柴田宵曲 虫の句若干 / 柴田宵曲新規始動
[やぶちゃん注:底本は一九九九年岩波文庫刊の小出昌洋編「新編 俳諧博物誌」に載る「虫」を用いた。当該書は小出昌洋氏が昭和五六(一九八一)年に日本古書通信社から刊行された柴田宵曲著になる「俳諧博物誌」(全十章。但し、昭和四一(一九六六)年八月二十三日に満六十八歳で亡くなっており、没後十五年後の遺稿出版ということになる)に、オリジナルに、宵曲が全く別にばらばらに発表していた俳諧随筆から当該「俳諧博物誌」に追加収録するに相応しい単行随筆七篇を選択して編んだもので、それが「新編」の意味である。従って、底本を頭にある日本古書通信社版単行本「俳諧博物誌」から、その後に追加された七編を漫然と順に電子化してしまった場合、これは十一篇目から最後までの部分順列が、明らかにオリジナルな編成を行った小出昌洋氏の編集権を侵害することとなる(但し、編集権は文化庁が公に認めている著作権ではなく、例えば、同じ構成の本を編集者の許可なくして丸ごと無断で複製した場合に、著作権侵害として訴えることが出来るもの(可能)であることに注意されたい)。そこで私は、まず、小出氏が追加した七篇を、発表年時の早い順に並べ替えて電子化を行い、その際の標題も初出に拠る(底本では小出氏が新たにこの七篇にそれぞれ「猫」「鼠」「金魚」「虫」「菊」「蒲公英」「コスモス」という、宵曲の初出標題とは異なる――底本の「本書の編集について」に拠れば、「猫」は同題で、「鼠」は「ねずみの句」、「虫」は「虫の句若干」、「コスモス」は俳諧漫筆コスモス」――であって、「猫」以外は総てが新標題を柱として立てていると推定される)ことで、まず、小出氏の編集権を侵害しないようにすることとした。
更に、本底本は新字新仮名を採用しているが、引用される発句は当然のことであるが、ひらがな部分は旧仮名で記されてある。されば、引用される発句が殆んど近世(一部に近代の俳句があるが、専ら、宵曲の師であった正岡子規や大正以前の作品)のものである以上、それらの漢字表記を恣意的に正字化すれば、本来の引用句の原型に確率的にはより近づくことが明白となることから、発句及び俳号の漢字表記を総て原則、恣意的に正字化することとした。但し、原表記を確認出来る場合にはそれと校合することで確度を高めてある。これによって、底本の小出氏のそれぞれの章とは当然、テクストとして異なるものとなるため、更に編集権を侵害するものではなくなるのである。また、読みの拗音化も私の判断で行った。但し、読みは小池氏が振ったものも含まれるため、私が読みが振れる、或いは、難読と判断したもののみを採用することとした。また、発句中(俳号も含む)の読みは気持ちが悪いので歴史的仮名遣に変換してある(俳号には底本では多くルビが振られているが、要は音読みすれば、まず間違いないので、音が複数あったり、私が読み違えた場合のみ読みを附した)。公開するブログ・ブラウザ上の不具合を考え、句の文字列の字空けなどは無視し、底本で三字下げである位置も、一字下げに揃え、読みを附したために、下がってしまった俳号は一部で改行表示した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。
また、オリジナルに注を、ごくストイックに附すこととした(例えば発句の作者の中には全く私の知らない俳号もあるが、それを注することは苦労ばかりで益がないと判断してお、原則、行わない。地名も然り)。先に本カテゴリ「柴田宵曲」で電子化を終了した「妖異博物館」のように、原典まで示したり、それと突き合わせて細部を検証したりすることになると、途轍もなく時間がかかるからでもある。注は原則、形式段落の後に附すこととした。しかし、これによって、最終的には、更に、基礎底本である小出昌洋編の「新編 俳諧博物誌」とは全く異なった電子データとなることになる。
