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2017/11/26

老媼茶話巻之六 水野十郎左衞門

 

     水野十郎左衞門

 

 いつの頃にや、御旗本に水野十郎左衞門といふ人、有(あり)。男立(をとこだて)のあばれ者にて、樣々の惡事をなす、諸人もてあましもの也。

 其頃、町の男立に幡隨長兵衞(ばんずいゐんちやうべゑ)といふ者、有。此者、水野が我儘を聞(きき)て、

「いつぞ、大きに手をとらせ、男立を止(やめ)させん。」

と、ねめ居(ゐ)たる。

 或時、吉原の土手道にて、長兵衞、水野と出合(であひ)、わざと口論を仕懸(しかけ)、散々に、水野、をしつけ、深田へ踏(ふみ)こかし、大きに恥辱をあたふ。

 其後、亦、上野の花盛(はなざかり)、江戸中の貴賤老若、群集(ぐんじゆ)する折ふし、長兵衞も花見に來りけるが、水野、異風成(なる)出立(いでたち)にて不遠慮に花見のまくを覗廻(ノゾキまは)り傍若無人の體(てい)にて我儘をする。

 長兵衞、此時も水野をとらへ、數奇人(すきびと)の見る前にて、したゝかに、こめをする。

 去間(さるあひだ)、水野、幡隨(ばんずい)を見かけては、影(カゲ)を隱し、脇道をし、身をすくめ通る。おのづから、男立も、すたる。

 水野、此事を深くいきどをり、

「兎角、幡隨を殺すべし。」

と工夫し、長兵衞かたへ使(つかひ)を立(たて)て、

「明日、明後日、兩日の内、晝より可被參(まゐらるべし)。緩々(ゆるゆる)得御意(ぎよいをえ)、御咄可申(おはなしまうすべし)。御出あらば、そばを可申付(まうしつくべし)。」

といひ送りしかば、長兵衞、合點し、

「是は水野、我に深く恥辱をあたへられたれば、ころすべきたくみなるべし。行(ゆか)すば、をく病也と、わらはるべし。行(いか)で叶わぬ所なり。」

とて、

「明日、參り御禮可申(おんれいまうすべし)。」

と返事をする。

 扨、水野が支度には、

「明日、長兵衞、來らば、玄關に力強き者、四、五人揃へて、はかまきせ、取次の樣に見せ置(おき)、幡隨、座敷へ入る處を、左右前後より取(とり)すくめ、手ごめにせむ。」

と、なり。

「是にても取(とり)あまさば、幡隨、座敷へ入(いり)、水野に禮をいふ時、必(かならず)、手をつひて頭をさぐへし。其節、十郎左衞門、自(みづから)、切殺すべし。此(この)圖もはづすなら、酒をしひ吞(のま)せ、酒に醉(ゑひ)たる處を、大勢にて手ごめにせん。」

との、たくみなり。

 あくる日にもなりしかば、幡隨長兵衞、黑小袖に袴羽織を着、常の出立にて、二尺八寸大脇差をさして、水野が方へ行(ゆき)、玄關に趣き、あんないを云(いひ)、入(いり)けるに、用有(ようあり)げなる大男、四、五人、兩方へ立別ありけるをみて、

