老媼茶話巻之五 山姥の髢(カモジ)
山姥の髢(カモジ)
猪苗代白木城の百姓庄右衞門といふ杣人(そまびと)、磐梯(バンダイ)の入山(いりやま)へ參りけるに、巖上(ガンじやう)の大松の梢に、何やらん、白き長き物、みへたり。彼(かの)者、杣人なりける間(あひだ)、松の梢に登り、件(くだん)の物をおろし見るに、白き雪のごとくにて長さ、七、八尺あり、かもじ也。毛のふとさ、駒の尾の如し。人作(じんさく)の及ぶ所にあらず。取(とり)て歸り、多くの人に見するに、何といふ事を知らず、「山姥(やまうば)のかもじ」といひ觸(ふれ)て今にもち傳へたり。
山姥は南蠻(ナンバン)國の獸(けもの)也。其形、老女のごとく、腰に、かは有(あり)て、前後にたれさがりて、とくび褌のごとし。たまたま人をとらへては我(わが)住(すむ)巖窟江連行(つれゆき)、強(しい)て夫婦のかたらいをもとむ。我(わが)心に隨はざる時は其人を殺せり。力強くして、丈夫に敵せり。好(このみ)て人の小兒を盜む。盜まれし人、是を知り、大勢集り居て、山姥が我子を盜みし事を大音に訇(ののし)り恥かしむる時は、ひそかに小兒をつれ來り、其家の傍(かたはら)に捨置(すておき)、歸ると言(いへ)り。
又、山中には木客(キカク)・彭侯(ホウコウ)・山夫(ヤマヲトコ)・山女・狒々(ヒヽ)・野婆(ヤバ)・黑𤯝(カマイタチ)の類(たぐひ)、まゝあり。
又、山獺(やまうそ)といふ獸、有。其肉、補益の功、有。然共(しかれども)、得難し。獵師、山獺を取(とら)んとて、美女を連(つれ)て山中へ入(いり)、美女を大木の元に立(たた)しむ。山獺、女の氣(かざ)をかぎて、一さんに出來(いでく)る。女、走り逃る。山獺、其木を懷き、もだへ、ありく。其木、忽(たちまち)、枯るゝなり。獵師、其隙(すき)に山獺を鐵砲にて打殺(うちころ)すといへり。
[やぶちゃん注:「山姥」本文では(私は表題には推定ルビは振らないことを基本としている)「やまうば」と振ったが、「やまんば」でも構わぬ。鬼婆(おにばば)や鬼女(きじょ)と同類ではある(私は一部の伝承内の属性に於いては同一ではないと考えている)。ウィキの「山姥」から引く。『山の中に夜中行く当てもなくさまよう旅人に宿を提供し、はじめはきれいな婦人の格好を取り食事を与えるなどするが、夜寝た後取って食うといわれる。グリム童話に出てくる森の奥に住んでいる魔女のように、飢餓で口減らしのために山に捨てられた老婆などの伝承が姿を変えたもの、姥捨て伝説の副産物と解釈する説もあり、直接西欧の魔女に当たるものという説もある』。『「山母」、「山姫」、「山女郎」とも呼ばれ、宮崎県西諸県郡真幸町(現えびの市)の「ヤマヒメ」は、洗い髪して、よい声で歌うという。岡山県の深山に存在する「ヤマヒメ」は、二十歳ほどの女性で、眉目秀麗で珍しい色の小袖に黒髪、出会った猟師が鉄砲で撃ったが、弾を手で掴んで微笑んだと伝えられる。
東海道や四国、九州南部の山地には、山姥と供に山爺がいる、山姥と山童が一緒に居ると伝え、山姥を「山母」、山爺を「山父」と呼ぶこともある。静岡県磐田郡の某家に来て休んだ「ヤマババ」は、木の皮を綴ったものを身にまとった柔和な女で、釜を借りて米を炊いたが、二合で釜が一杯になったという。特に変わったところもなかったが、縁側に腰掛けたときに床がミリミリと鳴ったという。八丈島でいう「テッジ」(テッチとも)
