柴田宵曲 俳諧博物誌(8) 龍 四 / 龍~了
四
これからいよいよ龍の本文に入る順序である。といったところで、十七字詩の世界には、それほど驚くべき話も出て来ないが、第一は龍の天上する句である。西鶴の『諸国はなし』に古い茶碓(ちゃうす)の心木の穴から七寸ばかりの細い蛇が出て、花柚(はなゆ)の枝をずんずん上るように見えたが、忽ち雲に隠れて行方がわからなくなった、この時その家から龍が上ったのだという話が書いてある。
[やぶちゃん注:ここに語られているのは井原西鶴の「西鶴諸国ばなし」の中の「卷三の六」にある「八疊敷の蓮の葉」の一節(メイン・テーマではない)に基づく。その梗概の一部を記すと(引用原文は平成四(一九九二)年明治書院刊の「決定版 対訳西鶴全集 五」を参考に用いたが、一部の漢字は正字化し、踊り字「〱」は正字化した。読みはオリジナルに歴史的仮名遣で附しである)。訳は私のオリジナルで底本の訳は参照していない)、
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吉野は奥千本にあった西行所縁の庵に住まう一道心があった。五月雨の降るある日、いつもの如く土地の者どもがこの庵にうち寄り、茶呑み話を致いておったところ、庵の板縁の片端に『ふるき茶碓(ちやうす)のありしが、其しん木の穴より』(「茶碓」は茶葉を挽いて抹茶を作る臼のこと。「しん木」(心木・芯木)は臼の芯棒のこと。臼の下石の中央にある芯棒を上石に差し込んで使用するが、ここはその上石の方にある「穴」を指す)、長さ二十一センチメートル余りの、『細蛇(ほそくちなは)の一筋(すぢ)出(いで)て』、間もなく近くにあった『花柚(はなゆ)』の木の枝に飛び移り(「花柚」ユズの一種で実は小さい。香りがよく、花や皮を酒や吸い物に入れて用いる。僅かに紫色を帯びた白い五弁花を初夏に咲かせ、俳諧では夏(陰暦四月)の季語とする)、上へ上へと、するする登って行き、その枝の天辺から、鎌首をもたげ、あたかも、空を窺うかと見えておったが、折からの雲霧に紛れたのか、ふっと姿が見えなくなった。と、庵へ麓の里から、人が大勢駆けつけて来て、「只今此庭から、十丈あまりの竜(たつ)が天上(てんじやう)した」と注進に来た(「十丈」は凡そ三十メートル)。この「聲におどろき、外へ出て見るに、門前に大木の、榎(ゑ)の木ありしが」、一番太い枝がぱっくりと裂け、その下の地面は抉(えぐ)れて、池のように水が溜まっていた。「さてもさても大(おほ)きなる事や」と、人々が騒いだが、この道心、平然として一笑すると、「おのおの廣き世界を見ぬゆへ也。我(われ)、筑前にありし時、さし荷(にな)ひの大蕪(おほかむな)あり。又、雲州松江川に、橫はゞ一尺弐寸づゝ鮒あり。近江の長柄山より、九間ある山の芋、ほり出せし事も有(あり)。竹が嶋の竹は、其まゝ手桶に切(きり)ぬ。熊野に油壺を引(ひく)蟻あり。松前に一里半つゞきたるこんぶあり。つしまの嶋山(しまやま)に、髭(ひげ)一丈のばしたる、老人あり。遠國を見ねば合点のゆかぬ物ぞかし。」と諭した(「さし荷ひ」は天秤を刺して縛り、前後二人で抱えなければならないことを言う。「松江川」は現在の松江の中心部を流れる大橋川のことか。「橫はゞ一尺弐寸づゝ鮒」体幅が三十六センチメートルのフナ。ちょっとした「マグロ並みの大鮒」ということになる。「近江の長柄山」現在の滋賀県大津市西部にある山で、歌枕として知られる。「九間ある山の芋」十九メートル弱のナガイモというのは、縦に掘り出したんでは、山が崩れてなくなりそうである。「竹が嶋」鹿児島県佐多岬の南西五十キロメートルの海上に浮かぶ竹島のこと。イネ科メダケ属タイミンチク(台明竹)Pleioblastus
