北條九代記 卷第十一 胤仁親王東宮に立つ 付 將軍惟康歸京
○胤仁親王東宮に立つ 付 將軍惟康歸京
北條修理亮兼時、六波羅の南の方より北の方に移り、左近將監盛房を上洛せしめ、南の方に居ゑられけり。同二年四月に、主上、第一の皇子胤仁を東宮太子と定らる。是は准(じゆ)三后藤原經子(つねこ)とて、入道参議經氏卿の娘の腹に出來給ひし皇子なりけるを、西園寺内大臣實兼公、既に經子を我が娘とし、太子を孫と册(かしづ)き、外祖の威を振ひけり。是も關東より西園寺家を重くせらるゝ故なるべし。同九月、鎌倉中、物噪(さわが)しく、近國の御家人等、我我もと馳集(はせあつま)りければ、土民、百姓共、何事とは知らず、「すはや、大事の出來て、合戰に及ぶぞや。軍(いくさ)起らば、日外(いつ)落居(らくきよ)すべきとも更に辨難(わきまへがた)し」とて、雜具(ざふぐ)を取運(とりはこ)び、貴賤、走出(はしりい)でて逃吟(しげさまよ)ふ。此騷動に依て、盗人共の此彼(ここかしこ)に橫行(わうぎやう)して資材を奪取(うばひと)り、女童(をんなわらは)打倒(うちたふ)し、衣裳を剝(はぎむく)り、小路々々、巷の間には、赤裸になりて啼叫(なきさけ)び、幼(いとけな)き子は親を見失ひ、老いたる者は道に伏轉(ふしまろ)び、噪(さはがし)き中に、物の哀(あはれ)を留めたり。軍兵、東西に馳違(はせちが)ひ、相摸守の家に集り、又辻々に立別(たちわか)れ、嚴(きびし)く、諸人の往來を止(とゞ)め、將軍家、俄に御上洛あるべしとて、周章(あはて)慌忙(ふため)き、網代の御輿(みこし)を差寄(さしよ)せ、親王惟康、既に召されしを、餘(あまり)に急ぐとて御輿を後樣(うしろざま)に舁(か)きて鎌倉をぞ出でにける。流罪の人をこそ輿には後樣に乘せて舁くと云ふに、今の惟康親王を逆(さかしま)に御輿を奉りて、上洛し給ふ御有樣、惟康親王を京へ流すと云ふものかとて、鎌倉の諸人、笑合(わらひあ)ひけり。去ぬる八月十五日、鶴ヶ岡の放生會(はうじやうゑ)までは、さしも行粧(かうさう)を刷(つくろ)ひ、大名小名、駿馬、歩行(ほかう)、花を飾り、銛(きら)を磨き、行列、威儀を正しくして、威光は日の耀(ひかり)を欺(あざむ)き、權勢(けんせい)は帝德をも增(まさ)らじとこそ見奉りしに、俄に引替て淺ましげなる御上洛を、さこそ思召さるらめと推量(おしはか)り參らせ、淚を流さぬ人は、なし。去ぬる文永三年より今正應二年まで、御在職二十四年、果(はたし)て御入洛の後、軈(やが)て御餝(おんかざり)下(おろ)し給ひ、西山嵯峨野の邊に幽棲を占めて、蓬戸(ほうこ)を閉ぢて明(あか)し暮させ給ひけり。遙(はるか)に年歳(ねんさい)重なりて、正中二年十月に薨じ給ふ。御齡は六十二歳とぞ聞えける。
[やぶちゃん注:「北條修理亮兼時」既注。但し、やや時間が前で、彼が六波羅探題北方(長官)に異動したのは弘安一〇(一二八七)年八月である。
「左近將監盛房」北条盛房(仁治三(一二四二)年~永仁五(一二九七)年)は佐介流北条政氏の子。佐介盛房とも称した。ウィキの「北条盛房」によれば、『盛房の家系である佐介流北条氏は、北条時房の直系でありながら、傍流の大仏流の隆盛と、佐介流北条時国、北条時光らの凋落により大仏流の後塵を拝していたが、盛房の活躍によって地位を恢復した』。『それでも』、『佐介流の没落は盛房の出世の』障害『となったようで、要職に就き、幕府の中枢で活躍するのは』四十『代を過ぎてからであった』弘安五(一二八二)年に右近将監に叙任し、弘安九年に四十一歳で『引付衆に選定され、翌年には評定衆にも名を連ね』た。彼が六波羅探題南方(長官)に移動したのは弘安一一(一二八八)年二月のことである。『六波羅探題南方就任と間を置かずして左近将監に』昇進し、同年八月『には丹波守に叙任されて』いる。『六波羅探題南方の職は』永仁五(一二九七)年『まで務め、同年』五月十六日に『辞任した後は関東に下向し』、七月八日に数え年五十六で没した。『和歌にも堪能であり、新後撰和歌集に歌が収録されている。奈良の額安寺に墓塔が建立されている』とある。
「同二年四月」この「同」は前話の最後を受けているので、正応二(一二八九)年。胤仁(後の後伏見天皇(弘安一一(一二八八)年~延元元(一三三六)年)の皇太子定立は四月二十五日。