は、神隠をしたり、一晩中、あらぬところを歩かせたりするが、親しくなるとマグサを運んでくれたりする。行方不明の子供を三日も養ってくれたこともある。体に瘡が出、乳を襷のように両肩に掛けると云う。香川県では川にいる山姥を「川女郎(かわじょろう)」といい』。『大水で堤が切れそうになると「家が流れるわ」と泣き声のような声をあげるという』。『静岡県周智郡春野町(現・浜松市)熊切には「ホッチョバア」という山姥が伝わり、夕方に山道に現れるほか、山から祭りや祝い事の音が聞こえてくる怪異はこの山姥の仕業とされた』。『長野県東筑摩郡には「ウバ」という、髪が長い一つ目の妖怪が伝わり』、『その名前から山姥の一種とも考えられている』。『説話では、山姥に襲われるのは牛方や馬方、桶屋、小間物屋などの旅職人や行商人であり、山道を歩き、山人との接触の多い彼らが、この話の伝搬者であったものと考えられる』。『山姥の性質は二面的である。牛に魚を積んで運ぶ男が、峠で山姥に遭遇し、追いかけられる『牛方山姥』や『食わず女房』、山姥に追いかけられた兄弟が天から現われた鎖を上って逃げ、それを追って鎖を上って来た山姥が蕎麦畑に落ちて死ぬ『天道さんの金の鎖』などでは、山姥は人を取って喰うとする恐ろしい化け物である。一方、木の実拾いにでかけた姉妹が出会う『糠福米福(米福粟福)』の山姥は、継母にいじめられる心優しい姉には宝を、意地の悪い本子である妹には不幸をもたらし、『姥皮』では、人間に福を授ける存在として山姥が登場する。高知県では、山姥が家にとり憑くとその家が急速に富むという伝承があり、なかには山姥を守護神として祀る家もある。
信州佐久では、山姥が、川久保地区の城山の岩と、一の淵の流岩山をまたいで大便をした。かかとの窪みが今もある。畑中付近の一丈』(三メートル三センチ)『の巨岩は山姥の大便だと言う』。『この様な両義性を持った山姥の原型は、山間を生活の場とする人達であるとも、山の神に仕える巫女が妖怪化していったものとも考えられている。
土地によっては「山姥の洗濯日」と呼ぶ、水を使ってはいけないとか、洗濯をしてはいけないとする日があり、例えば北九州地方では、「山姥の洗濯日」は暮れの十三日または二十日とされ、この日は必ず雨が降るため洗濯をしないという風習が残っている。これは恐らく、雨を司る山神の巫女の禊の日であったものの名残りである。また、『遠野物語』には、狂人、山の神に娶られる者、あるいは山人に攫われる者といった、山隠れする女が山姥になったという話が伝えられており、出産のために女性が入山する習俗や、村落の祭にあたって選ばれた女性が山にこもるという、山岳信仰の習俗の名残りも認められる。上述の様に、山姥は人を喰う恐ろしい鬼女の性格の背理として、柔和で母性的な一面も伝えられ、足柄山の金太郎を始め、多くの神童、若子の母でもあった。長野県飯田市上村程野の伝説では、猟に出た山神の兄弟が、お産に苦しむ山姥に出会うが、長兄オホヤマツミノミコトがこれを助け、七万八千の子を産み、彼に猟運を授けた。山の中で出産に苦しむ山神や山姥、女に出会い、それを助けた人間が福をもたらされるという伝承は全国各地にいろいろな形で伝えられるが、同様に、女神たる山神も、多産、また難産であることが知られている。長野県飯田市上村下栗では、一度に七十五人の子を産むという山神や、徳島県では一度男の肌に触れただけで八万近くの子を妊娠した山神などがいる。宮崎県の千二百人の子を出産する山の女神また徳島や高知の昔話によると、山神の妻になった乙姫は一度に四百四人あるいは九万九千もの子を産んだと伝えられている。この様に、非常に妊娠しやすいという特徴、異常な多産と難産であるという資質は、元来、山の神の性格であり、山姥が、山岳信仰における神霊にその起源を持つことを示している』。『山姥の産霊神的な特質を挙げるものとして、山姥の惨死した死体からは、様々なものが発生するという話がある。例えば『牛方山姥』では、殺された山姥の死体が、薬、金などの貴重なものとなって牛方を金持ちにしており、また山姥の大便や乳が、錦や糸などの貴重な宝物や、不思議な力を持つ品になったという話もある。『古事記』に登場するオホゲツヒメは、鼻、口、尻から食物を出し、自らの死体から蚕や稲、粟など作物を生じさせ、イザナミも、火の神を産んだ為に死ぬが、死の前に排泄物から、金鉱の神、粘土の神、水の神、食物の親神を生んでいる。しかしながら、イザナミの境遇にも明らかなように、母性を持った産霊神的な性格を持つ霊は、冷遇される傾向にある。古来神話は色々な勢力の伝承神話を融合したものであり、反発しあう勢力の神が一つの神話にまとめられると、敵対する勢力の神を部分的ではあるが』、『あまり良くは伝えようとしないが、これは』「古事記」『にもすでに見られる現象である。『三枚の御札』は、小僧が山姥に追いかけられ、山姥に向かって投げた御札が、川や山などの障害物を出す話だが、この構造は、イザナギが、