gramineus の産地として知られる。但し、タイミンチクは大きくなっても高さ七~八メートル止まりで、ネット上の写真で確認してみても太さも通常の竹と変わらず、切ってそのまま手桶に出来るほどには太くはないように見える。「油壺」油を貯蔵保存する大甕(おおがめ)。「松前」狭義には渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた松前藩を指すが、ここは広義の蝦夷地(北海道)の謂いか。「一里半つゞきたるこんぶ」全長五キロ七百メートルの昆布となると、ヤンキーのジャイアント・ケルプも真っ青である。「つしまの嶋山」現在の長崎県対馬市美津島町島山島。これは山というより、対馬の丁度中央部、浅茅(あそう)湾に浮かぶ島の名である。現在は美津島町と橋で繋がっている。なお、実はこの後も道心の話が続き、そこで戦国時代の高僧策彦(さくげん)和尚と信長のエピソードが披露され、その中で策彦が本篇題名にある、インドの霊鷲山(りょうじゅせん)にある一枚が八畳程もあるという巨大ハスの話をするのであるが、この部分、やや捩れてしまっていて、私はあまり成功した話柄になっていないと思うこと、ここの龍の俳諧博物誌とは無関係なので梗概を割愛した。なお、この道心の説教染みた謂いは、実はこの「西鶴諸國ばなし」の「序」でも重複する素材を挙げて、同じようなことを述べているので、御興味のある方は、「序」もお読みになることをお薦めする。冒頭、「世間の廣き事、國國を見めぐりて、はなしの種をもとめぬ。熊野の奥には、湯の中にひれふる魚、有(あり)。筑前の國にはひとつをさし荷ひの大蕪(おほかぶら)有」と始まって、掉尾を「都の嵯峨に四十一迄大振袖の女あり。是をおもふに、人はばけもの、世にないものはなし」と締めている。なお、この話、芥川龍之介が、ほとんど知られていない短い随想風の「河童」(かの奇作「河童」のプロトタイプとも目される)で言及しており、以上の注も私が、その「河童(やぶちゃんによる芥川龍之介真原稿恣意的推定版) 附やぶちゃん注 (又は やぶちゃん恣意的副題――どうかPrototype“Kappa”と讀んで下さい――)」で注したものに手を加えたものである。よろしければ、そちらもお読みになられんことをお薦めする。]
凌霄(りようせう)や龍の上つた手水鉢 麥水
さみだれに龍も登るか軒の雲 湖雀
これらは『諸国はなし』とほぼ似たような世界に属する。古人は深淵大沢以外にも龍の蟄伏(ちつぶく)することを信じていた。漢土は殊に龍の本場だけあって、仏殿の柱の下から出たり、井戸の中から昇ったり、石に化して人に拾われたり、真に端倪(たんげい)すべからざるものがある。手水鉢から昇天した麦水の龍も、いずれ小蛇の形か何かになって蟄伏していた末の事であろう。湖雀の句はどこから昇るともいってないが、軒端を鎖(とざ)す真黒な雲に対して「龍も登るか」という以上、いずれその家の近くに昇天する龍がなければならぬ。龍と雲とは古来不可分の間柄であり、劉禹錫(りゅううしゃく)の見た龍の話なども、大雨の後の杏の木に雲気散せずというところからはじまっている。龍を詠んだ句に存外小さな配合物が出て来るのは、古人が随所に龍の蟄することを認めた結果で、必ずしも詩形の小さいためではない。