「扨こそ。」

とおもひ、眼にかどを立(たて)、左右をねめつけるに、かの者ども、威にのまれ、うつぶしに成(なり)て、こゞみ居たり。

 長兵衞、座につけば、水野、立出(たちいで)、

「能(よく)こそ被參(まゐられ)たれ。」

と挨拶なり。

 幡隨、其時、座を立(たち)、水野とひざをくみ合(あは)せ、

「今日、其(その)思召寄(おぼしめしより)忝(かたじけなく)存ずる。」

と水野が面(おもて)を白眼(にらみ)少しも動かず、

『つかみひしがん。』

と思ひ詰(つめ)たる顏色なれば、水野も、すべき樣、なし。

 扨、調膳(てうぜん)出(いで)て、樣々の馳走ありて、十六、七のすみ前髮の美男、肴を持出(もちいで)る。

「いかに長兵衞。是は我等甥、水野主税(ちから)と云(いふ)者也。見知りくれ候へ。」

といふ。

 幡隨、主税を見て、

「扨、よき美童の若き人かな。御知る人に罷成(まかりなる)しるしに、持合(もちあひ)たる盃、慮外仕(りよぐわいつかまつ)るべし。」

とて、大盃にいつぱい引請(いきうけ)、のみほして、主税に、さす。

 主税、盃をいたゞき、

「御盃に候得ば、下戸なれども壱給へ可申。」

とて、酒、たぶたぶと引受(ひきうけ)、のみほして、長兵衞に盃を返しける。

 幡隨、見て、

「いさぎよく御まいり候。今壱吞(のみ)て、さし被成候得(なされさふらえ)。」

とて、肴に出(いで)し雉子の燒もゝを、はさみける。

 主税、手を出(いだ)し、肴をうくるふりをなし、長兵衞がうで首を取(とつ)てつめたり。

 ばん隨、

「いや、こはざれするわつぱしめ。」

といふて、うでをぬかんとするに少しも動かず。

 左の腕を差延(さしのべ)、主税が首筋つかまんとするを、主税、あざ笑ひ、幡隨が左の腕をもひとつに取(とり)、握りすくめ、二、三歳の小兒をなす樣に橫さまに倒し、兩足をも取(とつ)て一所に摑(ツカ)み添(そへ)、さしもの大男を、兎などをさげたる樣に中(ちゆう)にさげ、水野が方を見やり、

「是、如何(いかが)仕るべし。」

と云。

 水野、是をみて、

「いかに幡隨、意趣はいはずと覺有(おぼえあ)るべし。今日、始(はじめ)て御出候得ども、させる御馳走もなく殘念に存(ぞんず)るまゝ、後段には備前福岡一文字定則が打(うち)し三尺手切二胴の刀にて御自分の胴中(どうなか)御ふるまひ可申。つまり、肴の水の物、ひやひやと一盃きこしめし候得。」

とて、障子をひらけば、廣庭へ土段(どたん)をしかけ、立杭(たてぐひ)・挾竹(はさみだけ)迄、取揃(とりそろ)へ、袴の股立(ももだち)取りし若黨ども、弐、三人、なまり鍔(つば)に切柄(きりづか)までしこみたる刀を持(もち)て立居(たちゐ)たり。其外、賤敷(いやしき)者ども、五、六人、なわ・たすき懸(かけ)て畏(かしこま)り居たり。

 主税、幡隨を引(ひつ)さげ、庭へおりければ、待請(まちう)しもの共、大勢集り、手取(てとり)、足取、衣裳をはぎ、裸になし、五體すこしも働せず、幡隨を土段に引上(ひきあげ)、杭、丈夫に打(うち)て、手足、引(ひき)のべ、したゝかにしめ付(つけ)、胴中を挾竹にてしめ合(あひ)、生胴(いきどう)にしかけける。

 幡隨、身をもみ、もだへ、いかれども、はたらく物は兩眼(まなこ)斗(ばかり)也。

 幡隨、血眼に也(なり)、申樣、

「水野十郎左衞門、犬侍の大腰ぬけ。己(ヲノレ)めは糞尿(フンメウ)をのみくろふ、『しつそ』といふ『くそ蟲』におとりたり。己が手に叶はぬ故、たばかりよせて、手ごめにし、生(いき)ながら、ためしものにせらるゝ事、此恨(うらみ)、骨髓に、てつし、忘ㇾ難(わすれがた)し。惡靈と成(なり)、七代迄取り殺ろさん。」

と頭上より、けぶりを立(たて)、血のなみだを流し、齒がみをなす。

 水野、聞(きき)て、あざ笑ひ、

「己、長袖の分際にて、いらざる腕立(うでたて)を好み、侍に對し、度々、慮外をなしけるゆへ、天報を受(うけ)て、今、ためし物にせらるゝ也。最期、血に迷ひ、むだごとを吐出(はきいだ)す。惡靈にならんとは片腹いたし。汝を胴切して、しかばね、骨(コツ)原へ捨(すて)ん。犬烏(イヌカラス)のゑじきと成(なり)、其後、『靑ばい』になれ。」

と、あざむきて、一文字定則の道具にて生胴(いきどう)をためし、しかばねを、ひそかに片影に埋(うづめ)ける。

 然共(しかれども)、天眼、常にねふらず、此事、かくれなかりしかば、長兵衞兄、神田山新知恩寺幡隨院覺山上人、此旨を聞(きき)、大きにいきどをり、水野が惡逆、訴出(うつたへいで)けるまゝ御詮義の上にて、水野に切腹被仰付(おほせつけらる)。

 切腹の體(てい)、見事成りし、と也。

 水野がたぐひの勇は、「血氣偏勇」とて「士のすてもの」なり。

 