黄泉の国でイザナミの姿を見てしまい、追いかけられて逃げ帰るという神話をベースにしており、地母神の劣化が、山姥という妖怪の本源と考えて良い。イザナミは難産死をしてしまい、それが出雲と伯耆の国境の比婆山に葬られたと』「古事記」『には記されているが、この「比婆山」が山姥の語源という指摘がある。産鉄の神、金屋子神もこういった女神を冷遇するような話が一部あり、美形の顔立ちではないため女性を嫌い、たたら場(古代製鉄場)を女人禁制としたとある。「山の神」という既婚女性の別称もこのような説話の名残であると考えられる』。『また、謡曲『安達原』の「黒塚」、諏訪千本松原の「舌長姥」なども山姥の一種である』。『山姥の伝承として有名なものに、足柄山の金太郎の母がいる。金太郎は、名を坂田公時といい、源頼光の四天王の一人となった人物である』。伝承によれば天延四(九七六)年、『源頼光が上総国から上京したとき、足柄山にさしかかったところで、向かいの山の険しい場所に赤い雲気を見つけ、人傑が隠居しているものと、渡辺綱を遣わした。赤い雲気のたちこめていた場所には、老婆と二十歳ほどの童形の若者が茅屋に住んでおり、尋ねたところによれば、老婆はある日、夢の中に現れた赤い竜と通じ、産まれた子がこの公時なのだと説いた。頼光は彼を常人ではないと感じ、坂田公時と名付けて家臣としたといわれている』。『自然科学的なアプローチから、山姥の正体を解こうとする以下の考え方もある』寛政六(一七九四)年に画家長澤蘆雪に『よって描かれた山姥の絵は有名だが、この山姥が金髪になっている事が目を引く。形質人類学的にこの山姥の顔を観察しても、頤(おとがい)が前方に出ている、直顎(ちょくがく)である、典型的鉤鼻(かぎばな)を持っている、など白人的特徴を有している事が分かる。
この山姥像に限らず、一般的山姥の特徴として知られているのは、肌が非常に白い、背が高い、眼が鋭い、口が耳まで裂けている、毛深い、などだが』、『口が耳まで裂けているを誇張表現として、口が大きい、と言い換えれば、これらの特徴も皆、白人的特徴と一致する』。『もとより山姥は山の老婆の意味だが、山姥の伝説には山姥が若かった事を想像させるものも少なくない。山姫の異称もそれを示している。それでも山姥が老女=山姥と呼ばれたのは、上記、長澤蘆雪山姥像の如くの金髪を、山姥が有していたとして、一方、昔の人は西洋人の金髪を知らなかったので、その山姥の金髪を老人性の白髪の様なものと解した、それで山姥を老女と想像したとも考えられる。
静岡県磐田郡に残る平安時代の山姥伝説』、『を読み解いても、その山姥の息子が金髪だったと解釈できるという』。なお、『山姥の出自について、中村昻』(なかむらこう)『は、各地の山姥の機織り伝説の解読から、秦氏(はたうじ)などの古代の渡来人ではないかとしている』とある。以上を読んで感じることは、後で三坂が「山姥」を「南蠻國の獸」と断じていることの不審である。私は「山姥」の原型は中国(後注する)その他から渡来した舶来妖怪ではなく、基本、本邦で古い時代から信仰され畏敬されてきた山神の一つが零落した姿であると考えている。
「髢(カモジ)」「髪文字」とも書く。狭義には日本髪を結う際に髪に添え加えて豊かにする人毛を「添え髪(がみ)」「入れ髪」を指すが、ここは古い女房詞から生まれた広義の「髪」の意。
