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« 柴田宵曲 俳諧博物誌(13) 狸 二 | トップページ | 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)  猪・鹿・狸 »

2017/11/30

柴田宵曲 俳諧博物誌(14) 狸 三

 

       

 

 『新花摘』の狸は蕪村を驚かしたことは慥であるにせよ、連夜雨戸を叩いたり、闇中で足に触れたり、胸の上に磐石の如くのしかかったりする程度で、畢竟悪戯の範囲を出ない。見性寺の話に狸沙弥の仕業とある通り、大して邪気のない悪戯である。蕪村が一応びっくりさせられながら、悪戯の主を憎むに至らぬのもそのためで、もし彼らの仕業がもっと邪気を帯びていたら、句中に取入れるだけの余裕を持たなかったであろう。しかし天下の狸族をして常に必ずこの矩(のり)を踰(こ)えしめぬことは困難である。露川が北国行脚の時、或(ある)山の傍を通りかかると、人が五三人集っているので、立寄って見たところ、大きさ四、五尺とも見える狸が、三本の大竹で磔(はりつけ)にかけられていた。近くの畑主に男女二人の子を持った者があって、六つになる兄の方が去年の秋、この辺で行方不明になつた。その妹もまた十日ほど前、この畑に摘草(つみくさ)に来たまま、遂に帰って来ない。親大(おおい)に悲しんでその辺を見廻したら畔(ほとり)に大きな穴があり、その穴の口に女の子の草履(ぞうり)が片足見える。さてはというので土地の人を語らい、岩をはね掘崩(ほりくず)すと中から狸が駈出(かけだ)した。直に打殺してその奥を捜せば、娘に著(き)せた単衣(ひとえ)が血に染って出て来た。最早疑なしとして件(くだん)の狸を磔にかけたというのである。露川は「今迚(とて)もかゝる山中には妖怪も有けるよと矢立(やたて)を出して記し侍る。一歩に千里の迷ひとは此山道なるべし」といって、

 

 渡唐(とたう)して來たか幾山いく茂り 露川

 

の一句をとどめている。

[やぶちゃん注:「露川」は名古屋蕉門の一人、藤屋露川(寛文元(一六六一)年~寛保三(一七四三)年)本姓は澤、通称、藤屋市郎右衛門。伊賀上野出身で、若いと時に名古屋に出て、渡辺家の婿養子となり、数珠商として財をなした。北村季吟の門下であったが、元禄四(一六九一)年、熱田で芭蕉に対面し、蕉門に入ったか。芭蕉の死後、宝永三(一七〇六)年初冬に剃髪し、諸国行脚を始め、蕉門拡大に腐心した。以上の話、是非、原文い当りたく思ったが、原本が何かも判らぬ。識者の御教授を是非とも乞うものである。]

 この話は筆者の見た狸談の中で、最も不愉快な部類に属する。それが俳人の紀行に出て来るのは、いささか意外の感がないでもない。「渡唐して来たか」はその狸の劫を経た曲者たることを示すもので、幼児を誘うに当っては得意の幻術を用いるのであろう。この手合に比すれば、大入道や普賢菩薩に化ける連中の方が遥に罪が浅い。かちかち山の狸の末孫が黄表紙以外に存在していて、斯の如く憎むべき所行に出るのかも知れぬ。愛すべき天下の狸群のために、こんな同類の悪を掲げずに置いた方がいいかと思うが、狸運拙くして露川の目に留った以上、醜を後世にさらすのもやむをえまいと思う。

 早川孝太郎の『猪・鹿・狸』は、大正十五年にはじめて出版された当時、芥川龍之介氏をして「近頃にこのくらい愉快に読んだ本はなかった」と評せしめた書物で、狸に関しても多くの興趣ある話を載せているが、殊に緋(ひ)の衣を纏った狸の一条は、「狸の磔」を連想せしめる点で看過しがたい。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎の『猪・鹿・狸』」画家から民俗学者となった早川孝太郎(明治二二(一八八九)年~昭和三一(一九五六)年)が大正一五(一九二六)年十一月に郷土研究社から刊行した表題の三種の動物に纏わる、早川の郷里である愛知県の旧南設楽郡横山村(現在の静岡県浜松市天竜区横山町。ここ(グーグル・マップ・データ))を中心とした民譚集。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来る。以下の話は同書の狸パートの「十六 緋の衣を纒つた狸」で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像ではから読める。

『芥川龍之介氏をして「近頃にこのくらい愉快に読んだ本はなかった」と評せしめた』大正一五(一九二六)年十二月六日発行の『東京日日新聞』の「ブックレヴィュー」欄に掲載された「猪・鹿・狸」を指す。今日、この注のためにブログで電子化注した。]