[やぶちゃん注:「水野十郎左衞門」江戸前期の旗本水野成之(なりゆき 寛永七(一六三〇)年~寛文四(一六六四)年)。「十郎左衞門」は通称。旗本奴(はたもとやっこ:江戸前期の江戸を闊歩した旗本の青年武士やその奉公人及びその「かぶき者」、一種のギャング・グループ。派手な異装をして徒党を組み、無頼を働く不良・暴力集団。主要な悪党組織が六つあったことから「六方組(ろっぽうぐみ)」と呼び、旗本奴自体を「六方」も呼んだ。先の「大鳥一平」の主人公のモデルとなった大鳥居逸兵衛(大鳥逸平:天正一六(一五八八)年~慶長一七(一六一二)年)を首魁とする「大鳥組」(中間・小者といった下級の武家奉公人を集めて徒党を組み、殊更に異装・異風で男伊達を気取って無頼な行動をとった)はこの「旗本奴」の先駆とされる。同時期に起こったここに出る幡随長兵衛のような町人出身の「かぶき」者・侠客を「町奴」と呼んだ)の代表格ウィキの「旗本奴」によれば、彼の組織した集団は彼によって「大小神祇組(だいしょうじんぎぐみ)」と名付けられたらしい。以下、ウィキの「水野成之」から引く。寛永七(一六三〇)年)、旗本『水野成貞の長男として生まれる。父の成貞は備後福山藩主・水野勝成の三男で、成之は勝成の孫にあたる』。慶安三(一六五〇)年、三千石で『小普請組に列した。旗本きっての家柄であり』、もっと上の『しかるべき役に就ける』地位であったが、『お役入りを辞退して自ら』、『小普請入りを願った』という。慶安四(一六五一)年には第四代将軍徳川家綱に拝謁している。父成貞も「かぶき者」で『初期の旗本奴であったが、成之もまた、江戸市中で旗本奴』として『大小神祇組を組織、家臣』四『人を四天王に見立て、綱・金時・定光・季武と名乗らせ、用人頭(家老)を保昌独武者』(「保昌」は藤原保昌(やすまさ 天徳二(九五八)年~長元九(一〇三六)年)のこと。武勇に秀で、藤原道長の四天王(他は源頼信・平維衡・平致頼)の一人と称された人物。和泉式部の夫)『と名づけ、江戸市中を異装で闊歩し、悪行・粗暴の限りを尽くした。旗本のなかでも特に暴れ者を仲間にし、中には大名』で武蔵国高坂藩初代藩主加賀爪直澄(かがつめなおずみ)や『大身旗本の坂部三十郎広利などの大物も混じっていた。旗本という江戸幕府施政者側の子息といった大身であったため、誰も彼らには手出しできず、行状はエスカレートしていった。そのため、同じく男伊達を競いあっていた町奴とは激しく対立した』。『そのような中』、明暦三(一六五七)年七月十八日『成之は町奴の大物・幡随院長兵衛を殺害した』。但し、本文のあるのとは異なり『成之はこの件に関してお咎めなしであった』とある。その七年後、『行跡怠慢で』寛文四(一六六四)年三月二十六日に『母・正徳院の実家・蜂須賀家にお預けとなった』翌二十七日、『評定所へ召喚されたところ、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬不遜であるとして即日に切腹となった。享年』三十五。二『歳の嫡子・百助も誅されて家名断絶となった。なお、反骨心の強さから切腹の際ですら』、『正式な作法に従わず、膝に刀を突き刺して切れ味を確かめてから』、『腹を切って果てたという。旗本奴への復讐心に息巻いていた町奴たちに』は『十郎左衛門の即日切腹の沙汰が知らされ、旗本奴と町奴の大規模な衝突は回避された』とある。『なお、母と共に蜂須賀家へ預けられた弟の水野忠丘』(ただおか)が、元禄元(一六八八)年に赦され、元禄一四(一七〇一)年には旗本となったことによって、『家名は存続した』とある(下線太字やぶちゃん)。彼の辞世は「落とすなら地獄の釜を突(つ)ん拔いて阿呆羅刹(あはうらさつ)に損をさすべ」だそうである。三坂は「切腹の體(てい)、見事成りし」という伝聞を添えているが、莫迦は死ななきゃ治らねえクラスのトンデモ不良である。