「猪苗代白木城」地名で古い城塞跡。現在の福島県耶麻郡猪苗代町蚕養附近と推定される。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「入山(いりやま)」林業業務のために山に入ること。
「杣人なりける間(あひだ)」樵(きこり)であったから。木登りはお手のものということ。
「七、八尺」二メートル十三センチから二メートル四十二センチほど。
「駒」馬。
「人作(じんさく)の及ぶ所にあらず」凡そ人の手で似せて作った贋の白髪の及ぶところでない、本物の人間の白髪であって。
「山姥(やまうば)のかもじ」猪苗代町教育委員会蔵で福島県立博物館寄託品として「山姥のかもじ」が現存する(但し、最早、白くない)。ここで画像が見られるが、その解説によれば、『伝えられている話によると、あるとき山でいたずらをする女を捕まえようとして、逃してしまいますが、手の中には髪の毛が残りました。これを取り返そうと夜な夜な山姥は家に来たが、ついに返さなかったといいます。その後、このかもじを持っていると不幸になるということで、持ち主が転々と代わって最後は猪苗代町の公民館で預かることになったそうです。とにかく持っていると仕事をする気がしなくなって家が傾くというのですから、やっかいなものです』とあり、本「老媼茶話」の古い写本の画像も添えられてある。必見! なお、私は「山姥の髪の毛」と呼ばれるものをよく知っているし、見たこともある。「株式会社キノックス」の公式サイト内の「ヤマンバノカミノケ」を見られたい。これは実は多くの人が想定するような、特定の地衣類や苔の異名ではなく、菌類である茸(きのこ)のあるライフ・サイクル上のステージでの、人の髪の毛に似た一形態・形状を指すものである。同ページから引用する。『ヤマンバノカミノケ(山姥の髪の毛)とは、特定のきのこ(子実体)を指す名前ではなく、樹木(小枝)や落葉上に「根状菌糸束」と呼ばれる独特の黒い光沢を持った太くて硬いひも状の菌糸の束に対して、伝説の奥山に棲む老婆の妖怪である「山姥(ヤマンバ)」の髪の毛になぞらえて命名されたものなのです』。『この黒色の根状菌糸束を形成するきのこには、ホウライタケ属』(菌界 Fungi 担子菌門 Basidiomycota 菌蕈(きんじん)亜門 Hymenomycotina 真正担子菌綱 Agaricomycetes ハラタケ目Agaricales ホウライタケ科Marasmiaceae ホウライタケ属 Marasmius)『やナラタケ属』(ハラタケ目キシメジ科 Tricholomataceaeナラタケ属 Armillaria)、『さらには子のう菌であるマメザヤタケ属』(菌界子嚢菌門 Ascomycotaチャワンタケ亜門 Pezizomycotinaフンタマカビ綱 Sordariomycetes Xylariales 目Xylariaceae 科マメザヤタケ(クロサイワイタケ)属Xylaria:但し、本種の分類には錯綜がある。因みに本属のタイプ種マメザヤタケ Xylaria polymorpha には、海外では「dead man's fingers」(死者の指)という有り難くない名がつけられている。こちらのページの画像を御覧あれ。う~ん、確かに!)『のきのこが含まれ、林内一面に網目状に伸びることもあれば、数メートルの長さに達するものまであります。通常、きのこの菌糸は乾燥に弱いのですが、ヤマンバノカミノケと呼ばれる菌糸束は細胞壁の厚い丈夫な菌糸が束の外側を保護していることから、乾燥や他の微生物からの攻撃に対して強靭な構造となっています』。『因みに、ヤマンバノカミノケの子実体を発見し、根状菌糸束であることを日本で始めて明らかにしたのは、世界的な博物学者として知られている南方熊楠です。ヤマンバノカミノケは丈夫で腐り難いことから、アフリカのギニヤやマレー半島の原住民などは織物に利用しており、日本では半永久的に光沢があることから、神社やお寺などの「宝物」として奉納しているところもあるようです』。流石! 南方先生!