以上の注は各単品作では原則、繰り返さない。
さて、本「虫の句若干」は昭和七(一九三二)年十月十五日発行の雑誌『日本及日本人』に羅漢柏(宵曲の別号)の署名で、表記通り、「虫の句若干」として掲載された(発表年から見て、或いは「虫」の表記は「蟲」であるかも知れない)ものである。
「虫」(動物界 Animalia 節足動物門 Arthropoda 昆虫綱 Insecta)とはあるものの、実際には宵曲が採り上げているのは夏秋に鳴く虫であり、直翅(バッタ)目 Orthoptera のバッタ亜目 Caelifera 及びキリギリス亜目 Ensifera に属する種群である。
【2017年11月6日始動 藪野直史】]
虫の句若干
小泉八雲はその著『異国情趣と回顧』の中において「虫の楽師」一篇を書き、日本の鳴く虫――特に東京で売られる虫について説いている。八雲が虫売の来歴その他を説いたついでに、東京で売っている十二種の虫について、値段付を一々挙げているのは注意すべきである。日本人は鳴く虫に対して「白魚に価あるこそ恨(うらみ)なれ」というほどの感情を持たぬかも知れないが、新聞の雑報ならともかく、こうした文学的著作の中において一々の値段までは明記しないだろうと思う。これは西洋人と日本人との性格の相異であるが、八雲自身はそれほど値段に執著(しゅじゃく)せぬまでも、西洋の読者のためにこの不思議な物価を説明したのであろうか(八雲の小品「草雲雀(くさひばり)」の中にも、「彼は市場で正に十二銭の値いを有(も)って居る。即ち、自分の重さの黄金よりか遥かに高価である。こんな蚊のような物が十二銭……」と書いてある)。この虫売の来歴その他については、『社会事彙』の記載にもより、また八雲にその材料を提供した大谷繞石(おおたにじょうせき)氏が、親しく虫屋に聞いた所もあるというから、虫の値段は後者の知識であろう。われわれは御蔭(おかげ)で明治三十年度の虫の値段を知ることが出来るが、昭和七年現在の相場はと聞かれても、ちょっと返答が出来ない。
[やぶちゃん注:「異国情趣と回顧」小泉八雲が明治三一(一八九八)年刊行した作品(小泉八雲はこの二年前の明治二九(一八九六)年に日本に帰化している)。原題は“Exotics and Retrospectives”。「虫の楽師」はその第Ⅱ章で、原題は“Insect-Musicians”。全六章からなり、虫の挿絵も入った、優れた日本の秋の虫の博物誌となっており、私の偏愛する一篇でもある。
「草雲雀(くさひばり)」作品集「骨董」“Kottō”の小品随想“Kusa-Hibari”。こちら(PDF)で大谷正信の訳が読める。老婆心乍ら、言い添えておくと、「草雲雀」とは鳥ではなく、昆虫である。直翅(バッタ)目コオロギ上科クサヒバリ科クサヒバリ Paratrigonidium bifasciatum である。体長は六~八ミリメートルと小さく。体は淡褐色で黒褐色の斑紋を有し、後肢腿節に二つの黒条がある。触角は非常に長く、前胸は前方に狭まる。♂の前翅は楕円形で数個の黒褐色斑があり、大きな発音器を有する。成虫は八月頃から現れ、低木上に棲息し、♀は昼間から「チリリリ」と高い連続音で鳴くことから、「草間の雲雀(ヒバリ)」に譬えられて、和名もそれに由来する。本州・四国・九州及び台湾・朝鮮半島に分布する(クサヒバリについては「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「社会事彙」明治二三(一八九〇)年から翌年にかけて刊行された、田口卯吉の編になる日本初の西欧的百科事典「日本社会事彙」。全二巻。
