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2017/11/23

柴田宵曲 俳諧博物誌(6) 龍 二

 

       

 

 龍というものはしばしば植物の形容に用いられる。その代表的なものは梅で、臥龍梅(がりょうばい)は江戸以来の名所として知られていた。『江戸名所図会』の亀戸(かめいど)の条を見ると、「同所淸香庵(せいかうあん)にあり。俗間(ぞくかん)、梅屋敷と称す。其(その)花一品(いつひん)にして重辨(ちやうへん)潔白なり。薰香(くんかう)至(いたつ)て深く、形狀宛(あたか)も龍(りやう)の蟠(わだかま)り臥(ふす)が如し。園中四方數十丈が間に蔓(はびこり)て、梢(こずゑ)高からず。枝每(ごと)に半(なかば)は地中に入(いり)、地中を出(いで)て、枝莖(ゑけい)を生じ、何(いづれ)を幹(みき)ともわきてしりがたし。しかも屈曲ありて、自(おのづから)其勢(いきほひ)を彰(あらは)す。仍(よつて)「臥龍(ぐわりう)」の號(な)ありといへり。梅譜(ばいふ)に『臥梅(ぐわばい)』『梅龍(ばいりう)』抔(など)いへるにかなへり」という委しい説明が出ているが、何時頃からあったものとも書いてない。しかし元禄の俳人に、

 

   臥龍梅

 白雲の龍をつゝむや梅の花   嵐雪

 

の句があるのだから、その頃から已に龍の括り臥すが如き形状を具えていたのであろう。

 

   臥龍梅

 世にひゞく梅や榮螺(さざゑ)の奥座敷

             五百武(いほだけ)

 

というのも同じ梅を詠んだものであるが、少しひねり過ぎて嵐雪の句ほど明瞭でない。

[やぶちゃん注:「江戸名所図会」の引用(「卷之七 搖光之部」の「福聚山普門院」(現在の江東区亀戸(ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、この臥龍梅があったのはこの寺の東北位置で、元は「浅草」(「本所埋堀」とも)の伊勢屋彦右衛門の別荘であった。後で宵曲も述べているが、現在は建物も梅も全く存在せず、「梅屋敷跡」として位置だけが確認出来るが(ここ(グーグル・マップ・データ))、ゴッホも惚れ込んだ、かの歌川広重の「名所江戸百景」の中の有名な一枚「亀戸梅屋敷」もここで描いたものである。ここの情報は夢見る獏(バク)氏のブログ「気ままに江戸  散歩・味・読書の記録」の「梅屋敷跡(亀戸散歩 大江戸散歩)」を参考させて戴いた)にある真言宗寺院で「亀戸七福神」の内の「毘沙門天」を祀る)に続いて出る)は、所持する「ちくま学芸文庫版」と照合したところ、宵曲のそれは正確でないことが判明したので、国立国会図書館デジタルコレクションの明治二六(一八九三)年博文館刊の同書の当該ページの画像を視認して、全面的に書き換えた。但し、読みは一部に限り、一部では私の判断で濁音を附し、記号も追加した。なお、原典は本文にも出る通り、「臥龍梅」に「がりうはい」のルビを振っており、底本のような「がりょうばい」ではなく、「がりゅうばい」と読んでいることをここに明らかにしておく。ちくま学芸文庫版でも「がりゅうばい」となっている。なお、同条は末尾に、

   *

梅譜 曰  去都城二十里有臥梅偃蹇十餘丈相傳唐物也 謂之梅竜好事者載酒遊之

(「梅譜」に曰く、都城を去ること、二十里、臥梅あり、偃蹇(えんけん)として[やぶちゃん注:高く聳えるさま。]十餘丈、相ひ傳ふ、「唐物なり」と。これを「梅龍」と謂ひ、好事の者、酒を載せて之れに遊ぶと云々)

