トゥルゲニエフ作 上田敏譯 「散文詩」(抄) わが敵
わが敵
昔、人を識りぬ、これわが敵。 業(わざ)に、好(このみ)に、心たえて合はず。 遇ふ度ごとに盡きせぬ論爭は起りぬ。 すべてにつきて爭ひぬ、藝術、宗教、科學、地上の生(しやう)、墓のあなたの生につきて、特に墓のあなたの生につきて。
信篤く情濃(こまやか)なる人なりき。 ひと日、われにいふやう、君はすべてをあざみ笑ふなり。 されどわれ若し先ちて死なば、必らず、他界より君のもとに音づれむ。 その時、嘲み笑はむか、いかにと。
言葉の如く、彼は先ちて歿しぬ。 されど歳は移りて、その契、そのおびやかしも、忘じ果てつ。
ひと夜、床にありて、いのねられず。 げに眠は襲はざりけり。 室(へや)はにび色の、覺束なき薄明り、みいりつゝ、忽ち窓前に、わが仇のたてるを見る。 頭靜に振りてうなづくも、あはれや。
われ恐るゝことなかりき。 愕きだにせず。………
ただ少し起き直りて、枕欹て、眦を決してゆくりなき幻をみる。 終に語を放ちて問ふ。 君、いま勝ち誇るか、悔い怨むか。 こはなにぞ。………警(いましめ)か咎(とがめ)か。……あるは、君の誤てるを、あるは、わが誤てるを告げむとにや。 今受くるところ何物ぞ。 地獄の責(せめ)か、天堂の歡(よろこび)か。 せめて、一言をだにいへ。
されど、わが仇は默して言はず。たゞさきの如く、うら悲しくも、伏眼がちに、例の如くうなづく。
乃ち大笑すれば………かつ消えにけり。
[やぶちゃん注:「嘲み」岩波文庫版は『あざみ』と訓じている。従がう。
「契」「ちぎり」。約束。
「欹て」「そばだて」。
「眦」「まなじり」。]
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