「大谷繞石(おおたにじょうせき)」英文学者大谷正信(明治八(一八七五)年〜昭和八(一九三三)年)は松江市生まれで落合同様、松江中学のハーンの教え子で、東京帝大英文科入学後もハーンの資料収集係を勤め、後に金沢の四高の教授などを勤めた(室生犀星は彼の弟子とされる)。また、京都三高在学中に虚子や碧梧桐の影響から句作を始めて子規庵句会に参加、繞石(ぎょうせき)の俳号で子規派俳人として知られる。]
八雲は日本へ渡来する以前、仏領西印度に二年の月日を送った。彼はそこで「声に充ちて居る」熱帯の夜を経験した。カプリット・ボアと称する巨大な蟋蟀(こおろぎ)の如きは「小羊の啼くようなゼイゼイ声で殆ど耳を聾(ろう)にする」とあるから、日本の虫時雨(しぐれ)どころの話ではない。しかもこの虫は夜明けの正四時半には沈黙するので、「掛時計を持たぬほどの貧乏な幾千の早起者には、その声の止むのが起床の合図になっている」という、不思議なものである。そういう世界を経て来た八雲が、日本の虫に多大の興味を感じたのは、日本の虫及び虫売の様子に、やわらかな情趣を感じたためであろう。
[やぶちゃん注:「八雲は日本へ渡来する以前、仏領西印度に二年の月日を送った」この時の紀行を小泉八雲になる前の Lafcadio Hearn は来日直前(同年)に「仏領西インドの二年間」(原題“Two Years in the French West Indies”:一八九〇年刊)を刊行しているが、その冒頭に配された「真夏の熱帯行」(平井呈一氏訳)の第二十七章でここで宵曲が記している内容が記されてある。但し、ここで宵曲が記す「カプリット・ボアと称する巨大な蟋蟀」という名は出ない。また、その奇体な声も『それはわれわれの国のコオロギのような顫える音ではなくて、蒸気が弁から細く噴出するような、高く鋭いシューッという継続音だ』とあるだけである。私は実は同書を所持しているものの、「仏領西インドの二年間」を通して読んでないから、或いは別な箇所に出るのかも知れないが、出ないとなると、宵曲がこの名をどこから聴き出したものかに、興味は反転する。「カプリット・ボア」についてその綴りだけでも知っておられる方の御教授を、まずは乞うものである。]
八雲は虫の声を紹介するに当って、一流の聴覚を用いている。轡虫(くつわむし)の声を説明するのに「その音は、蒸気を洩らす時のようを、ヒユウという鋭い、かすかな音で始って、徐々に強まる。――それからそのヒユウへ突然に、四つ竹の音のような迅速な、滑れた、カタカタという音が加わる。――それから、全機関が突進して運転を始めると、そのヒユウとカタカタとの上に、銅鑼(どら)を叩くような急速なジヤンジヤンという音の流れが聞える。この音は、始まるも最後だが、歇(や)むのもまた最初である。それから四つ竹の音が止まり、最後にヒユウという音が消える」といっているのは、実に驚くべき精細な記述であって、日本人の書いたものには類を見ざるものであろう。ただ文中引用するに和歌を以てしたのは、蟬や蛙と同じようになるのを避けたのであろうが、やはり俳句の方がよかったろうと思う。虫を詠じた歌は殆ど平安朝以後のもので、顧みて他をいうもの、若しくは何かによそえた種類のものが多く、真の虫声を髣髴するに足らぬからである。僅(わずか)に引用した一句
蟲よ蟲ないて因果が盡きるなら