   *

と続く(訓読は私のオリジナル)。

「梅譜」通常、こう言うと、和書ではない中国のものを指し、しかも、特定の一書を指すのではなく、梅の歴史・技法に関する論述や図譜・画梅を得意とした画家の評伝などを集成した書籍類の通総称である。北宋後期の禅宗画僧仲仁撰とされる「華光梅譜」(全一巻)、南宋の宋伯仁撰の「梅花喜神譜」(全二卷)、元の呉太素撰の「松斎梅譜」(全十五巻)などが知られ、特に最後の「松斎梅譜」は数種の抄本が日本に伝存するのみで、梅譜としては完備した体裁を備え、牧谿(もっけい:南宋末元初の禅僧で画家)や若芬(じゃくふん)玉澗(ぎょくかん:南宋末の画僧。牧谿と並称された。同時代には玉澗と名乗る画家が他に二人いるので注意)らの基本的伝記資料を収めている点でも価値が高い(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。但し、「江戸名所図会」の本文のそれは以上でよいが、最後の引用は明らかに亀戸梅屋敷のそれを語っており、「唐物」とある以上、明らかに特定の和書であるが、国立国会図書館デジタルコレクションで幾つかの和書の梅譜を縦覧してみたものの、特定できなかった。識者の御教授を乞うものである。

「榮螺」蟠龍の形状に加えて龍宮を見立てたものであるが、面白くない。]

 

 年寄て龍も齒錆(はさび)や梅の花 素丸(そまる)

 

 この句は臥龍梅かどうかわからぬけれども、老いたる梅の幹を龍に見立てた点で、五百武の句よりも臥龍らしいところを描いている。臥龍梅を詠んだ子規居士の歌に「梅園に老い行く年を臥す龍の爪もあらはに花まばらなり」とあるのが、大体趣を同じゅうするようである。子規居士にはこの外にもまだ「龜井戸のやしろを出でて野の道を左に曲る臥龍梅の園」などという歌もあり、臥龍は年と共に老い朽ちながら江東に名を馳せていたが、明治四十三年の大洪水を境として木も亡び名所もなくなってしまった。

[やぶちゃん注:「明治四十三年」一九一〇年。]

 梅の句の中にはもう一つ、

 

   ある御館(みたち)へ出けるに

 梅が香にねぢ忘れけり龍の口   五明(ごめい)

 

というのがある。これは龍の形に遣り水を吐出さしむる所の謂(いい)で、龍の字は用いてあっても、臥龍などとは全くかけ離れた句である。

 

 亢龍(こうりやう)の梅をさとるか藤の花 五秀

 枯枝に麗龍見たり蔦紅葉(つたもみぢ)  蕪村

 若竹や龍這(はひ)のぼる藪からし    巢兆

 龍の玉つかむ牡丹の莟(つぼみ)かな   五明

   曾根の松

 陽炎(かげろふ)に龍こそうねれ曾根の松 露川

 

 藤の太い幹のうねくった様子は、龍の形容にふさわしくないことはない。ただ「亢龍の梅」という言葉が成語として人に訴える所が多いために、藤そのものを眼前に髣髴しにくい憾(うらみ)がある。即ち高く登りつめることを避けて地上にうねくっているという智的な分子が主になって、龍の如き藤の幹はこの成語に掩(おお)われやすいのである。蕪村の使った「麗龍」という言葉は、他にあまり例がないかも知れぬ。しかし枯枝にからみついた蔦の葉を龍の鱗に見立て、その真赤に紅葉したところを麗龍の語で現したのは、一読して直に感じ得る趣である。「亢龍有悔(くいあり)」というような特別な意味がないだけ、詩としての効果はかえって多いかと思う。巣兆の「藪からし」も同じような見立であるが、若竹なるものが細くもあり、丈が低くもあるので、如何に藪からしが景気よく這いのぼったにしても、龍の形容に当るかどうか、そこにいささか疑問がある。蔦の葉の生いった形が鱗らしいのに比べて、藪からしの見劣りすることはいうまでもない。

 五明の句は牡丹の莟を龍の摑む珠に見立てたのである。従って龍はこの場合全く姿を現していない。龍と牡丹とを二つ並べて見たら、共に漢土で幅を利かせているには相違ないが、両者の間に調和する点を認めにくいかも知れぬ。しかるに一たび龍の姿を隠して、彼(か)の爪に摑む珠だけを点出すると、牡丹の莟の上に意外な調和が生れて来る。ここに作者の働きがあるのである。曾根の松の巨幹を龍と形容するのは、最も平凡な著眼であろう。しかし龍鱗は松の形容になっているし、奇でない代りに趣はよく発揮されている。ゆらゆらと立つ春の陽炎も、妖気というほどではないにしろ、或雰囲気を描き得ていることは慥(たしか)である。

