江戸川乱歩 孤島の鬼(9) 古道具屋の客
古道具屋の客
家人が心配するので、私はその翌日から、進まぬながらS・K商会へ出勤することにした。探偵のことは深山木に頼んであるのだし、私にはどう活動のしてみようもなかったので、-週間といった彼の口約を心頼みに、空ろな日を送っていた。会社がひけると、いつも肩を並べて歩いた人の姿の見えぬ淋しさに、私の足はひとりでに、初代の墓地へと向かうのであった。私は毎日、恋人にでも贈るような花束を用意して行って、彼女の新しい卒塔婆(そとば)の前で泣くのを日課にした。そしてそのたびごとに、復讐の念は強められて行くようにみえた。私は一日一日不思議な強さを獲得していくように思われた。
三日目にはもう辛抱ができなくて、私は夜汽車に乗って、鎌倉の深山木の家を訪ねてみたが、彼は留守だった。近所で聞くと「おととい出かけたきり、帰らぬ」ということであった。あの日巣鴨で別かれてから、そのまま彼はどこかへ行ったものとみえる。私はこの調子だと、約束の一週間がくるまでは、訪ねてみてもむだ足を踏むばかりだと思った。
だが、四日目になって私は一つの発見をした。それが何を意味するのだか、全く不明ではあったけれど、ともかくも一つの発見であった。私は四日おくれてやっと、深山木の想像力のほんの一部分をつかむことができたのだ。
あの謎のような「七宝の花瓶」という言葉が、一日として私の頭から離れなかった。その日は、私は会社で仕事をしながら、算盤をはじきながら、「七宝の花瓶」のことばかり思っていた。妙なことに、巣鴨のカフェで深山木のいたずら書きを見た時から、「七宝の花瓶」というものが、私にはなんだかはじめての感じがしなかった。どこかにそんな七宝の花瓶があった。それを見たことがあるという気がしていた。しかも、それは死んだ初代を連想するような関係で、私の頭の隅に残っているのだ。それが、その日、妙なことには算盤に置いていたある数に関連して、ヒョツコリ私の記憶の表面に浮かび出した。
「わかった。初代の家の隣の古道具屋の店先で、それを見たことがあるのだ」
私は心の中で叫ぶと、その時はもう三時を過ぎていたので、早びけにして、大急ぎで古道具屋へ駈けつけた。そして、いきなりその店先へはいって行って、主人の老人をつかまえた。
「ここに大きな七宝の花瓶が、たしかに二つ列(なら)べてありましたね。あれは売れたんですか」
私は通りすがりの客のように装って、そんなふうに尋ねてみた。
「へえ、ございましたよ。ですが、売れちまいましてね」
「惜しいことをした。欲しかったんだが、いつ売れたんです。二つとも同じ人が買ったんですか」
「対(つい)になっていたんですがね。買手は別々でした。こんなやくざな店にはもったいないような、いい出物でしたよ、相当お値段も張っていましたがね」
「いつ売れたの?」
「一つは、惜しいことでございました。ゆうべでした。遠方のお方が買って行かれましたよ。もう一つは、あれはたしか先月の、そうそう二十五日でした。ちょうどお隣に騒動のあった日で、覚えておりますよ」
というようなぐあいで、話好きらしい老人は、それから、長々といわゆるお隣の騒動について語るのであったが、結局、そうして私の確かめえたところによると、第一の買手は商人風の男で、その前夜約束をして金を払って帰り、翌日の昼頃使いの者がきて風呂敷に包んであった花瓶を担いで行った。第二の買手は洋服の若い紳士で、その場で自動車を呼んで、持ち帰ったということであった。両方とも通りがかりの客で、どこのなんという人だかもちろんわからない。
言うまでもなく、第言買手が花瓶を受取りにきたのが、ちょうど殺人事件の発見された日と一致していたことが私の注意をひいた。だが、それがなにを意味するかは少しもわからない。深山木もこの花瓶のことを考えていたにちがいないが(老人は深山木らしい人物が、三日前に、同じ花瓶のことを尋ねてきたのをよく覚えていた)、どうして彼は、あんなにもこの花瓶を重視したのであろう。何か理由がなくてはかなわぬ。
「あれは確かに揚羽(あげは)の蝶の模様でしたね」
「ええ、ええ、その通りですよ。黄色い地にたくさんの揚羽の蝶が散らし模様になっていましたよ」
私は覚えていた。くすんだ黄色い地に銀の細線で囲まれた黒っぽいたくさんの蝶が、乱れとんでいる、高さ三尺くらいのちょっと大きい花瓶であった。