「山姥は南蠻(ナンバン)國の獸(けもの)也」これに相当する大陸の妖怪を調べてみると、「変婆」というものに行き当たった。実吉達郎著「中国妖怪人物事典」(一九九六年講談社刊)によれば、『広西省の少数民族』である苗(ミャオ)族に『伝わる怪異な』話で、大抵は『死んで葬られた女性が何日かのちに墓を破って出て』きて、『髪をふりみだし』、『目は光り、やせこけて生気はなく』、突然、『笑ったり泣いたり発狂状態になる。これをしずめるのに』は『一定の呪術があ』り、それによって『人界からへだてられると、変婆は山谷(さんこく)をさまよい、やがてトラかクマに変ずる』というのである。これと本邦の「山姥」は属性としては似ているものの、この「変婆」を「山姥」のプロトタイプとすることは私は出来ない。
「かは」「皮」。
「とくび褌」「犢鼻褌」であるが読みが判らぬ。この漢字三文字「犢鼻褌」で「たふさぎ(とうさぎ)」(古くは清音「たふさき」)或いはそのまま「ふんどし」と読むからである。これは、本来は「短い下袴」で、現在「褌(ふんどし)」或いは「猿股」のようなものだと伝える。後世では「女性の腰巻」も指したから、ここはそれでとってもよかろう。
「丈夫に敵せり」屈強自慢の男子とも互角に組める臂力を持つ。
「木客(キカク)」まずは、中国の古伝承に出てくる魑魅魍魎の一種で、野生の幻獣の中でも最も怪物らしい怪物である山魈(さんしょう)の別名としてよかろう。先の実吉氏の書によれば、『夜出てきて人を犯すといい、樹木の精怪(せいかい)』(精霊(すだま)のこと)『山中の異類』とされるが、後には一本足で足首の附き方が人間とは反対に後ろ前になっていたり、手足の指が三本ずつしかなかったりするようになって、男(山公)女(山姑(さんこ))の区別が生じ、人間に会うと山公は銭を、山姑は紅・白粉(おしろい)を要求し、はたまた、嶺南の山中の大木の枝の上に住処(すみか)を持ち、木製の囲い作って食料を貯えとか、虎を操ることが出来、物を呉れた人間には、虎に襲われぬようにして呉れたりすると尾鰭が着いてゆく。実は既に先行する「述異記(山魈)」の私の注で詳述しているので、そちらを是非、参照されたい。また、私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類 寺島良安」の「山精(さんせい)」(私は山魈に比定している)も是非、読まれたい。絵もある。但し、良安は実は「山精」とは別項立てで「木客」を挙げており(上記リンク先参照)、そこには、
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もつかく
木客
【別に木客鳥有り。禽(とり)の部に見ゆ。】
モツ ケツ
「本綱」に、『「幽明錄」に載せて云ふ、『南方の山中に生(せい)す。頭・面・語言(ごげん)、全く人に異ならず。但し、手脚の爪、鈎(かぎ)のごとく利(と)し。絶岩の閒に居み、死するも亦、殯※す。能く人と交易するも、其の形ちを見せず。今、南方に鬼市有ると云ふは亦、此れに類す。』と。』と。[やぶちゃん字注:※=「歹」+「隻」。「殯※」で「ひんせき」と読むか?]
