書いた人が、わざわざ石畳を破ってはいるわけはないから、別の人物だ。むろん丈五郎ではない。これはひょっとすると、僕たちより以前にあの呪文を解いたやつがあるんだよ。そして、横穴まで発見したとすると、宝はもう運び出されてしまったのではあるまいか」
「でも、こんな小さな島で、そんなことがあればすぐわかるでしょうがね。船着場だって一カ所しかないんだし、他国者が入りこめば、諸戸の屋敷の人たちだって、見逃がすはずはないでしょうからね」
「そうだ。第一丈五郎ほどの悪者が、ありもしない宝のために、あんな危ない人殺しまでするはずがないよ。あの人には、きっと宝のあることだけは、ハッキリわかっていたにちがいない。なんにしても、僕にはどうも宝が取り出されたとは思えないね」
私たちはこの異様な事実をどう解くすべもなく、出ばなをくじかれた形で、しばらく思い惑っていた。だがそのとき、私たちがもしいつか船頭に聞いた話を思い出したならば、そして、それとこれとを考え合わせたならば、宝が持ち出されたなどと心配することは少しもなかったのだが、私はもちろん、さすがの諸戸もそこまでは考え及ばなかった。
船頭の話というのは、読者は思惟せられるであろう。十年以前、丈五郎の従兄弟(いとこ)と称する他国人が、この島に渡ったが、間もなくその死骸が魔の淵のほら穴の入口に浮き上がったという、あの不思議な事実である。
しかし、そこへ気づかなかったのが、結句(けっく)よかったのかもしれない。なぜといって、もしその他国人の死因について、深く想像をめぐらしたならば、私たちはよもや地底の宝探しを企てる勇気はなかったであろうから。