 伊良湖岬(いらござき)第一の高山である御津(みつ)の大山の大久保の谷というところに、昔から悪い狸が棲(す)んでいて、山越の者がしばしば行方不明になる。或時その一人の身につけていた手拭(てぬぐい)が、血に染って木の枝に掛っていたところから、遂に山狩をすることになって、一隊が山深く入込むと大きな狸の穴があった。その手前にまた行方不明者の履物(はきもの)が片方落ちていたので、いよいよ怪しいと見極めをつけ、周囲に竹矢来を結(ゆ)って穴を掘りにかかった。恐しく深い穴で、三日目に漸く最後の穴に掘り当てると、広さ八畳敷ほどもある奥に一段高い処があって、緋の衣を纏った大狸が、人々の騒ぐのを尻目にかけて端然と坐っていた。狸はここで尋常(じんじょう)に殺されたが、傍には行方不明になった人の衣類や骨が堆(うずたか)く積んであった。件(くだん)の緋の衣は葬式帰りの和尚のものを失敬したのだというのである。この話は慥(たしか)に露川の見た狸に似ている。彼を人里に出没する鼠賊(そぞく)の輩(やから)とすれば、これは山寨(さんさい)を構える賊魁(ぞっかい)の徒に相違ない。

[やぶちゃん注:「大久保の谷」恐らくは現在の愛知県田原市大久保町附近である。(グーグル・マップ・データ)。

「鼠賊」小さな盗みをする泥棒、「こそどろ」のこと。

 この際なので「猪・鹿・狸」の当該部を総て、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認して電子化しておくこととする。踊り字「〱」は正字化した。

   *

 

     十六 緋の衣を纏つた狸

 

 三河の伊良胡岬の丁度中央頃、田原の町からは南に當つて聳えて居る山を、御津(おつと)の大山(おほやま)と謂うて、岬中では第一の高山であつた。此山の大久保の谷には、昔から惡い狸がすんで居るとは專ら言傳へて居た。未だ古い出來事ではないと聞いたが、山の南方に當る福江村の者が、朝早く山を越して仕事に出ると、定つて行衞が判らなくなる。それが村の者だけではない、旅商人などで日を暮らして通りかゝつた者が皆目知れなくなった事もある。或時は葬式歸りの和尚と小坊主二人が、日暮れに山に掛つた儘知れなくなつた。それが或時、行衞の判らなくなつた者の、身に附けて居た手拭が、血に染つて山の途中の木の枝に引掛つて居た事から、何か山の怪の禍かも知れぬと言事になつた。それで村中評議の上山狩りをする事になつて、その中の一隊が、大久保の山深く入込むと、一ヶ所未だ誰も知らぬ岩窟があつて、その奧に大きな狸の穴を發見した。然もその手前に、甞て行衞を失つた者の履物が片方落ちて居た。愈々此穴が怪しいとなちて、穴の周圍に矢來を結つて置いて掘りにかゝつた。おそろしく深い穴で、三日續けて、掘つて、やつと最後の穴の奧へ掘り當てたと言ふ。中は廣さ八疊敷程もあつて、その奧に更に一段高い處がある。見ると緋の衣を纏つた大狸が、人々の立騷ぐのを尻目にかけて、端然と坐つて居たさうである。村の者も一度は驚いたが、此奴遁すものかと、何れも寄つて集つて撲殺した。然し狸は觀念した樣子で、些しも荒れ狂ふ事は無かつたと謂ふ。傍にはそれ迄狸の餌食になつた人々の、衣類や骨の類が堆く積んであつた。其時狸の着けて居た緋の衣は、葬式歸りの和尚のものであったと言ふが、それ以來大久保の山には、なんの禍も無くなつたと謂ふ。此話は豐橋の町の或婆さんから聽いたが、本人は土地の者から直接聞いたと言うて居た。

 緋の衣は着て居なかつたが、狸が人を殺して食つた話は、未だ他にも聞いた事がある。自分等が子供の頃など、狐と狸と何れが恐ろしいかなどと比較論をやつて、狸は人を殺して食ふから恐ろしい、狐は只化したり憑くだけだなどゝ言うたものである。その時分聞いた話で、八名郡鳥原(とりはら)の山でも、狸の餌食になつた者があつたと專ら噂した。

 狸が人を取り喰らつた話の一方には、女を誘拐して女房にして居た話がある。寶飯郡八幡村千兩(ちぎり)の出來事であつた。娘が家出して行衞が知れなくて、方々搜して居ると、近所の病人に狸が憑いて、俺が連れて行つて女房にして居ると言ふ。場所はこれこれと、村の西北に聳えて居る本宮山の裏山に在る事を漏したので、初めて、山探しをして見ると、果してえらい險しい岩の陰に居たさうである。其處は雨風など自然に防ぐやうに、出來て居る場所だつたと言ふ。後になつて娘によ樣子を問ひ訊すと、狸だか何だか知らぬが、山の木の實や果物の類を、時折運んで來て食はして呉れたと語つたさうである。その娘は平生から、少し足りぬやうな樣子があつたと謂ふ。此話は自分が十二三の頃、隣村の木挽から聽いた話である。