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とある。しかし、私が敢えてこれを最初の挙げなかったかといえば、読んで判る通り、これは奇体な山怪や奇獣ではないからである。リンク先の私の注でも述べたが、この「木客」の叙述を読むと、普通の人が登れないような断崖絶壁に住む民は実在するし、私にはこの「木客」なるものが、一種の少数民族若しくは特殊な風俗を有する人々を怪人として差別誤認したのではないかという非常に強い疑問があるからである。詳しくは私の「木客」の注及び私が「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類 寺島良安」の中で「木客」について触れた部分(「木客」で検索されたい。他の箇所でも触れているからである)も是非、お読み戴きたい。私はこうした差別に対しては非常な怒りを覚える人間である。
「彭侯(ホウコウ)」中国の木の精霊の名。ウィキの「彭侯」によれば、生えてから千年たった木に取り憑くとされる。「捜神記」によれば、『呉の時代に敬叔と言う人物がクスノキの大木を切ると、血が流れて人の顔を持つ犬のような彭侯が現れ、煮て食べると犬の味がしたとある。また同書によれば、中国の聖獣・白澤が述べた魔物などの名を書き記した白澤図の中に、彭侯の名があると記述されている』彭侯の名は江戸時代の日本にも伝わっており』、「和漢三才図会」や怪談集「古今百物語評判」、鳥山石燕の妖怪画集「今昔百鬼拾遺」にも『中国の妖怪として紹介されている』。「和漢三才図会」には「本草綱目」からの『引用として前述の敬叔の逸話を述べており、彭侯を木の精、または木魅(木霊)のこととしている』。『山中の音の反響現象である山彦は、木霊(木の霊)が起こすと考えられたことから、かつて彭侯は山彦と同一視されることもあった。江戸時代の妖怪画集』「百怪図巻」や「画図百鬼夜行」などに『ある、犬のような姿の山彦の妖怪画は、この彭侯をモデルにしたという説もある』と記す。私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類 寺島良安」の「彭侯(こだま)」も是非、読まれたい。
「山夫(ヤマヲトコ)」「山女」先の「木客」(=山魈)の男(山公)女(山姑)の発生による同一種と考えてよい。これも私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類 寺島良安」の「山精(さんせい)」に附録される「山丈山姑(やまをとこやまうば)」を参照されたい。
「狒々(ヒヽ)」私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類 寺島良安」の「狒狒(ひゝ)」には明の博物学者李時珍の「本草綱目」から以下のように引いている。
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「本綱」に、『狒狒は西南夷に出づ。狀、人のごとく、髮を被(かぶ)り、迅(とく)走りて人を食ふ。黑身、毛有り。人面にして、長き唇びる、反踵(はんしよう)。人を見れば、則ち、笑ふ。其の笑ふに、則ち、上唇、目を掩ふ。其の大なる者は、長(た)け、丈餘。宋【建武年中。】、獠人(らうひと)、雌雄二頭を進む。其の面、人に似たりて、紅赤色。毛は獮猴に似て、尾、有り。人言を能(よ)くす。鳥の聲のごとし。善(よ)く生死を知り、力、千鈞(きん)を負ふ。踵を反(そ)らし、膝無く、睡むる時は、則ち、物に倚(よ)りかゝる。人を獲り、則ち、先づ笑ひて、後、之を食ふ。獵人、因つて、竹筒を以つて臂を貫き、之れを誘ひて、其の笑ふ時を候(うか)がひ、手を抽(ひ)きいだし、錐(きり)を以つて其の唇を釘(う)つ。額に著け、死を候がひて、之れを取る。髮、極めて長し。頭髮(かもじ)に爲(つく)るべし。血は、靴及び緋を染むるに堪へたり。之を飮めば、人をして鬼を見せしむ。帝、乃ち工に命じて之を圖す。