「准(じゆ)三后藤原經子(つねこ)」五辻経子(いつつじつねこ/けいし ?~元亨四(一三二四)年)は伏見天皇の典侍で後伏見天皇の生母。父は従三位参議武蔵守五辻経氏(?~弘安八(一二八五)年)。胤仁親王を産んだが、『胤仁親王は中宮西園寺鏱子の猶子となったため、経子は国母として遇されなかった。従三位、准三宮。中園准后とも呼ばれた』(ウィキの「五辻経子」に拠る)。
「西園寺内大臣實兼」(建長元(一二四九)年~元亨二(一三二二)年)は従一位太政大臣。ウィキの「西園寺実兼」によれば、文永六(一二六九)年、『祖父西園寺実氏の家督を継ぎ』、『関東申次に就く。大覚寺統・持明院統による皇位継承問題などで鎌倉幕府と折衝にあたる』。正応四(一二九一)年には、『子の西園寺公衡に関東申次を譲ったが、公衡の死去により』、『再度』就任している。『当初は持明院統に近い立場に立って』、『伏見天皇の践祚に尽力したため』、『大覚寺統と激しく対立したが、京極為兼との確執から』、『次第に大覚寺統寄りに転換していった』。歌人として著名で「続拾遺和歌集」「玉葉和歌集」「続千載和歌集」などの『勅撰集に入集』し、また、『琵琶の名手でもあった。なお』、『後深草院二条の「とはずがたり」に登場する恋人「雪の曙」は実兼であるとされる』とある。
「册(かしづ)き」大切に養育し。
「是も關東より西園寺家を重くせらるゝ故なるべし」「卷之八 西園寺家繁榮 付 時賴相摸守に任ず」を参照。
「噪(さわが)しく」 ママ。
「落居(らくきよ)」(戦乱が)鎮静化すること。
「相摸守」北条氏得宗家当主第九代執権北条貞時。
「網代の御輿(みこし)」竹又は檜の薄板を斜め又は縦横に組んだ網代で屋形を覆って、物見(窓)を設けた輿。摂政・関白・大臣・納言・大将などの略式用であり、親王の乗り物としては甚だ粗末である。ウィキの「惟康親王」によれば、第八代執権『時宗が源氏将軍の復活を強く望んで』おり、弘安七(一二八四)年に『時宗は死去するが、その後も安達泰盛や平頼綱が時宗の遺志を受け継ぎ、頼綱政権下の』同一〇(一二八七)年『に惟康は右近衛大将となって「源頼朝」の再現が図られた。しかし、わずか』三『ヶ月後に辞任し、将軍の親王化を目指す頼綱の意向によって、幕府の要請で皇籍に復帰して朝廷より親王宣下がなされ、惟康親王と名乗ることとなった』。『これは、北条氏(執権は北条貞時)が成人した惟康の長期在任を嫌い、後深草上皇の皇子である久明親王の就任を望み、惟康の追放の下準備を意図したものであったらしく』、二十六『歳となった』この正応二(一二八九)年九月、自分の意志とは無関係に『将軍職を解任され』、『京に戻された』。「とはずがたり」によれば』、『鎌倉追放の際、まだ親王が輿に乗らないうちから将軍御所は身分の低い武士たちに土足で破壊され、女房たちは泣いて右往左往するばかりであった。悪天候の中を筵で包んだ粗末な「網代の御輿にさかさまに」乗せられた親王は泣いていたという。その様子をつぶさに見ていた後深草院二条は、惟康親王が父の宗尊親王のように和歌を残すこともなかったことを悔やんでいる』とその有様を綴っている。
「差寄(さしよ)せ」御所に。
「召されしを」やっとお乗りになられたばかりなのに。
「餘(あまり)に急ぐとて」幕府方が「早急に御出立の程」と急いたため。
「御輿を後樣(うしろざま)に舁(か)きて」前後を逆にしたまま舁いた状態で。
「さしも行粧(かうさう)を刷(つくろ)ひ」あのように将軍らしく如何にもきらびやかに出で立ちを飾り立てて。
「歩行(ほかう)」権威を誇って練り歩き。
「銛(きら)を磨き」行列の美しさに磨きをかけ。
「帝德をも增(まさ)らじ」「增らじ」は「劣らじ」或いは「增らむ」の誤りであろう。「帝の御威光をも凌ぐばかりである」の意。
「文永三年」一二六六年。
「正應二年」一二八九年。
「御在職二十四年」数え。
「軈(やが)て」直ぐに。同年十二月に「御餝(おんかざり)」を「下(おろ)し」(出家)た。「蓬戸(ほうこ)」粗末な屋敷。
「閉ぢて」閉め切って。
「正中二年十月」誤り。彼の逝去は正中(しょうちゅう)二(一三二五)年ではなく、嘉暦元年十月三十日(一三二六年十一月二十五日)であった。
「御齡は六十二歳」誤り。享年は六十三歳。]
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