江戸川乱歩 孤島の鬼(15) 盲点の作用
盲点の作用
局面が俄(にわ)かに、一変した。
私が前章に述べたような種々の理由によって、この犯罪事件に関係があるにちがいないと睨んで、そのためわざわざ詰問に出掛けて行った諸戸道雄が、だんだん話してみると、意外にも犯人どころか、彼もまた、亡き深山木幸吉と同じく一箇の素人探偵であったことがわかってきたのである。
のみならず、諸戸はすでにこの事件の犯人を知っていると言い、それをいま私に打ちあけようとさえしているのだ、生前の深山木の鋭い探偵眼に驚いていた私は、ここにその深山木以上の名探偵を発見して、さらに一驚を喫しなければならなかった。長いあいだの交際を通じて、性慾倒錯者として、無気味な解剖学者として、諸戸がはなはだ風変りな人物であることは知っていたけれど、その彼に、かくのごとき優れた探偵能力があろうとは、まことに想像だにもしなかったところである。意外なる局面の転換に私はあっけにとられた形であった。
これまでのところでは、読者諸君にも多分そうであるように、当時の私にとっても、諸戸道雄は全く謎の人物であった。彼には何かしら、世の常の人間と違ったところがあった。彼の従事していた研究の異様なこと(その詳しいことは後に説明する機会がある)、性的倒錯者であったことなどが、彼をそんなふうに見せたのかもしれないが、しかし、どうもそれだけではなかった。表面善人らしく見えていて、その裏側にえたいの知れぬ悪がひそんでいる。彼の身辺には、陽炎(かげろう)のように無気味な妖気が立ち昇っている、といった感じなのである。それと、彼が素人探偵として私の前に現われたのが、あまりにも突然であったのとで、私は彼の言葉を信じきれない気持であった。
だが、それにもかかわらず、彼の探偵としての推理力は、以下に述べるように、実にすばらしいものであったし、また彼の人間としての善良さは、表情や言葉の端々にも見て取ることができたほどで、私は、心の奥底には、まだ一片の疑いを残しながらも、ついつい彼の言葉を信じ、彼の意見に従う気にもなって行ったのである。
「私の知っている人ですって。おかしいな、少しもわからない。教えてください」
私は再びそれを尋ねた。
「突然言ったのでは、君にはよく呑み込めないかもしれぬ。でね、少し面倒だけれど、僕の分析の経路を聞いてくれないだろうか。つまり、僕の探偵苦心談だね。もっとも冒険をしたり歩き廻ったりの苦心談じゃないけれど」
諸戸はすっかり安心した調子で答えた。
「ええ、聞きます」
「この二つの殺人事件はどちらも一見不可能に見える。一つは密閉された屋内で行われ、犯人の出入りが不可能だったし、一つは白昼群衆の面前で行われて、しかもなにびとも犯人を目撃しなかったというのだから、これもほとんど不可能な事柄です。だが不可能が行われるはずはないのだから、この二つの事件は、一応、その『不可能』そのものについて吟味してみることが最も必要でしょう。不可能の裏側をのぞいてみると、案外つまらない手品の種がかくされているものだからね」
諸戸も手品という言葉を使った。私は深山木もかつて同じような比喩を用いたことを思いあわせて、一そう諸戸の判断を信頼する気持になった。
「非常にはかばかしいことです(深山木も同じことをいった)。余りばかばかしいことなので、僕は容易に信じられなかった。一つだけでは信じられなかった。だが、深山木さんの事件が起こったので、やっぱり僕の想像が当たっていたことが確かめられたのです。ばかばかしいというのはね、欺瞞の方法が子供だましみたいだということで。だが、そのやり方は実にずば抜けて大胆不敵なのです。それがために、この犯罪人はかえって安全であったとも言いうる。さあなんと言っていいか、この事件にはちょっと人間世界では想像できないほどの、醜い、残忍な、野獣性がひそんでいる。一見ばかばかしいようではあるが、人間の智慧でなくて悪魔の智慧でなければ、考え出せない種類の犯罪なのです」