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とある。また、私の訳注「耳囊 卷之九 奇頭の事」の私の注「狒猅」(ひひ)も参照されたい。
「野婆(ヤバ)」これこそ文字からは本邦の「山姥」らしくはあるが、中国の書ではそれほどオーソドックスな名ではないようであり、その記載も所謂、野人の女或いは先の「山姑」と変わらないし、古代からの馴染みの妖怪ではない感じで(宋・明以降の本草書に多出)、山の女怪というよりも、実在するヒトではない、所謂、類人猿、サルの一種と比定した方が、腑に落ちるくらいである。さればこそ、これを「山姥」のルーツとするのは私は反対である。
「黑𤯝(カマイタチ)」「𤯝」の音は未詳。「胜」と同字と考えるなら、現代中国語では「シァン」で、意味は「勝つ」であるから音は「ショウ」となろうか? ウィキの「シイ(妖怪)」を見ると、シイは、『日本の妖怪』と規定し、和歌山県・広島県・山口県・福岡県に伝わる妖獣とあり、『姿はイタチに似ており、牛や馬などを襲うという』とあるのだが、その「シイ」に対して「青」や「𤯝」の字を当てている。以下、引くと、「日本国語大辞典」や「広辞苑」の『記述によると、シイは筑紫国(福岡県)や周防国(山口県)などに伝わる怪獣で、その姿はイタチに似ており、夜になると』、『人家に侵入し』、『家畜の牛や馬を害する存在であると』し、江戸時代の本草書である貝原益軒の「大和本草」や「和漢三才図会」及び大朏東華(おおでとうか)の随筆「斎諧俗談」などでは、この「シイ」に「黒𤯝」という『漢字表記をあてて』おり、「大和本草」の『解説によると、周防国(現・山口県)や筑紫国(現・福岡県)におり、やはり牛馬に害をなすもので、賢い上に素早いのでなかなか捕えることはできないとある』とし、「斎諧俗談」で『は奈良県吉野郡にいるものとされ、人間はこれに触れただけで顔、手足、喉まで傷つけられるとある』。『和歌山県有田郡廣村(現・広川町)や広島県山県郡では、シイを「ヤマアラシ」ともいって、毛を逆立てる姿を牛がたいへん恐れるので、牛を飼う者は牛に前進させる際に「後ろにシイがいるぞ」という意味で「シイシイ」と命令するのだという』。山口県『大津郡長門市では田で牛を使う際』五月五日に『牛を使う、田植え時期に牛に牛具を付けたまま川を渡す、女に牛具を持たせる』、五月五日から『八朔までの間にほかの村の牛を率いれるといった行為がタブーとされており、これらを破るとシイが憑いて牛を食い殺すといわれた』。福岡県『直方市にある福智山ダムには、地元に伝わるシイ(しいらく)の伝承を伝える石碑が建てられて』あるという。この「黒𤯝」とは、『本来は中国の伝承にある怪物の名であり、宋時代の書』「鉄囲山叢談」によれば、「黒𤯝」の『一種として「黒漢」というものが宣和年間の洛陽に現れ、人間のようだが色は黒く、人を噛むことを好み、幼い子供をさらって食らい、その出現は戦乱や亡国の兆しとして恐れられていたとある』。また、明代の書「粤西叢戴(えつせいそうさい)」では、この同類として「妖𤯝」という『ものが、夜になると』、『人家に侵入して女を犯し、時に星のごとく、黒気のごとく、火の屑のようにもなるとある』と記す。しかし、このように中国の「𤯝」類は本邦の「シイ」或いは知られた「かまいたち」とは似ても似つかぬ感じがし、このウィキの最後にも、『江戸期の書物にある「黒𤯝』『」は、日本の正体不明の怪物にこの中国の「黒𤯝』『」の名を当てはめたに過ぎないとの説もある』とあり、私はそれに激しく賛同するものである(下線やぶちゃん)。「和漢三才図会」の「黒𤯝」は、以下のように書かれてある(原典の私の訓読文。一部は私が読みや送り仮名を増補した)。