[やぶちゃん注:「凌霄(りようせう)」歴史的仮名遣は「りょうしょう」。「凌霄花(のうぜんかずら」のこと。シソ目ノウゼンカズラ科タチノウゼン連ノウゼンカズラ属ノウゼンカズラ Campsis grandiflora。落葉性蔓性木本で、葉は卵形の小葉からなる羽状複葉で、夏から秋にかけて橙色或いは赤色の大きな漏斗状で先が五裂した美しい花をつけ、盛んに気根を出して、樹木や壁面などの他物に付着し、蔓を伸ばす。中国原産であるが、平安時代には日本に渡来していたと考えられている。夏の季語。
「端倪すべからざる」「端」は「物事の始め」で「倪」はその「終り」の意で、専ら、「始めから終わりまでを安易に推し量るべきでない」というような重要或いは深淵な対象を表現する場合に用いる。「凡そ推測が及に得ない」「いっかな計り知れぬ」といった驚愕的ニュアンスをも含む。
「劉禹錫(りゅううしゃく)の見た龍の話」「詩豪」と称せられた中唐の名詩人にして政治家劉禹錫(七七二年~八四二年)の目撃談は「太平廣記」の「龍五」に「集異記」殻として載せる「劉禹錫」。
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唐連州刺史劉禹錫、貞元中、寓居滎澤。首夏獨坐林亭、忽然間大雨、天地昏黑、久方開霽。獨亭中杏樹、雲氣不散。禹錫就視樹下、有一物形如龜鱉、腥穢頗甚、大五斗釜。禹錫因以瓦礫投之。其物即緩緩登堦。止于簷柱。禹錫乃退立於牀下。支策以觀之。其物仰視柱杪、款以前趾、抉去半柱。因大震一聲、屋瓦飛紛亂下、亭內東壁、上下罅裂丈許。先是亭東紫花苜蓿數畝、禹錫時於裂處、分明遙見。雷既收聲、其物亦失、而東壁之裂、亦已自吻合矣。禹錫亟視之、苜蓿如故、壁曾無動處。
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個人ブログ「志怪を気まぐれに紹介するブログ」の「劉禹錫が龍に遭遇する話」に訳が載る。]
秋の霜三尺の龍やこもりぬる 曉臺
潛(ひそま)りし龍は内にか紙幟(かみのぼり)
沾德(せんとく)
釜に立(たつ)龍をつらつら雲の峯
野坡
暁台の句には「あたり近き市川にまねかれ社司蘆南子(ろなんし)のもとにむかし新羅三郎(しんらさぶらう)より給りのゆへよし正しくありて天國の劍を重寶す、謹(つつしみ)て拜見す」という前書がついている。三尺は勿論剣の長さから来ているが、剣を龍に見立てたのでなしに、中に龍が籠っているというのがこの句の眼目であり、また剣の神威ある所以でもある。
[やぶちゃん注:漫然と読んでいた私はこの「市川」を千葉県の市川だと思い込んでいたが、違った。個人ブログである「北杜市ふるさと歴史文学資料館
山口素堂資料室」の『暁臺句集「日本俳書大系」甲斐関係抜粋 五味可都里訪問 暁臺句集「日本俳書大系」甲斐関係抜粋』(五味可都里(ごみかつり 寛保三(一七四三)年~文化一四(一八一七)年)は甲斐の俳人。通称は宗蔵・益雄。加藤暁台・高桑闌更に学び、天明八(一七八八)年の「農おとこ」、寛政一〇(一七九八)年の「なゝしとり」などを編集した)に(一部の改行を繫げ、漢字を恣意的に正字化させて貰った)、
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信濃の道くだり、甲斐の國に步みを引ちがへて行ほど、藤田の可都里(五味)は年頃文してしれる好人なれば尋ぬ。其の夜ごろにこもあれば、月を見せばやなどわりなくとゞめられ、望の夜もここに邁遊ぶ。士峯(富士山)の北面まぢかくひたひにかゝるやうなり。
高根はれて裏行月のひかり哉
今管[やぶちゃん注:ママ。意味不明。「只管」の誤字か?]空の淸らなる、十とせにだもえこそこ覺れなど、誰かれと共に夜更けるまで興す。
堪ずしも薄雲出るけふの月