を解釈して「西洋の読者は、この詩の虫の境遇をあるいは虫の生を述べて居るのだとあるいは想像するであろう。が、恐らくは婦人であろうと察せられるこの作者の真の思想は、自分自らの悲しみは前生に犯した罪の報である、だからして軽くすることは不可能なのだ、というにあるのである」といっているが、この作者は婦人ではない、乙州(おとくに)である。しかしこの句を指して婦人の句らしいというのは、必ずしも的の外れた想像ではない。
[やぶちゃん注:「轡虫(くつわむし)の声を説明するのに……」“Insect-Musicians”の第五章で八雲はマツムシ・スズムシ・ハタオリムシ・ウマオイ・キリギリス・クサヒバリ・キンヒバリ・クロヒバリ・コオロギ・クツワムシ・カンタンを項立てしてその鳴き声を主として解説しており、この部分はその「クツワムシ」の項からの引用である。
「蟲よ蟲ないて因果が盡きるなら」乙州のこの句の通常知られる句形は「蟲よ蟲ないて因果が盡くるなら」である。但し、それを載せるあるデータでは「蟲」は「虫」であった。旧字体の「蟲」は書くのが面倒なこと、字体を生理的に嫌悪する者も多い(特に近代作家には有意に多い)ことから、古くから「虫」の略字が使用されているから、江戸時代の句でも「虫」とするものも多い。しかし、総てを点検出来ない以上、本篇の発句(及び子規の引用)では総てを旧字「蟲」に代えることとした。なお、この句は小泉八雲の“Exotics and Retrospectives”の“Insect-Musicians”の直下に英訳で配されてあり、同本文の最終第六章にも出現するが、平井呈一氏の訳(一九七五年恒文社版)でも二箇所の句は「虫よ虫 鳴いて因果が 尽くるなら」である(字空けはママ)。]
○
虫の世界は夜の世界である。虫の句も夜を詠じたものが多いが、暮れぬ間の虫も全くないではないようである。
秋寒し夕日の草に虫の聲 事紅
夕風や草の根に鳴く虫の聲 野梅
椎柴野(しひしばの)にて
さゝ栗や日かけへまはる蟲の聲 久藏
貞佐一周忌
墓原や日の照る中に蟲の聲 桂室
の如きもの、
曉や雨もしきりに蟲の聲 曉臺(けうたい)
曉や蟲も地にしむさらは垣 戸竹(こちく)
の如く、暁天の虫を扱ったものも見当るけれども、特に昼と断ってない以上は虫声の句は夜と解すべきであろう。
うた寢や疊も更(ふ)け行(ゆく)籠の蟲
桃夭
目を明(あけ)は晝寢なりけり蟲の聲 蓼太
昼の虫を詠んだものでさえ、古人は夜を意識していたように思われる。
[やぶちゃん注:「さゝ栗」漢字は「栭栗」と書く。栗の山野に自生するものの異名。シバグリ(柴栗)やヤマグリ(山栗)と同義。]
尤も古人の夜は今人の夜ではない。
虫鳴(なく)や夜ははかの行(ゆく)寫し物
曾秋(そしう)
という句は、直に子規居士の
蟲鳴や俳句分類の進む夜半(よは)
という句を連想せしめるが、相似たよう経験でも行灯(あんどん)とランプでは情趣によほどの差を生ずる。
窓の灯(ひ)の草より低し蟲の聲 素流(そりう)
窓の灯の草にうつりて蟲の聲 子規
の如きものは、必ずしも古今によって著しい差を示さぬかも知れない。けれども
虫鳴や行灯にうつる唐辛子 作者不知(しらず)
虫鳴くや河内(かはち)通ひの小提灯(こちやうちん)
蕪村
挑灯に袖かざしけり蟲の聲 万花(ばんか)
虫ノ聲非ㇾ一(いちにあらず)おほとのあぶらしろき迄
几董
蟲狩や箱提灯に萩芒 素外
の如き情趣は、絶対に味い得ぬか、さなくとも次第に味い難いものになりつつある。夜の人間生活に欠くべからざる灯火の変遷が、或点まで、夜の情趣を支配するのはやむをえない。
虫声は耳を主とするものではあるが、月をこれに点ずると否とでは、句中の趣に格段の差を生ずる。月の明暗もまた自(おのずか)ら影響がある。