[やぶちゃん注:「亢龍(こうりやう)」龍が天を目指して行くのを「飛龍」と称し、その先、天高く昇りつめた龍を「亢龍」と称する。後で宵曲が言っている「亢龍有悔」、「亢龍(こうりょう)悔い有り」というのは既に出たが、「昇り過ぎた龍は後悔することになる」、「只管(ひたすら)進むことのみを成して退く機を知らずに強気で押し通し過ぎて周囲から浮いてしまう」こと、或いは、もっと致命的に「栄華を極めたものは結果して衰滅するしかない」の謂いである。中国ではしばしば使われるものの、日本ではあまり成句として使われることはないようである。「亢」の字が一般的でないからであろう。

の梅をさとるか藤の花 五秀

「枯枝に麗龍見たり蔦紅葉(つたもみぢ)」この句は「句集拾遺」に載るもので、蕪村の句としてはあまり知られたものではない。

「藪からし」「藪枯らし」は別名を「貧乏葛(びんぼうかづら)」とも言う蔓性植物。ブドウ目ブドウ科ヤブガラシ属ヤブガラシ Cayratia japonica。和名は鬱蒼とした藪をも覆って枯らしてしまうほどに成長力が旺盛であることに由来する。私の家の斜面もこやつと葛が蟠り蔓延っている。

「曾根の松」兵庫県高砂市曽根町((グーグル・マップ・データ))にある曽根天満宮にあった松。ウィキの「曽根天満宮によれば、『この神社の創建年代については不詳であるが、社伝では延喜元年』(九〇一年)『菅原道真が大宰府に左遷される途上に伊保の港から上陸し、「我に罪なくば栄えよ」と松を手植えした。後に播磨国に流罪となった子の菅原淳茂が創建したものと伝えている。江戸時代には江戸幕府から朱印状も与えられていた』。『道真が手植えしたとされる松は霊松「曽根の松」と称された。初代は』寛政一〇(一七九八)年に『枯死したとされ』、一七〇〇『年代初期に地元の庄屋が作らせた』約十分の一の『模型が保存されており、往時の様子を知ることができる。天明年間に手植えの松から実生した二代目の松は』大正一三(一九二四)年に『国の天然記念物に指定されたが』、昭和二七(一九五二)年に枯死し』、『現在は五代目である。枯死した松の幹が霊松殿に保存されている』とある。]

 その他植物以外にも龍を用いた句はいろいろある。

 

 龍の手につかみはづすや鳰(にほ)の月 魯九

 雲起す龍かと飛鳧(ひふ)の勢(きほ)ひかな

                    角上

 松明(たいまつ)の龍にはたらく鵜川(うかは)かな

                    景賢

 海老臥龍餅をうがつに玉あらん     北鯤(ほつこん)

   餞別の吟

 其杖も龍にやならん雲の岑(みね)   支考

 

 魯九の句は月を珠に見立てたので、牡丹の莟ほど奇なところはない。子規居士もかつて月夜の雲について「雲、長く斜にして、月、一端に在り、老龍玉を吐くが如し。雲分れて二片となる、月、中間に在り、双龍、玉を爭ふが如し」と述べたことがある。皎々(こうこう)と澄み渡った月でなしに、若干の雲ある場合、この種の連想を起しやすいのであろう。「鳩の月」は琵琶湖の月である。田原藤太を導いて三上山の百足(むかで)を射させた龍王は、この湖の底に棲んでいたはずだから、鳩の月に対して龍を思い浮べるのは偶然でないかも知れぬ。

 角上の句はどういう意味かよくわからない。飛鳧の勢を以て雲を起す龍に比するというのは、どう考えても倫を失しているようである。後漢の王喬が毎月朔日(ついたち)、葉県より参内するのに、いまだかつて車馬にも乗らず、従者を伴うでもない。ただ彼が朝廷へ来る頃になると、必ず二羽の鳧(かも)が東南の方より来って宮門の前に止る。或時試に網を張ってその鳧を捕えて見たら、一双の履であったという話がある。殊更に飛鳥というような語を用いる以上、何か漢土の故事にあてはま基づくものと思われるが、果してこれに当嵌(あてはま)るかどうか疑問である。もっと適切な故事か、隠れた意味かがあって、雲を起す龍を連想せしむるのでなければなるまいと思う。