あたり近き市川へまねかれ、社司蘆南子[やぶちゃん注:引用元の表記は『芦南子』。後も同じ。]のもとに、むかし新羅三郞より給わり[やぶちゃん注:ママ。]の、ゆへよし正しくありて天國の劔を重寶す。謹て拜見す。
秋の霜三尺の龍やこもりぬる
其餘にも巨勢大納言の畫は、賴朝公の賜のよし。今千歳の家名をかたぶけす、國にめで度譽れなりけり。
酒折の神社は甲府の東はつかに去て、山の邊にたたせ給ふ。こは日頃もうで侍る我國熱田のおはん神と一體におはしませば、歸旅のうへたもともぬるゝばかり、へたりともねるゝばかり、猶有がたう覺えてぬさ奉る。
小墾(おわり)田のをはりの初穗かくもあれ
客中
我きけばをはり田をさす雁ならし
甲斐の國市川なる蘆南子がもとにやどれる夜は、しくしく雨の降出つ。空は月の出づるかも、うすあかりみたるに、雨いよいよふりつのる。夜座尚しづかにおもふ所惑あり。
雨くらき夜のしら根を鴈わたる
甲斐の國道くだり、いぶぜき山中にやどりて
いつの世はとありとしのぶふる里を
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とあり、これからではよく判らないものの、「藤田」と「新羅三郎」から推測して調べて見たところ、可能性の一つとして、現在の山梨県南アルプス市藤田(とうだ)にある「藤田八幡神社」が気になった(ここ(グーグル・マップ・データ))。但し、ここの新羅三郎の剣があるという情報は見出せなかった。郷土史家の御教授を乞うものである。なお、「新羅三郎」は言わずもがな、河内源氏二代目棟梁源頼義の三男で源八幡太郎義家の弟であった源義光(寛徳二(一〇四五)年~大治二(一一二七)年)のこと、近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから「新羅三郎」と称した。]
鯉と龍との間には一脈の繫(つなが)りがあった。沾徳の句の紙幟が鯉であるとすれば、内に龍の潜むことも首肯し得るが、鯉幟の出来た時代が新しく、この句に当嵌らぬとなると、潜龍の始末はどうつけたらいいか、俄(にわか)に解釈を下すことはむずかしい。
[やぶちゃん注:水間沾徳(みずませんとく 寛文二(一六六二)年~享保一一(一七二六)年)は松尾芭蕉・宝井其角と同時代の俳人で、二人の没後の享保期に江戸俳壇の中心となった)の生きた時代と鯉幟りの関係を調べてみると、今でも定かでないようである。但し、「鯉のぼり」は江戸中期頃に江戸の庶民の間で発生し、江戸でのみ見られた風習であり、泳いでいたのは概ね黒一色のマゴイであったことが(以下のリンク先に、知られた歌川広重の「名所江戸百景 水道橋駿河台」の絵がある)、マツイイチロウ氏のブログ「江戸ガイド」のこちらの記載にある。さらに、そこには『当初、「端午の節句」の飾りの主役といえば鯉のぼりでは』なく、その『主役は、幟(のぼり)』で、『旗のようなもので』あるとして、勝川春章の真っ赤な「鍾馗(しょうき)」の描かれたそれと、その向うに典型的な幟旗が立つ絵が見れる。沾徳の生きた時代は江戸前期末からせいぜい江戸中期初めとしか言えず、彼が詠んだものも宵曲には悪いが、鯉の形をしたものではなく、普通の幟旗であった可能性が極めて高いと思われる。ただ、それが捩じれて波打っていれば、あたかも昇り龍のようには見えたであろう。しかし、都合よく、よろしく、鯉から龍という登龍門伝承との視覚上の一致は私は無理であるように私には思われる。]
