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2017/11/16

柴田宵曲 猫 四

 

 猫の子という季題は、現在では夏になっている。猫の恋が春で猫の子が夏なのは当然過ぎるほど当然である。古句にも猫の子を詠んだものは少くない。

 

 猫の子や蠅を押へし菅(すが)むしろ  長久

 蚊屋釣(つり)ていれば吼(ほゆ)る小猫かな

                    宇白

 猫の子のざれて臥(ふし)けり蚊屋の裾 史邦

 猫の子も外へ出たがる蚊やりかな    和應

 猫の子に齅(かが)れて居るや蝸牛   才麿

 猫の子の巾著(きんちやく)なぶるすゞみかな

                    去來

 

 これらの例を以て見れば、古人は猫の子を夏と認めてはいるけれども、必ずしも独立した季題として取扱っていない。何か背景になるべき風物を捉えている。むやみに季題を多くすることは、歳時記を賑(にぎやか)にする代りに、季感を稀薄にする虞がないともいえぬ。配合物によって季感を豊(ゆたか)にするのも、句を作る上に欠くべからざる用意であろう。

 寺田博士は「鼠と猫」という随筆の中で「我家に来て以来一番猫の好奇心を誘発したものは恐らく蚊帳であったらしい。どういうものか蚊帳を見ると奇態に興奮するのであった。殊に内に人が居て自分が外に居る場合にそれが著しかった」といい、この事実を解釈して「蚊帳自身か或は蚊帳越しに見える人影が、猫には何か恐ろしいものに見えるのかも知れない。或は蚊帳の中の蒼(あお)ずんだ光が、森の月光に獲物を索(もと)めて歩いた遠い祖先の本能を呼び覚(さま)すのではあるまいか。若(も)し色の違った色々の蚊帳があったら試験して見たいような気もした」と述べている。宇白及(および)史邦の句は、この意味において注意すべきものがありそうな気がする。

[やぶちゃん注:「鼠と猫」寺田寅彦の随筆。大正一〇(一九二一)年十一月発行の『思想』初出。以上はその「四」の冒頭である。「青空文庫」のこちらで全文が読める。]

 

 子をうんで猫かろげなり衣がへ   白雪

 子を食(くら)ふ猫とこそ聞け五月闇(さつきやみ)

                  吏登

 麥秋や猫の子を産む男部(をとこべ)や

                  馬厓(ばがい)

 灌佛(くはんぶつ)や猫は生れて目もあかず

                  呉天

 

 白雪の句は「子をつれて猫も身がるし」ともある。これらは同じ猫の子であるが、前の諸句のように独立性がない。人間でいえば襁褓(むつき)時代である。子を産んで身軽になった猫と、軽い袷(あわせ)に著替えた人間とは、季節の上ばかりでなしに、気分の上でも一致するところがある。そこへ行くと灌仏の猫の方は、涅槃会の猫と一脈の繫(つなが)りがありそうで、句としてはあまり面白くない。

 

 若猫やきよつと驚く初真桑(はつまくは) 木導

 

 どの位までを猫の子といい、どの辺からを若猫というか、それは人によって見方が違うかも知れぬ。木導のこの句も「ねこの子」となっているのがある。

 

 若猫を猶狂はする尾花かな        卜梢

 

 この若猫は初真桑に驚いたのより弟分であろう。秋になって生れる秋子も無論ある。

 

 猫の子もそだちかねてや朝寒し      元灌

 

というのがそれである。

 

 若猫のつはり心や寒の中(うち)     許六

 猫の子のまもれる軒の鰯かな       幸日(こうじつ)

 

などは、その秋子が無事に成長した場合と解せられる。

 

 盜み行(ゆく)猫のなきだす袷かな    木導

 

 これは猫の子と断ってはないけれども、盗んで袂(たもと)に入れたのが啼き出すのは、子猫でないと工合が悪い。

 夏の句になって著しく目につくのは、牡丹に配したものの多いことである。

 

 ぼうたんやしろがねの猫こがねの蝶    蕪村

 

 この句は『蕪村句集』にもなければ『蕪村遺稿』にもない。『新花摘』に出ている。従って子規居士以下の輪講には漏れてしまったが、居士はこれを風変りな句と評したことがあったかと思う。蕪村の専門である絵画より得来った題材であろう。但(ただし)実際そこに金を以て蝶を画き、銀を以て猫を画いてあったか、白猫黄蝶を理想化してこういったのか、その辺はよくわからない。白がねの猫は西行が門前の子供に与えて去った有名な話があり、

 

   西行の贊

 白かねの猫も捨けり花の旅   蓼太

 

などという句もあるが、この句はそれとは没交渉である。

[やぶちゃん注:「白がねの猫は西行が門前の子供に与えて去った有名な話があり」私の北條九代記 西行法師談話を参照されたい。]

 

   牡丹にてふの畫

 猫はまだ知らぬ牡丹の胡蝶かな    也有

   牡丹に猫の畫

 猫に蝶に賑ふ花の富貴(ふうき)かな 同

   牡丹に鳥の繪

 鳥が來て猫に罪なき牡丹かな     同

   睡猫に蝶の畫

 夢に牡丹見て居る猫の晝寐かな    同

 

 これらはいずれも画による著想である。その悉くが猫を画いたものではないにせよ、牡丹の画に対して猫を連想することの偶然ならざることは明(あきらか)であろう。

 

 何事ぞぼたんをいかる猫の樣     南甫(なんぽ)

 線香に眠るも猫の牡丹かな      支考

 牡丹には免(ゆる)さぬ猫の憎きかな 三笑

 

 この三句はいずれも元禄期の作であるが、絵画を経由せざる自然の配合である。「ほたんをいかる」というのは、はじめて牡丹の花を見た猫の驚異なのかも知れぬ。三笑の句意は十分にわからぬが、猫が牡丹を痛めるとか、花を散らすとかいうことを指すのではあるまいか。也有の句の「鳥が来て猫に罪なき」と併看すれば、どうやらそういう解釈が成立ちそうである。

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