 景賢の句の「龍にはたらく」は俳諧独得の用語であろう。其角の「雞(にはとり)の獅子(しし)にはたらく逆毛かな」なども、獅子の如くに働くの意で、闘雞の場合に逆毛を立てる様子を、獅子の鬣(たてがみ)に見立てたのである。鵜川の闇(やみ)にかざす松明の焰(ほのお)なり煙なりを龍に擬するのは、誇張に失するという人があるかも知れぬ。その筆法で往けば、雞の逆毛を獅子に擬するのも無論誇張である。この種の形容はむしろ誇大なところに或面白味を生ずるのであるが、景賢は其角の獅子に倣(なら)って「龍にはたらく」の語を用いたような気がせぬでもない。

 伊勢海老には長い二本の角がある。固い殻にとげとげしたところもある。それだけの理由を以て龍らしい顔をするのは僭越だけれども、小さな海馬(かいば)ですら龍の落し子と称しているのだから、海老を龍族に加えるのも新春の一興であろう。この時代の句は「餠(もち)の嶋(しま)ごまめの白蛇眠りけり 洗口(せんこう)」などという調子に、思いもよらぬ奇抜な見立をして人を驚かす傾向があった。鏡餅が嶋であるとすれば、ごまめが白蛇になり、伊勢海老が臥龍に出世しても別に不思議はないのである。

 費長房(ひちょうぼう)が仙人のところから跨(またが)って帰った青竹は、そのまま龍になって昇天したという話がある。それ以来かどうかわからぬが、杖にはとかく龍の連想があるらしい。大徹和尚の提唱を聞いた人の話に、拄杖(しゆじょう)を座中へぽうんと抛(ほう)り出したかと思うと、「拄杖化して龍となる、見えたりや見えたりや」といって、澄して引込んでしまったことがあるそうである。支考の句は行脚(あんぎゃ)の杖だから、それほど凄じいものでもあるまいが、どこかそういう匂がする。半天に聳え立つ雲の峯に対し、「龍にやならん」という杖が薄気味悪く感ぜられるのは、さすがにこの作者の技倆であろう。

[やぶちゃん注:「鳰(にほ)の月」鳰(にお)は鳥綱カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ Tachybaptus ruficollis のことであるが、琵琶湖は古くから本種や同じカイツブリ目を構成する種が多かったことから「鳰(にほ)の海」の別称を持ち、ここでも鳥の「鳰」ではなく、湖としての琵琶湖に浮かぶ月影をかく言ったのである。

「飛鳧(ひふ)」後で宵曲が解説しているように、飛ぶ鴨(かも)のこと。但し、「鴨」自体が鳥類の分類学上の纏まった群ではなく、カモ目カモ科Anserinae の鳥類のうち、雁(かり/がん:これも通称総称で、カモ目カモ科ガン亜科 Anserinaeのマガモ属 Anas よりも大型で、カモ亜科 Anatinae に属するハクチョウ類よりも小さいものを指す)に比べて体が小さく、首があまり長くなく、冬羽(繁殖羽)はで色彩が異なるものを指すが、カルガモ(マガモ属カルガモ Anas zonorhyncha)のように雌雄で殆んど差がないものもいるので決定的な弁別属性とは言えない。また、この「鳧」という字は「鳬」とも書き、「けり」とも読み、その場合、現行の和名では全く異なる種である、チドリ目 Charadriiformes チドリ亜目 Charadrii チドリ科 Charadriidae タゲリ属ケリ Vanellus cinereus を指すので注意が必要である。

「鵜川(うかは)」宵曲が解説しているが、夜の鵜飼漁をしている川の景のこと。

「雲、長く斜にして、月、一端に在り、老龍玉を吐くが如し。雲分れて二片となる、月、中間に在り、双龍玉を爭ふが如し」『ほととぎす』(明治三一(一八九八)年十一月発行・第二巻第二号)初出の「雲」という短い随想。電子テクスト・サイト「里実文庫」ので全文が読める(但し新字体)。そのデータと校合して、底本にはない「双龍」の後の読点を補った

「皎々(こうこう)と」明るく光り輝くさま。

「後漢の王喬が毎月朔日(ついたち)、葉県より参内するのに……」美術記者金井紫雲(明治二〇(一八八七)年~昭和二九(一九五四)年)の「東洋畫題綜覽」(昭和十六(一九四一)年から昭和十八年にかけて刊行)に『王喬は支那の仙人、漢の明帝頃の人、その履が鴨となつて、これに騎り、早旦に出仕する、帝がその出仕の早いのを怪しんで之を探らしめるといふ面白い事跡がある』とし、「列仙全傳」に、