野坡の句にもまた前書がある。「松風を寢覺(ねざめ)に聞(きき)水無月(みなづき)に時雨(しぐれ)を愛するは茶を好(このめ)る人也、風雅は百越と號して苑に一本の竹をうへて千とせの節を流行(はや)すべしとともに一器の茶に遊びよろしく薰龍舍と名づけ侍る」というのだから、この釜は茶釜である。茶釜の湯気から龍を連想するのは少し力が弱いようであるが、そこは薫龍舎の号がよほど利いているのであろう。湯気立って天に上り、更に凝って雲の峯になるとすれば、一概に馬鹿にするわけにも往かぬ。
立山の雪白龍ののたりかな 樗良(ちよら)
卯辰山(うたつやま)にて
薄雲の花にぞ龍の籠るらめ 秋之坊
樗良の句は立山の雪を白龍に見立てたのである。「のたり」という言葉は、後に説く熊の中にもあるが、それとは意味が違うらしい。『長塚節歌集』に「車の上にても暑さはげしきに、つくばの山にはノタリといふ雲のかゝりたるを見てちかく雨のふるならむと、少し腹に力もつきたることなれば身も心もいさましく」という前書があって、「筑波嶺(つくばね)のノタリはまこと雨ふらばもろこし黍(きび)の葉も裂くと降れ」という歌が出ている。山同士の事ではあるし、雲は龍と因縁が深いから、立山にもこんな言葉があるのかとも考えたが、まだはつきりした解釈を見出し得ない。もし普通の辞書にあるように、「のたうつ」とか「のたくる」とかいう意味に近い言葉であるとしたら、龍の威厳を損ずること夥(おびただ)しいといわなければならぬ。雲を得ざる龍は深淵に潜むのを定石とする。のたくつたり、のたうったりした姿を人に見せるのは、先ず傷ついた場合の外にないからである。
薄雲の花に籠る龍も珍しいことは珍しいが、どうもわれわれの感じに乗りにくい。雲とまがう花の中にしろ、山を掩う雲にしろ、その中に籠るというのは、今まで挙げて来たどの龍にも当嵌らぬような気がする。卯辰山の辰が利かせてあるとすれば固(もと)より論外である。
[やぶちゃん注:「後に説く熊」「俳諧博物誌 熊」は五つ後に出る。
「卯辰山」石川県金沢市にある標高百四十一・一五メートルの山。名は金沢城から見て東(卯辰の方角)に位置することに由る。ここ(グーグル・マップ・データ)。秋之坊は金沢の蕉門の俳人。「奥の細道」で芭蕉が金沢を訪れた折りに対面し、即座に現地で入門した。前田藩藩士であったが、後に武士を捨てて剃髪して「秋之坊」と号して蓮昌寺境内に隠棲した。]
昇龍の讚
万倍に龍の雫(しづく)の靑田かな 蓼太
画讃の句であろう。龍が雲を起して天上する。その際の雨に霑(うるお)った青田に、万倍の稲の稔りを祈念する。先ずめでたい御趣意である。昇龍の画からこれだけの事を想い浮べたとすれば、その龍は大に働いているものと見てよかろうと思う。
ところで一旦昇天した龍はどうするか。大空を飛ぶ悠々たる白雲も、時に雨となって地上に降らなければならぬ運命を持っている。龍ばかりは永久に天界を己が栖として、ただ後進を地上より誘うのが仕事かと思うと、やはり落下の運命を免れないらしい。
龍の落ちし畑見に行くや雲の峯 几董
落ちかゝる龍の鱗や雲の峯 長
この二句は不思議に現実的な色彩を帯びている。幽霊はかき消すように失せ、龍は雲に駕して天涯に姿を没するのが得意の舞台なのに、畑の中に落ちたりしては、近頃の飛行機と同じく残骸をさらさざるを得ない。物見高い人間どもが見に出かけるのは当然である。あるいはこれは龍巻の句で、龍の尾の下ったと思われる地点に何らかの痕跡をとどめている、それを見に行くというのであろうか。「落ちかゝる龍の鱗」に至っては、更に話がこまかくしかもはつきりしているだけに、かえつて解釈がつけにくい。
明(あきらか)に龍巻と思われるのは左の一句である。
氷室守(ひむろもり)龍に卷れしはなしかな 曉臺