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黑𤯝(しい)
「震澤長語」云ふ、『大明の成化十二年[やぶちゃん注:ユリウス暦一四七六年。])、京師、物、有り。狸のごとく、犬のごとく、倐然として[やぶちゃん注:「しゆくぜん(しゅくぜん)」で「として」は私が振った。「ピカッと一瞬間に光るかのように」の謂いで、もの凄く敏捷であることを言っているようだ。]、風のごとし。或いは人面を傷(きづ)つけ、手足を噬(か)む。一夜、数十、發(おこ)る[やぶちゃん注:人傷事故が発生するの意で訓じてみた。]。黑氣(こくき)を負ふ來たる。俗に「黑𤯝」と名づく。』と。
△按ずるに、元祿十四年[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七〇一年。]、和州吉野郡の山中に、獸、有り。狀(かたち)、狼に似て、大きく、高さ四尺、長さ五尺許(ばか)り。白黑、赤皁(あかぐろ)、彪斑(へうはん[やぶちゃん注:虎の毛の斑(まだら)の模様。]の數品(すひん)、有り。尾、牛蒡の根のごとく、鋭き頭(かしら)、尖れる啄(くちばし)、牙、上下、各々二つにて、鼠の牙のごとく、齒は牛の齒のごとし。眼(まなこ)、竪(たて)にして、脚、太く、蹼(みづかき)有り。走-速(はし)ること飛ぶがごとく、觸るる所の者、人面・手足及び喉を傷つくる。之れに遇ふ人、俯(うつむ)き倒(たふ)るれば、則ち、噬(くら)はずして去る。銃・弓を用ひて射ること、能(あた)はず。阱(をとしあな)を用ひて數十を得て止む【俗に呼びて志於宇(しおう)と名づく。】蓋し、黑𤯝の屬か。
*
付帯する図は何だか知らん大山猫か狼か山犬のようなおどろおどろしい感じの四足獣である。落とし穴で数十匹狩り獲ってそれ以後、襲来は納まったというのだから、まあ、徒党を組んだ野犬か狂犬病に罹患した彼らだったのかも知れぬ。なお、「鎌鼬(かまいたち)」については、私の電子化注「想山著聞奇集 卷の貮 鎌鼬の事」で、私自身の遠い中学生の時の目撃談(但し、私はあれは「カマイタチ」なんかじゃないと今も確信している)も含めて、さんざん語ってあるので、そちらも是非、参照して戴きたい。
「山獺(やまうそ)」不詳。Q&Aサイトのズバリ「山獺(やまうそ)という動物は存在するのでしょうか?」という質問への答えに、
《引用開始》
本草綱目に山獺が川獺、海獺とともに挙げられていますが、現在の動物名は不詳となっています。陰莖、骨[やぶちゃん注:ここに「水獺」とあるが、「本草綱目」を確認し、衍字と見て除去した。]を薬にするとの事です。川獺(かわうそ)海獺(あしか、らっことも)と並べてみるとこれに似た山の獣として認識していたのだろうと思います。なお日本野生生物研究センターの江戸時代の産物帳から過去の動物の分布を研究した資料には山獺は出ていませんでした。
朝鮮語にはテンの類またはタヌキを指す漢風の名称「山獺(サンダル)」という単語があります。老媼茶話の巻5山姥の髢という話の中に山獺が出てきますが狸と同じように民話に登場する存在です。机のまわりを獺祭状態にしましたが、あまり明確な回答でなくて、すみません。
《引用終了》
とあった。回答者の獺祭舎屋に引用の敬意を表しておく。
「補益の功」漢方で虚証(「気虚」「陽虚」(陽気の不足による肉体の機能面での失調と及び、「血虚」「陰虚」(陰液の不足による肉体の物質面での失調の総体)を改善する絶大なる効果があること。
「氣(かざ)」私好みの推定訓。
「かぎて」「嗅ぎて」。
「一さん」「一散」。
「もだへ、ありく」「悶へ、步く」。悶えながら木の周りをうろつく。]