「どこから出たもんなんです」
「なにね、仲間から引き受けたものですが、出は、なんでも或る実業家の破産処分品だっていいましたよ」
この二つの花瓶は、私が初代の家に出入りするようになった最初から飾ってあった。ずいぶん長いあいだである。それが初代の変死後、引きつづいて僅か数日のあいだに、二つとも売れたというのは偶然であろうか。そこに何か意味があるのではないか。私は第一の買手の方にはまるで心当たりがなかったが、第二の買手には少し気づいた点があったので、最後にそれを聞いてみた。
「そのあとで買いにきた客は、三十くらいで、色が白くて、ひげがなく、右の頰にちょっと目立つ黒子(ほくろ)のある人ではなかったですか」
「そうそう、その通りの方でしたよ。やさしい上品なお方でした」
果たしてそうであった。諸戸道雄にちがいないのだ。その人なら隣の木崎の家へ二、三度きたはずだが、気づかなかったかと尋ねると、ちょうどそこへ出てきた老人の細君が、加勢をして、それに答えてくれた。
「そういえは、あのお人ですわ。お爺さん」幸いなことには、彼女もまた老主人に劣らぬ饒舌家であった。「二、三日前に、ほら、黒いフロックを着て、お隣へいらっした立派な方。あれがそうでしたわ」
彼女はモーニングとフロックコートとを間違えていたけれど、もう疑うところはなかった。私はなお念のために、彼が呼んだ車のガレージを聞いて、尋ねてみたところ、送り先が諸戸の住居のある池袋であったこともわかった。
それはあまりに突飛な想像であったかもしれない。だが、諸戸のような、いわば変質者を、常規で律することはできぬのだ。彼は異性に恋しえない男ではなかったか。彼は同性の愛のためにその恋人を奪おうと企てた疑いさえあるではないか。あの突然の求婚運動がどんなに烈しいものであったか。彼の私に対する求愛がどんなに狂おしいものであったか。それを思い合わせると、初代に対する求婚に失敗した彼が、私から彼女を奪うために、綿密に計画された、発見の恐れのない殺人罪をあえて犯さなかったと、断言できるであろうか。彼は異常に鋭い理智の持ち主である。彼の研究はメスをもって小動物を残酷にいじくり廻すことではなかったか。彼は血を恐れない男だ。彼は生物の命を平気で彼の実験材料に使用している男だ。
私は彼が池袋に居を構えて間もなく、彼を訪ねたときの無気味な光景を思い出さないではいられぬ。
彼の新居は池袋の駅から半里も隔った淋しい場所にポッツリ建っている陰気な木造洋館で、別棟の実験室がついていた。鉄の垣根がそれを囲んでいた。家族は独身の彼と、十五、六歳の書生と、飯炊(めした)きの婆さんの三人暮らしで、実験動物の悲鳴のほかには、人の気配もしないような、物淋しい住まいであった。彼はそこと大学の研究室の両方で、彼の異常な研究にふけっていた。彼の研究題目は、直接病人を取り扱う種類のものではなくて、何か外科学上の創造的な発見というようなことにあるらしく思われた。
そこを訪ねたのは夜であった。鉄の門に近づくと、可哀そうな実験用動物の、それは主として犬であったが、耐えられぬ悲鳴を耳にした。それぞれ個性を持った犬どもの叫び声が、物狂わしき断末魔の連想をもって、キンキンと胸にこたえた。いま実験室の中で、もしやあのいまわしい活体解剖ということが行われているのではないかと思うと、私はゾツとしないではいられなかった。
門をはいると、消毒剤の強烈な匂いが鼻をうった。私は病院の手術室を思い出した。刑務所の死刑場を想像した。死を凝視した動物どもの、どうにもできぬ恐怖の叫びに、耳が掩いたくなった。いっそのこと、訪問を中止して帰ろうかとさえ思った。
夜もふけぬに、母屋(おもや)のほうはどの窓もまっ暗だった。わずかに実験室の奥のほうに明かりが見えていた。怖い夢の中でのように、私は玄関にたどりついて、ベルを押した。しばらくすると、横手の実験室の入口に電燈がついて、そこに主人の諸戸が立っていた。ゴム引きの濡れた手術衣を着て、血のりでまっ赤によごれた両手を前に突き出していた。電燈の下で、その赤い色が、怪しく光っていたのを、まざまざと思い出す。
恐ろしい疑いに胸をとざされて、しかし、それをどう確かめるよすがもなくて、私は夕闇せまる町をトボトボと帰途についた。