   *

王喬河東人、漢明帝時、爲尚書郎、出爲葉令、漢法畿内長吏節朔還朝、喬毎月朔旦自縣來、朝帝怪其來數而見車騎、密令太史伺望之、言其臨至、輒有雙鳧從東南飛來、於是候鳧至擧羅張之得二鳥焉、乃所賜尚書官屬履也、毎當朝時、葉縣門外鼓不撃自鳴聞于京師、從天下玉棺於堂前、吏人推排終不移動喬曰、母乃天帝召我耶、乃沐浴服飾寢其中蓋便立覆勿于城東自成墳、其夕縣中牛皆流汗乏而人無知者、百姓爲之立廟號葉君祠、祈禱輒應。

   *

とあると記す。

「独得」ママ。

「費長房(ひちょうぼう)」)は後漢の方士(生没年未詳)。ィキの「費長房(後漢)」より引く。『汝南郡(現中華人民共和国河南省平輿県一帯)の出身で』『当初はとある市場の監視役人を務めていたが、市場の監視楼上から市中で売薬店を構える謫仙の壺公(ここう)』『が日没時に店先に吊した壺に跳び入る姿を目撃した事から壺公の許を訪れたところ、自分の秘密を目にし得た費に感心した壺公に連れられて壺中に入り、そこに建つ荘厳な御殿で美酒佳肴の饗応を受ける。その後、壺公から流謫も終わって人間界を去る事を聞かされると、自分も仙道を学びたいと思い、壺公の教唆に依って青竹を自身の身代わりに仕立て、縊死を装う事で家族の許を去り』、『壺公に就いて深山に入り修行する。修行は初め虎の群中に留め置かれ、次いで今にも千切れんとする縄に吊された大石の下に身を横たえるといった内容で、共に成果を修めるも最後に』三匹の虫が蠢く臭穢な糞を食うように求められて出来ず、『遂に上仙を断念し、壺公から地上の鬼神を支配出来る』一『巻の護符を授かって帰郷』した。しかし、山中での修行は僅か十日程であったのであるが、地上は実に十年以上が経っていたという。『帰郷後は治病に従事したり』、『壺公から授かった護符を使って東海地方(現山東省東南の海岸部)の水神である東海君や、人間に化けた鼈や狸を懲らしめる等、社公(地示)やあらゆる鬼神を使役懲罰し、また地脈の伸縮を自在に操る能力を有して』、『瞬時に宛(えん。現河南省南陽市)に赴いて鮓(さ。魚類の糟漬け)を買ったり』、一日で数千里(六百キロメートル弱)を『隔たる複数処を往来したりしたが、後に護符を失った為に鬼神に殺された。晋代の葛洪は竹を自身の屍体に見せかけた費を尸解仙』(一旦、死んだ後に蟬が殻から脱け出るようにして仙人になること)『の例に挙げている』とある。柴田宵曲 續妖異博物館 「空を飛ぶ話」(1)も参照されたい。

「大徹和尚」江戸後期の臨済宗の僧。大徳寺(現在の京都府京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派大本山。山号は龍宝山(りゅうほうざん))四百三十世。宗斗は諱。四百七世大順宗慎の法を嗣ぐ。後に尼ヶ崎栖賢寺・知般若寺に住した。文政一一 (一八二八) 年寂。享年六十四歳。

「拄杖(しゆじょう)」禅僧が行脚の際に用いる杖(つえ)。「ちゅうじょう」とも読む。]

 

   上杉謙信はいつも二陣に有(あり)て

   我旗本の勝を以て勝利とし前後不顧

 野分(のわき)哉(かな)一目龍のまる備へ

                龜洞(きとう)

 

 この句は前書の示す通り詠史の句である。疾風迅雷の如き謙信の行動を、「野分哉」の上五字で現したことだけは想像出来るが、「一目龍のまる備へ」に至っては全くわからない。何かそういう軍学上の術語があるのか、単なる譬喩(ひゆ)か、その辺も一切不明である。龍の句として一風変ったものであるに相違ないが、龍そのものの因縁は存外稀薄なのかも知れぬ。わからぬままを掲げて、識者の垂教を待つことにした。

[やぶちゃん注:句意は私も判らぬ。]

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