アンデルセンは『即興詩人』の中に龍巻に巻かれる話を書いている。龍巻そのものの描写は比較的短く、一たび昏絶した主人公が徐(おもむろ)に知覚を取戻す夢幻境の一段が長くかつ委(くわ)しいのであるが、暁台の句はこれと同じように、かつて龍巻に巻かれたことのある男が後に氷室守となり、自分の体験を誰かに話すというのであろうか。そうすれば大分小説的である。氷室のある山中にかつて龍巻があって、人が巻上げられたという事実を、他人の立場で話したにとどまるのであろうか。それなら龍巻はエピソォドの域を出でぬことになる。われわれはこの句を氷室守自身龍巻に巻かれた意味に解し、極めて異色ある句と見たいのである。この表現からいってそう解釈することは決して無理でないと信ずる。
[やぶちゃん注:「即興詩人」(デンマーク語:Improvisatoren)は、専ら童話で知られるデンマークの作家ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen 一八〇五年~一八七五年:デンマーク語のカタカナ音写:ハンス・クレステャン・アナスン)の出世作となった最初の長編小説で、イタリア各地を舞台としたロマンチックな恋愛小説。一八三五年刊行。森鷗外訳「卽興詩人」(明治二五(一八九二)年から明治三四(一九〇一)年にかけて断続的に雑誌『しがらみ草紙』などに発表した。ドイツ語訳からの重訳。単行本の初版は明治三五(一九〇二)年に春陽堂から上下巻で刊行されている)で知られる。宵曲が想起したのも鷗外訳と考えてよかろう。「卽興詩人」は岩波文庫版を所持しているのだが、どうしても見当たらないので、「青空文庫」版(正字正仮名)で確認されたい。「たつまき」と「夢幻境」の章がそれである。]
暁台にはもう一つ
けふの月雲井の龍よ心あれ 曉臺
という句があるが、この方は前に挙げた「芋糊や龍を封じてけふの月」などの如く、良夜の月に対して龍を敵役とし、雲を起すことを戒めたに過ぎぬ。氷室守の句に遠く及ばぬのみならず、剣を詠じた「三尺の龍」の句ほどの力もない。
夢龍(たつ)の都路(みやこぢ)や經む舟涼し
麥水
書を干(ほし)て龍と添寢(そひね)の鼾(いびき)かな
沾德
足入(いれ)て龍の夢見る淸水かな
其角
夢想
京の町で龍がのぼるや時鳥(ほととぎす)
鬼貫
この数句はいずれも夢の龍を扱っている。麦水の句は舟で海上を行く場合、その夢は龍宮に遊ぶであろうというだけで、むしろ平凡であるが、他はいずれも特色がある。沾徳の句は虫干の際、あたりに書物を取散してうたたねをする。「龍と添寝」というその龍は、無論書巻の中にあるので、虫干をしながら偶然あけたところに龍の画を見出したのかも知れぬ。子供の時読んだ竹久夢二氏の童謡に「魔性の蜘蛛(くも)の糸(い)に卷かれ、白縫姫(しらぬひひめ)と添臥(そひぶ)しの、風は白帆の夢をのせ、いつかうとうとねたそうな」という一節があった。これは虫干でなしに、土蔵に入れられた少年が泣き草臥(くたび)れて、そこにある草双紙を見ながら夢に入るのである。書中の或者が夢に現れるという複雑な事柄を、古人が「添寝」の三和を以て易々(やすやす)と十七字中に現しているのは瞠目に値する。
[やぶちゃん注:竹久夢二氏の童謡は「どんたく 絵入小唄集」(大正二(一九一三)年実業之日本社刊)に収録された、「禁制の果實」。
*
禁制の果實
白壁へ
戲繪をかきし科(とが)として
くらき土藏へいれられぬ。
よべどさけべど誰ひとり
鳥をすくふものもなし。
泣きくたぶれて長持の
蓋をひらけばみもそめぬ
「未知の世界」の夢の香に
ちいさき靈(たま)は身にそはず。
窓より夏の日がさせば
國貞ゑがく繪草紙の
「偐紫(にせむらさき)」の桐の花