諸戸はやや興奮して、さも憎々しげにしゃべってきたが、ちょっとおしだまって、じっつと私の眼をのぞき込んだ。私はその時、彼の眼の中には、いつもの愛撫の表情がうせて、深い恐怖の色がただよっているのを感じた。私もつり込まれて、同じ眼つきになっていたにちがいない。
「僕はこんなふうに考えた。初代さんの場合はね、皆が信じているように、犯人は全く出入りが不可能な状態であった。どの戸口も中から錠がおろしてあった。犯人が内部に残っているか、それとも共犯者が家の中にいたとしか考えられない事情であった。それがつまり初代さんのお母さんを被疑者にしてしまったわけなんだが、しかし、僕の聞いていたところでは、お母さんが下手人だとも考えられぬ。どんなことがあったって、一人娘を殺す親なんているはずがない。そこで僕はこの一見『不可能』に見える事情の裏には、何かちょっと人の気づかぬカラクリが隠されていると睨んだのです」
諸戸の熱心な話しぶりを聞いていると、私はふと変てこな、なにかそぐわぬものを感じないではいられなかった。私はハテナと思った。諸戸道雄は、一体どうして、こんなにも初代さんの事件に力こぶを入れているのであろう。恋人を失った私への同情からであろうか。或いはまた彼の生来の探偵好きのさせる業であろうか。だが、どうも変だ、ただそれだけの理由で、彼はこんなにも熱心になれたのであろうか。そこには、何かもっと別の理由があったのではないか。のちに思い当たったことであるが、私はなんとなくそんなふうに感じないではいられなかった。
「たとえばね、代数の問題をとくときに、いくらやってみても解けない。一と晩かかっても書きつぶしの紙がふえるばかりだ。これは不可能な問題に違いないと思うね。だが、どうかした拍子に、同じ問題をまるで違った方角から考えてみると、ヒョッコリなんの造作もなく解けることがある。それが解けないというのは、いわば呪文にかかっているんですね。思考力の盲点といったようなものに禍いされているんですね。初代さんの事件でも、この見方全くかえてみるということが必要だったと思う。あの場合、出入口が全然なかったというのは、屋外からの出入口がなかったということです。戸締まりも完全だったし、庭に足跡もなかったし、天井も同様、縁の下へは外部からはいれないように網が張ってあった。つまりそとからはいる箇所は全くなかった。この『そとから』という考え方が禍したのですよ。犯人はそとからはいってそとへ出るものという先入主がいけなかったのですよ」
学者の諸戸は、変に思わせぶりな、学問的な物の言い方をした。私は彼の意味がいくらかわかったようでもあり、まるで見当がつかぬようでもあり、あっけにとられた形で、しかし非常な興味をもって聞き入っていた。
「では、そとからでなければ、一体どこからはいったのだというでしょう。中にいたのは被害者とお母さんだけなんだから、犯人がそとからはいらなかったというのは、では、下手人はやっぱりお母さんだったという意味かと、反問するでしょう。それではまだ盲点にひっかかっているのです。なんでもないことですよ。これはね、いわば日本の建築の問題ですよ。ほら覚えていますか。初代さんの家はお隣りと二軒で一と棟になっている。あの二軒だけが平屋だから、すぐ気づくでしょう……」
諸戸は妙な笑いを浮かべて私を見た。
「じゃあ、犯人はお隣からはいって、お隣から逃げ出したというのですか」
私は驚いて尋ねた。
「それがたった一つの可能な場合です。一と棟になっているのだから、日本建築の常として、天井裏と縁の下は二軒共通なんです。僕はいつも思うのだが、戸締まり戸締まりとやかましくいっても、長屋建てじゃなんにもならない。おかしいね。裏表の戸締まりばかり厳重にして、天井裏とか縁の下の抜け道をほったらかしておくんだから、日本人は呑気(のんき)ですよ」
「しかし」
私はムラムラと湧き起こる疑問を押えかねていった。
