江戸川乱歩 孤島の鬼(41) 絶望
絶望
そこで、私たちはさいぜんの諸戸の考案に従って、右手で右がわの壁に触りながら、突き当たったら反対側の壁を後戻りするようにして、どこまでも右手を離さず、歩いて見ることにした。これが最後に残された唯一の迷路脱出法であった。
私たちははぐれぬために、ときどき呼び合うほかには、黙々として果て知らぬ暗闇をたどって行った。私たちは疲れていた。耐えられぬほどの空腹に襲われていた。そして、いつ果つべしとも定めぬ旅路である。私は歩きながら(それが闇の中では一カ所で足踏みをしているときと同じ感じだったが)、ともすれば夢心地になって行った。
春の野に、盛り花のような百花が乱れ咲いていた。空には白い雲がフワリと浮かんで、雲雀(ひばり)がほがらかに鳴きかわしていた。そこで地平線から浮き上がるようなあざやかな姿で、花を摘んでいるのは死んだ初代さんである。双生児の秀ちゃんである。秀ちゃんには、もうあのいやな吉ちゃんのからだがついていない。普通の美しい娘さんだ。
まぼろしというものは、死に瀕した人間への、一種の安全弁であろうか。まぼろしが苦痛を中絶してくれたお蔭で、私の神経はやっと死なないでいた。殺人的絶望がやわらげられた。だが、私がそんな幻を見ながら歩いていたということは、とりも直さず、当時の私が、死と紙ひとえであったことを語るものであろう。
どれほどの時間、どれほどの道のりを歩いたか、私には何もわからなかった。絶えず壁にさわっていたので、右手の指先が擦りむけてしまったほどだ。足は自動機械になってしまった。自分の力で歩いているとは思えなかった。この足が、止めようとしたら止まるのかしらと、疑われるほどであった。
おそらく、まる一日は歩いたであろう。ひょっとしたら二日も三日も歩きつづけていたかもしれない。何かにつまずいて、倒れるたびに、そのままグーグー寝入ってしまうのを諸戸に起こされてまた歩行をつづけた。
だが、その諸戸でさえ、とうとう力の尽きるときがきた。突然彼は「もうよそう」と叫んで、そこへうずくまってしまった。
「とうとう死ねるんだね」
私はそれを待ちこがれていたように尋ねた。
「ああ、そうだよ」
諸戸は、当たり前のことみたいに答えた。
「よく考えてみると、僕らは、いくら歩いたって、出られやしないんだよ。もうたっぷり五里以上歩いている。いくら長い地下道だって、そんなばかばかしいことはないよ。これにはわけがあるんだ。そのわけを、僕はやっと悟ることができたんだよ。なんて間抜けだろう」
彼は烈しい息づかいの下から、瀕死の病人みたいな哀れな声で話しつづけた。
「僕はだいぶ前から、指先に注意を集中して、岩壁の恰好を記憶するようにしていた。そんなことがハッキリわかるわけもないし、また僕の錯覚かもしれないけれど、なんだか、一時間ほどあいだをおいては、全く同じ恰好の岩肌にさわるような気がするのだ。ということは、僕たちはよほど以前から、同じ道をグルグル廻っているのではないかと思うのだよ」
私は、もうそんなことはどうでもよかった。言葉は聞き取れるけれど、意味なんか考えていなかった。でも、諸戸は遺言みたいにしゃべっている。
「この複雑した迷路の中に、突き当たりのない、つまり完全な輪になった道がないと思っているなんて、僕はよっぽど間抜けだね。いわば迷路の中の離れ島だ。糸の輪の喩えでいうと、大きなギザギザの輪の中に、小さい輪があるんだ。で、もし僕たちの出発点が、その小さい方の輪の壁であったとすると、その壁はギザギザにはなっているけれど、結局行き止まりというものがないのだ。僕たちは離れ島のまわりをどうどう巡りしているばかりだ。それじゃ、右手を離して、反対の左がわを左手でさわって行けばいいようなものだけれど、離れ島は一つとは限っていない。それがまた別の離れ島の壁だったら、やっぱり果てしもないどうどうめぐりだ」
こうして書くと、ハッキリしているようだけれど、諸戸は、それを考え考え、寝言みたいにしゃべっていたのだし、私は私でわけもわからず、夢のように聞いていたのだ。
「理論的には百に一つは出られる可能性はある。まぐれ当たりで一ばん外がわの糸の輪にぶつかればいいのだからね。しかし、僕たちはもうそんな根気がありやしない。これ以上一と足だって歩けやしない。いよいよ絶望だよ。君一緒に死んじまおうよ」
「ああ死のう。それが一ばんいいよ」
私は寝入りばなのどうでもなれという気持で、呑気な返事をした。
「死のうよ。死のうよ」
諸戸も同じ不吉な言葉を繰り返しているうちに、麻酔剤が効いてくるように、だんだん呂律(ろれつ)が廻らなくなってきて、そのままグッタリとなってしまった。
だが、執念深い生活力は、そのくらいのことで私たちを殺しはしなかった。私たちは眠ったのだ。穴へはいってから一睡もしなかった疲れが、絶望とわかって、一度におそいかかったのだ。