光の君の袖にちる。
摩耶(まや)の谷間にほろほろと
頻迦(びんが)の鳥の聲きけば
悉多太子(しつたたいし)も泣きたまふ。
魔性の蜘蛛の絲(い)にまかれ
白縫姫と添臥しの
風は白帆(しらほ)の夢をのせ
いつかうとうとねたさうな。
藏の二階の金網に
赤い夕日がかっとてり
さむれば母の膝まくら。
*]
其角の句は清水に足を浸して涼んでいる間についうとうとした。その短い間の夢に龍が出て来るというのだから、いささかきわどいようだけれども、それだけにまた人を驚かすものがある。龍を夢みるについては、いずれ清水のある場所が人寰(じんかん)を離れた幽邃(ゆうすい)な条件を具えているのであろう。「切られたる夢はまことか蚤の跡」の作者に取っては家常茶飯事かも知れぬが、到底庸人(ようじん)の企て及ぶ世界ではない。
[やぶちゃん注:「人寰(じんかん)」人間(じんかん)人間の住んでいる世界。世の中。世間。
「幽邃(ゆうすい)」景色が奥深く静かなこと。
「庸人(ようじん)」凡庸な人間。凡人。]
鬼貫の一句は夢中にこの句を得たという前書なので、龍の夢を見たとも断定出来ぬところがある。即ち「京の町で龍がのぼる」というのは夢の中で逢著(ほうちゃく)した事実なのか、夢中に斯(かく)の如き奇想を案じ得たまでか、その点が明瞭でない。時鳥は単なる添物のようでもあり、句としてどこかピントの合わぬ感じもする。夢想の二字は一句の成った所以を説明する断り書のようにも見える。
夢中の龍は奇抜過ぎるから、夢に托した窮手段と解する人があるかも知れぬ。しかし明治の子規居士ですら、病牀の日記に「昨夜の夢に緋鯉の半ば龍に化したるを見て恐しと思ふ」と記しているのを見れば、古人夢龍の一事はさのみ怪しむに足らぬであろう。そこに何者にも拘束されぬ夢の天地があるのである。
寓目した龍の句は以上で大体挙げおわった。更に多くの俳書を点検したら、まだいくらも出て来るであろうが、巨龍の片鱗を示すものとしては、これだけでも差支あるまい。
龍のすくあたりをけふの汐干かな 起來
たはら藻(も)や龍宮ならば掃き捨てむ 麥水
嶋原も龍の都か霧の海 有闇
秋の夜や湖(うみ)もふけゆく龍の笛 素古
中尊寺
虹吹てぬけたか涼し龍の牙 桃鄰
これらは前に挙ぐべくして挙げなかったものである。起来以下の四句は龍宮界の中に入るべきものであるが、「嶋原」の句は見立に過ぎず、「秋の夜」の句はたまたま琵琶湖畔の深夜に笛の音を聞いて、龍宮に吹鳴らすものとしたのであろう。「虹吹て」の句は『陸奥鵆(むつちどり)』の本文にもんじゆいつさいきようこんしこんでいいくたまがしひでひら
「經堂、本尊文殊。一切經二通紺帋(こんし)金泥。寶物、水晶ノ生玉(いくたま)、龍ノ牙齒(がし)、秀衡(ひでひら)太刀、義経切腹九(く)寸五分」と見えている。一見した宝物の龍の牙歯から「虹吹てぬけたか」という想像をめぐらし、「涼し」の語によって夏の季に定めたのである。
[やぶちゃん注:「たはら藻」お馴染みの、不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ホンダワラ Sargassum fulvellum のこと。私は大好物である。あの痛快なシャキシャキ感は他の海藻類では絶対に味わえない。]
長々と書続けて見たものの、雲を呼び空を翔る龍の如き名案は生れそうもないから、この辺で打切ることにしたい。龍頭蛇尾は古今の通則である。特にこの一篇において弁解を事とするに及ぶまいと思う。
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