雨晴てすむや月夜の蟲の聲 梅壽
月消(きえ)て蟲は嵐の下音かな 闌更
蟲の音や月ははつかに書の小口 白雄
名月や草もゆるがぬ蟲の聲 巴山
鎌倉
名月や蟲聞(きき)ながら壇かつら 吟江
隅田川
蟲の音やしばらく暗き月の雲 同
月光のはつかに及ぶ書の小口は、どうしても和本でなければならぬ。円本の金文字が光ったりするのではぶちこわしである。
[やぶちゃん注:「はつかに」僅かに。]
○
子規居士はかつて「俳句と声」なる文章において、種々の方面から俳句に声を詠ずるの難きを説いた。そうして他の声をこれに配したものは「変化少く、陳腐なりやすし」といっている。鹿とか、時鳥(ほととぎす)とかいうものは、動物の形が大きいのと、その声が単独で存在し得るものだけに、他の声を配するに便宜でない点がある。虫はその形が小さい上に、鳴くのも一般に合唱であって、独唱の場合が少ないから、他の音声が混入してもさほど厄介なことはないように思う(衆声中の一個の虫を聞きすます場合、籠に入れた一個の虫を聞く場合は自(おのずか)ら別である)。
蟲の音や木桶處の綿車 汶村(ぶんそん)
屋根まくる暴風(あらし)の中や蟲の聲
李由
川音は只(ただ)細長し蟲の聲 太無
蟲鳴くや暮ては關も鉦(かね)の聲 同
蟲砧(きぬた)一里話に行く夜かな 定雅(ていが)
蟲の音や廊下の鈴の遠ざかり 野吾
蟲鳴くや雨戸のあふつ宵の程 士朗
病床
蟲の音の中に咳出(せきだ)す寢覺かな
丈艸
「虫砧」というのは「虫及砧」を詰めてこういったのであろう。虫も鳴いており、どこかで砧の音もする。そういう夜道を、一里もあるところまで話に行く、という意味であるが、上五字に圧縮してしまったため、その夜道の方が長く感ぜられて、虫声、砧声相混るところはそれほど強く感ぜられない。丈艸の「病床」はこの中の圧巻であろう。鳴きしきっている虫声の中に病人が目をさまして、烈しく咳き入る。「咳出す」の一語で、その咳のために目がさめたこと、これからしばらく寝られずに咳き入るべき様をも連想せしめる。「虫の音の中に咳出す」というのは巧に過ぎたようでもあるが、この位巧(たくみ)な語を用いなければ、こういう情趣を十七字に纏めることは困難かも知れない。
○
名のついた虫の句のうち、古句の最も多いのはキリギリスである。キリギリスは古来コオロギと混雑していて、蟋蟀の字は場所によってキリギリスにもコオロギにも使われている。例えば
蛼(こほろぎ)の髭打つかたや窓の月 吟江
蛼の髭やものうき十三夜 成美
蛼の髭ばかり出す簀子(すのこ)かな 南濤
行灯に蛼のはふ夜ぞ寒き 梁山
の如きコオロギの句と、
雨冷(あまびえ)や焙爐(ばいろ)をわたるきりぎりす
習先
すむ月や髭をたてたるきりぎりす 其角
きりぎりす行灯にあり後(のち)の月 二柳(じりう)
きぎりす行灯向(むけ)れば聲遠し 散庵
きりぎりす硯の水に髭をひたし 松濤
の如きキリギリスの句と、何人かよく区別し得るものがあろう。他の虫にも室内に来て鳴くものはないでもないが、特に室内の句の多いのはコオロギ及キリギリスである。
こほろぎや箸で追やる膳の上 孤屋
蛼や紙燭(しそく)をさがす枕もと 吟江
きりぎりす鳴や夜寒の芋俵 許六
行灯に飛ぶや袂のきりぎりす 丈艸
寢返りの方になじむやきりぎりす 同
床に來て鼾(いびき)に入(いる)やきりぎりす
芭蕉
の如き、全部がその姿を見せぬまでも、甚だ人間に親しい感じを現している。これはどう考えて見ても今のキリギリスではない。この点に関しても子規居士の「随問随答」に説がある。