「お隣は人のいい老人夫婦の古道具屋で、しかも、あなたも多分お聞きでしょうが、あの朝は初代さんの死体が発見されたあとで近所の人に叩き起こされたんですよ。それまではあの家もちゃんと戸締まりがしてあったのです。それから老人が戸をあけた時分には、もう野次馬が集まっていて、あの古道具屋が休憩所みたいになってしまったのだから、犯人の逃げ出す隙はなかったはずですが、まさかあの老人が、共犯者で犯人を匿(かく)まったとは思えませんからね」
「君のいう通りですよ。僕もそんなふうに考えた」
「それから、もっと確かなことは、天井裏を通り抜けたとすれば、そこのちりの上に足跡か何か残っているはずなのに、警察で調べてなんの痕跡もなかったではありませんか。また縁の下にしても、みな金網張りなんかで通れないようになっていたではありませんか。まさか犯人が根太板を破り、畳を上げてはいったとも考えられませんからね」
[やぶちゃん注:「根太板」(ねだいた)は、この場合、床板を支える横木の上に張る板。畳の下や板の間の床板(ゆかいた)のこと。]
「その通りです。だが、もっといい通路があるのです。まるで、ここからおはいりなさいといわぬばかりの、ごくごくありふれた、それゆえに、かえって人の気づかぬ大きな通路があるのです」
「天井と縁の下以外にですか。まさか壁からではないでしょう」
「いや、そんなふう考えてはいけない。壁を破ったり、根太をはがしたり、小細工をしないで、なんの痕跡も残さず、堂々と出入りできる箇所があるのです。エドガア・ポーの小説にね、『盜まれた手紙』というのがある、読んだことありますか。ある賢い男が手紙を隠すのだが、最も賢い隠し方は隠さぬことだという考えから、無造作に壁の状差しへ投げ込んでおいたので、警察が家探しをしても発見することができなかった話です。これを一方からいうと誰も知っているようなごくあからさまな場所は、犯罪などの真剣な場合には、かえって閑却(かんきゃく)され、気づかれぬものだということになります。僕のいい方にすれば、一種の盲点の作用なんです。初代さんの事件でも、いってしまえばどうしてそんな簡単なことを見逃したのかとばかばかしくなるくらいだが、それが先に言った『賊はそとから』という観念にわざわいされたためですよ。一度『中から』とさえ考えたなら、すぐ気づくはずなんだから」
[やぶちゃん注:底本では「箇所」が「筒所」となっている。「筒」みたい抜けられる「所」という意味で洒落てみても始まらぬから、誤植と断じて特異的に訂した。
「盗まれた手紙」既注。]
「わかりませんね。一体どこから出入りしたのですか」
私は相手にからかわれているような気がして多少不快でさえあった。
「ほらどこの家でも、長屋なんかには、台所の板の間は、三尺四方ぐらい、上げ板になったところがある。ね、炭や薪なんかを入れておく場所です。ね、上げ板の下は、大抵仕切りがなくて、ずっと縁の下へつづいているでしょう。まさか内部から賊がはいるとは考えぬので、そとに面したところには金網を張るほど用心深い人でも、あすこだけは一向戸締まりをしないものですよ」
「じゃ、その上げ板から初代さんを殺した男が出入りしたというのですか」
「僕はたびたびあの家へ行って見て、台所に上げ板のあること、その下には仕切りがなくて全体の縁の下と共通になっていることを確かめたのです。つまり、犯人はお隣の道具屋の上げ板からはいって、縁の下を通り、初代さんの家の上げ板から忍び込み、同じ方法で逃げ去ったと考えることができます」
この方法によれば、神秘的さえ見えた初代殺しの秘密を、実にあっけなく解くことができた。私はこの諸戸の条理整然たる推理に一応は感服したのであるが、だが、よく考えてみると、そうして通路だけが解決されたところで、もっと肝要な問題がいろいろ残っている。古道具屋の主人がどうしてその犯人を気づかなかったのか。たくさんの野次馬の面前を、犯人は如何にして逃げ去ることができたのか。一体犯人とは何者であるか。諸戸は犯人は私の知っている者だといった。それは誰のことであろう。私は諸戸のあまりにも迂回的なものの言い方に、イライラしないではいられなかった。
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