   *]

 建部綾足が『折々草』の中に大高子葉に関する挿話を書いた「ふたつ竹」という俳書がある。子葉に頼まれた汀砂という男が、京都へ行ったり江戸へ戻ったり、何もわからずにまごまごしている様子は、いささか狸に致されたようだが、実際は別に交渉があるわけではない。狸が顔を出すのはかえって俳書「ふたつ竹」そのものの中である。

[やぶちゃん注:「建部綾足が『折々草』の中に大高子葉(彼はかの赤穂浪士四十七士の一人である大高源五(吾)(おおたかげんご)忠雄(ただお 寛文一二(一六七二)年~元禄一六(一七〇三)年二月四日(グレゴリオ暦三月二十日))のことである)に関する挿話を書いた「ふたつ竹」という俳書がある」この一文は誤解される虞れのある不完全な文章である。確かにそこ(「折々草」の「冬の部」の「大高子葉俳人汀砂をつかふ條」)には「子葉に頼まれた汀砂という男が、京都へ行ったり江戸へ戻ったり、何もわからずにまごまごしている様子」が描かれてはいるが、狸とは没交渉な話である。ここは要するに、「建部綾足が『折々草』の中に大高子葉に関する挿話を書い」ているが、その中に出てくる実在する「ふたつ竹」「という俳書があ」り、その最後に狸が顔を出している、という意味で、寧ろ、この建部綾足の「折々草」を出す必要は私はないと断ずるものである。

「ふたつ竹」「二ツ乃竹」が正しい。俳諧撰集。赤穂藩士大高忠雄(子葉)編著。赤穂浪士による吉良邸討ち入り直前の、元禄一五(一七〇二)年九月に刊行されている。参照したウィキの「によれば、『この時期、大高は吉良義央を討つために江戸下向をする直前である。まさに大高にとって俳人としての集大成の遺作とするために刊行した俳諧集で』、『大高忠雄と親交のあった含歓堂沾徳、宝井其角、中尾我黒、上島鬼貫など著名な俳人達が句をよせている。また』、『大高と同じ浅野家中の神崎則休(竹平)、富森正因(春帆)、岡野包秀(放水)、萱野重実(涓泉)の句も載っている』とある。大高源五は大石内蔵助の嫡男大石良金(主税(ちから))らとともに芝三田の松平定直の中屋敷へお預けとなり、そこで切腹している。辞世は、

 

 梅で吞む茶屋もあるべし死出の山

 

であった。]

 「ふたつ竹」の終のところに「古狸引導」「古狸追悼」という短い文章が二つ出て来る。前者は「里右醉書」後者は「子葉戯言」とあって、大高源吾も一役勤めてはいるが、その狸の正体はというと、俳文一流の変幻を尽していて、容易に捕捉することが出来ない。両者を綜合して脈絡を辿って見れば、日本大霊験所という額のある霊地に出没して、あるいは小坊主となり、あるいは女の童となって人に戯れた古狸が、終(つい)に里人の棒を喫して往生を遂げた。子葉の文に「腹鼓打(うち)ては夜番をいぢり、尾をはさみては夜發(やほつ)をつる」とあるのも、その芸能の一斑らしい。彼が「木のもとの落葉」となったのは、どうやら「富人の別墅(べつしよ)」に逃入ってからのようでもある。こういう閲歴を有する狸のために、里右は

 

 七化(ななばけ)のしらけ仕舞や後の月 里右

 

と詠み、子葉は

 

 露の世や六十棒のめつたうち      子葉

 

の句を手向(たむ)けた。しかも里右は「古狸古狸、我汝が愚なるを憐んで是(この)我も釈氏の徒に化たりと笑て引導す」と狸に負けぬ手際を見せ、子葉も「聞、飯沼の弘經寺は所化の形に化して螢雪のひかりをもとめし其筆跡什物となりてありとかや」などといっているあたり、自(おのずか)ら狸味横溢するものがあるといわなければならぬ。この古狸が活躍したのは何処(どこ)か、飯沼の弘経寺の狸談というのはどんなものか、さっぱり見当がつかぬが、子葉が本懐を遂げるに先(さきだ)って古狸追悼の一文を草しているのは事実である。これは狸のみならず、義徒の一人たる大高源吾のためにも伝えてしかるべき逸事のような気がする。

[やぶちゃん注:「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の写本画像で「ふたつ竹」の終りにある、その「古狸引導」「古狸追悼」を読むことが出来る。ネット時代の冥利に尽きる思いが狸さえもするであろう。]

 なお『折々草』の中には連歌を詠む男が狸に証かされた話もあるが、あまり調子に乗って書いていると、此方も狸に致され気味だから、ここらで話を回転することにしよう。

[やぶちゃん注:宵曲が言っているいるのは「折々草」の「冬の部」の「連歌よむを聞て狸の笑ひしをいう條」である。]

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