[やぶちゃん注:この螽斯(キリギリス)と蟋蟀(コオロギ)の錯綜については、私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」の私の注の疑義及び「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 莎雞(きりぎりす)」の私の注を参照して戴けると幸いである。
「随問随答」子規が『ほとゝぎす』(当時はまだ平仮名表記。『ホトトギス』と改名するのは明治三四(一九〇一)年)で明治三二(一八九九)年四月から始めた連載欄。翌年の五月まで続いた。因みに、子規は明治三五(一九〇二)年九月十九日に亡くなる。
以下、底本では、引用は全体が二字下げ。前後一行空けた。なお、以下の子規の引用はやはり確信犯で恣意的に正字化し、読みも歴史的仮名遣で附した。]
「きりぎりす」は問者の問の如く、室内に來らぬは勿論、普通に聞かるべき者に非ず。それを俳句にて最も普通に詠み、且つ室内にもあるが如く詠むは、或は「こほろぎ」と誤りたるもあるべけれど多くは實際の「きりぎりす」を詠むに非ずして、寧ろ「きりぎりす」といふ語を「蟲の聲」といふと同じき意味に用ゐたるなり。さらば何故に「きりぎりす」といふ語を「蟲の聲」といふが如き意に用ゐたりやといふに、そは初め歌にてしか用ゐたるに據れるなり。歌にてしか用ゐたる譯は、古今集以後にては題詠盛りに行はれ、京都の公卿だちは實物を知らずして當推量(あてずいりやう)に歌を詠みたる結果、「きりぎりす」の如きも何かは知らず只(ただ)鳴く蟲の名として濫用せられたるなり。歌既に此の如くなる上に俳人とても兎角舊慣に泥(なづ)みて實地を離れんとする傾向より此誤謬を來したる者なるべし。今後は「きりぎりす」は「きりぎりす」のやうに詠まれたき者なり。
この子規居士の説に該当すべき句はいくらもある。左の諸句の如きいずれも何の虫であるかを問うに及ばぬものであろう。
きりぎりすなくや小庭の石灯籠 千輅(せんろ)
茶の過ていとゞ寐られねきりぎりす 諷竹
くはつとして又沈む灯やきりぎりす 加角
舟の醉さめたる夜半やきりぎりす 保吉(やすよし)
兩隣(りやうどなり)寐(い)ねて月夜やきりぎりす
白雄
それでは今いうキリギリスは古人の句に現れていないだろうかというに、必ずしもそうではない。
鳴(なく)度(たび)に芒たわむやきりぎりす
杉露
きりぎりすあらはに葛の廣葉かな 東潮
草の葉や足の折れたるきりぎりす 荷兮(かけい)
きりぎりす鳴や野原の大根畑(だいこばた)
野村(やそん)
きりぎりす鳴やいつまで瓜の花 士朗
これらは今のキリギリスを詠じたもの、少なくともそう解し得るもののようである。コオロギが家近いところを連想させるのに反し、キリギリスは野外を連想させる。川柳子のいわゆる「押へれば薄放せばきりぎりす」なども、勿論コオロギには関係ない。
○
蓮月尼の「宿かさぬ人のつらさを情にて朧月夜の花の下臥(したぶし)」というのは有名な歌であるが、その思想は月並である。たまたま虫の句の中にいささか相似た趣向を発見したから、参考までに挙げて置く。時代はこの方が前だけれど、俗なことは一層甚しい。
旅
蟲きくや取損(とりそこ)なひし宿の德 仙禽
[やぶちゃん注:「蓮月尼」江戸後期の尼僧で歌人・陶芸家であった大田垣蓮月(おおたがきれんげつ 寛政三(一七九一)年~明治八(一八七五)年)。事蹟はウィキの「大田垣蓮月」を参照されたい。表記の一首は彼女の代表歌とされ、人口に膾炙している。詞書は「花のころ旅にありて」。水垣久氏のサイト「やまとうた」のこちらで他の和歌作品が読める。]
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