江戸川乱歩 孤島の鬼(38) 麻縄の切り口
麻縄の切り口
画工フェデリゴとちがって、私たちは神を祈ることはしなかった。そのためであるか、彼らのようにたやすく糸の端を見つけることはできなかった。
一時間以上も、私たちは冷やかな地底にもかかわらず、全身に汗を流して、物狂わしく探しまわった。私は絶望と、諸戸に対する申し訳なさに、幾度も、冷たい岩の上に身を投げて、泣き出したくなった。諸戸の強烈な意志が、私を励ましてくれなかったら、おそらく私は探索を思い切って、ほら穴の中に坐ったまま、餓死を待ったかもしれない。
私たちは何度となく、洞窟に住む大蝙蝠(おおこうもり)のために、ロウソクの光を消された。やつらは無気味な毛むくじゃらのからだを、ロウソクばかりでなく、私たちの顔にぶっつけた。
諸戸は辛抱強く、ロウソクを点じては、次から次と、洞窟の中を組織的に探しまわった。
「あわててはいけない。落ちついていさえしたら、ここにあるにちがいないものが、見つからぬという道理はないのだから」
彼は驚くべき執拗さで、捜索をつづけた。
そして、ついに、諸戸の沈着のお蔭で、麻縄の端は発見された。が、それはなんという悲しい発見であったろう。
それを摑んだとき、諸戸も私も、無上の歓喜に、思わず小躍りして「バンザイ」と叫びそうにさえなった。私は喜びのあまり、つかんだ縄をグングンと手元へたぐり寄せた。そして、それがいつまででもズルズルと伸びてくるのを、怪しむひまもなかった。
「変だね、手答えがないの?」
そばで見ていた諸戸が、ふと気づいていった。いわれてみると変である。私はそれがどのような不幸を意味するかも知らないで、勢いこめて、引き試みた。すると、縄は蛇のように波うって、私を目がけて飛びかかり、私ははずみを食って、尻餅をついてしまった。
「引っぱっちゃいけない」
私が尻餅をついたのと、諸戸が叫んだのと同時だった。
「縄が切れてるんだ。引張っちゃいけない、そのままソッとしておいて、縄を目印にして入口の方へ出て見るんだ。中途で切れたんでなければ、入口の近くまで行けるだろう」
諸戸の意見に従って、ロウソクを地につけ、横たわっている縄を見ながら、元の道を引きかえした。だが、ああ、なんということだ。二つ目の広間の入口のところで、私たちの道しるべは、プッツリと断ち切れていた。
諸戸はその麻縄の端を拾って、火に近づけてしばらく見ていたが、それを私の方へさし出して、
「この切り口を見たまえ」
と言った。私が彼の意味を悟りかねて、もじもじしていると、彼はそれを説明した。
「君は、さっきころんだとき、縄を強く引張ったために、中途で切れたと思っているだろう。そして、僕にすまなく思っているだろう。安心したまえ、そうではないのだ。だが、われわれにとっては、もっと恐ろしいことなんだ。見たまえ、この切り口は決して岩角で擦り切れたものじゃない。鋭利な刃物で切断したあとだ。第一、引張った勢いで擦り切れたものなら、われわれから一ばん近い岩角のところで切れているはずだ。ところが、これはほとんど入口の辺で切断されたものらしい」
切り口を調べてみると、なるほど、諸戸のいう通りであった。さらに私たちは、入口のところで、つまり私たちがこの地底にはいるとき、井戸の中の石畳に結びつけてきた、その近くで切断されたものであるかどうかを確かめるために、縄を元のような玉に巻き直してみた。すると、ちょうど元々通りの大きさになったではないか。もはや疑うところはなかった。何者かが、入口の近くで、この縄を切断したのである。
最初私がたぐり寄せた部分がどれほどあったか、ハッキリしないけれど、おそらく三十間ぐらいはあっただろう。だが私たちがころぶ以前に切断されたものとすると、私たちは端の止まっていない縄を、ズルズルと引きずって歩いていたかもしれないのだから、現在の位置から入口まで、どれほどの距離があるか、ほとんど想像がつかなかった。
[やぶちゃん注:「三十間」約五十四メートル半。]
「だが、こうしていたってしようがない。行けるところまで行ってみよう」
諸戸はそういって、ロウソクを新しいのと取り換え、先に立って歩き出した。この広い洞窟には幾つもの枝道があったが、私たちは縄の終っているところからまっすぐに歩いて、つき当たりにひらいている穴にはいって行った。入口は多分その方角であろうと思ったからである。
私たちはたびたび枝道にぶっつかった。穴の行止まりになっているところもあった。そこを引き返すと、今度は以前に通った路がわからなくなった。
広い洞窟へもー度ならず出たが、それが最初出発した洞窟かどうかさえわからなかった。
一つの洞窟を一周しさえすれば必らず見つかる麻縄の端を発見するのでも、あんなに骨を折ったのだ。それが枝道から枝道へと、八幡の藪知らずに踏み込んでしまっては、もうどうすることもできなかった。
諸戸は「少しでも光を発見すればいいのだ。光のさす方へ向いて行けば、必らず入口に出られるのだから」といったが、豆粒ほどのかすかな光さえ発見することができなかった。
そうして滅茶苦茶に一時間ほども歩きつづけているうちに現在入口に向かっているのだか、反対に奥へ奥へと進んでいるのだか、島のどの辺をさまよっているのだか、さっぱりわからなくなってしまった。
またしても、ひどい下り坂であった。それを降りきると、そこにも地底の広間があった。広間の中ほどから、少しつまさき上がりになってきたが、かまわず進んで行くと、小高く段になったところがあって、それを登ると行止まりの壁になっていた。私たちはあきれ果てて、その段の上に腰をおろしてしまった。
「さっきから同じ道をグルグル廻っていたのかもしれませんね」私はほんとうにそんな気がした。「人間て実に腑甲斐(ふがい)ないもんですね。多寡(たか)がこんな小さな島じゃないか、端から端まで歩いたって知れたものです。また僕たちの頭のすぐ上には、太陽が輝いて家もあれば人もいるんです。十間あるか二十間あるか知らないが、たったそれだけのところを突き抜ける力もないんですからね」
「そこが迷路の恐ろしさだよ。八幡の藪知らずっていう見世物があるね。せいぜい十間四方くらいの竹藪なんだが、竹の隙間から出口が見えていて、いくら歩いても出られない。僕らはいま、あいつの魔法にかかっているんだよ」諸戸はすっかり落着いていた。「こんな時には、ただあせったって仕方がない。ゆっくり考えるんだね。足で出ようとせず、頭で出ようとするんだ。迷路というものの性質をよく考えてみるんだ」
彼はそういって、穴へはいってはじめて煙草をくわえて、ロウソクの火をうつしたが、「ロ
ウソクも倹約しなくちゃあ」といって、そのまま吹き消してしまった。あやめもわかぬ闇の中に、彼の煙草の火が、ポツリと赤い点を打っていた。
煙草好きの彼は、井戸へはいる前、トランクの中に貯えてあったウェストミンスターを一と箱取り出して、懐中してきたのだ。一本目を吸ってしまうと、彼はマッチを費さず、その火で二本目の煙草をつけた。そして、それがなかば燃えてしまうまで、私たちは闇の中で、だまっていた。諸戸は何か考えているらしかったが、私は考える気力もなく、ぐったりとうしろの壁によりかかっていた。
[やぶちゃん注:「ウェストミンスター」英国王室御用達の巻煙草“Westminster”(ウエストミンスター)。]