「幡隨長兵衞」(元和八(一六二二)年)~明暦三(一六五七)年/但し、墓誌によると、慶安三(一六五〇)年とも)は江戸前期の町人(生まれもそうであったかどうかは不詳)で町奴(前注参照)の頭領。本名は塚本伊太郎(いたろう)。日本の侠客の元祖ともされる。ウィキの「幡随長兵衛」によれば、江戸も中期以降、悪玉である水野とともに『歌舞伎や講談の題材となった』。『妻は口入れ屋の娘・きん』。唐津藩の武士・塚本伊織の一子とされているが』、『諸説あり、滅亡した波多氏の旧家臣の子であるとする説』『や、幡随院(京都の知恩院の末寺)の住職・向導の実弟または幡随院の門守の子という説』『もある』。『父の死後、向導を頼って江戸に来て、浅草花川戸で口入れ屋を営んでいたとされる。旗本奴と男伊達を競いあう町奴の頭領として名を売るが、若い者の揉め事の手打ちを口実に、旗本奴の頭領・水野十郎左衛門(水野成之)に呼び出され』、『殺害されたという』。河竹黙阿弥(かわたけもくあみ 文化一三(一八一六)年~明治二六(一八九三)年)の歌舞伎「極付幡随長兵衛(きわめつきばんずいちょうべえ」(通称「湯殿の長兵衛」。明治一四(一八八一)年東京春木座初演)の『筋書きでは、長兵衛はこれが罠であることを勘づいていたが、引きとめる周囲の者たちを「怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる、人は一代、名は末代」の啖呵を切って振り切り、殺されるのを承知で一人で水野の屋敷に乗り込む。果たして酒宴でわざと衣服を汚されて入浴を勧められ、湯殿で裸でいるところを水野に襲われ殺されたとしている』とある(下線太字やぶちゃん)。両者の生年が正しければ、不良武士の水野の方が八つも年下である。

「ねめ居(ゐ)たる」「ねめ」は「睨(ね)め」で、しっかり目をつけていたの謂いであろう。

「をしつけ」「押しつけ」。サイドから体当たりを食らわしたか。

「深田へ踏(ふみ)こかし」足を掛けてこけさせた上、蹴り転がして、汁田(しるた)へ突き落とし。

「數奇人(すきびと)」花見の御大尽。

「こめ」底本は「こ」に横に『籠』と漢字を振る。それならば、動けないように押さえつけてひしぎ籠めるの謂いだろうが、私は「懲(こ)め」で、散々に打擲して「懲らしめること」の意で読んだ

「男立も、すたる」水野自身の好き勝手放題の乱暴狼藉が出来なくなってしまった。

「いきどをり」「憤(いきどほ)り」。

「そば」「蕎麥」。もてなし物として蕎麦の出前を頼み申そう、というのである。蕎麦は食事でも酒の肴となることを匂わせている。

「ころすべきたくみなるべし」「殺すべき企みなるべし」。

「をく病」「臆病(おくびやう)」。

「はかまきせ」「袴着せ」。正規の奉公人のように見せかけるため。

「取(とり)すくめ」「とり竦め」捕り押さえつけて動けないようにし。

「手ごめ」「手籠め」。人を力ずくで押さえつけたりして自由を奪い、全く動けないようにすること。「手込め」とも書く。

「是にても取(とり)あまさば」それでも万一、それが何かの都合で、全く実行出来なかった場合には。行動に移ってしまった場合は、とてものことに次の以下のような平穏な段階には行けないのでそのように私は採る。事実、屈強な奴らが全然ダメになってしまうそうからでもある。

「此(この)圖」この企図。企(たくら)み。

「はづすなら」「外すなら」。何らかの想定外の事態によって、我らが全く実行に移せなかったなら。前と同じ理由で、かく訳を補塡しないと日本語の会話としては今一つ通じないと私は思うのである。事実、やっぱり、そうなるしね。

「しひ吞む(のま)せ」「強い吞ませ」。

「二尺八寸」刃渡り八十四・八四センチメートル。脇差としては破格の長さで、刀としても長い。

「用有(ようあり)げなる」訳あり顏で、如何にも何か仕掛けようとする感じが見え見えの。

「眼にかどを立(たて)、左右をねめつけるに、かの者ども、威にのまれ、うつぶしに成(なり)て、こゞみ居たり」一睨みで大の屈強の男ども四、五人が揃ってかくなってしまうという眼力は、これ、相当なもんだわ。

「つかみひしがん」「摑み拉(ひし)がん」。「摑みかかって押し潰してやる!」。間違ってはいけませんよ! そういう雰囲気を発散しているのは長兵衛の方ですよ!

「調膳(てうぜん)」万事、料理を調え飾った食膳。

「肴」追加の酒肴であろう。無論、酒と一緒にである。

「水野主税」不詳。水野成之の弟忠丘(寛永一八(一六四一)年~宝永四(一七〇七)年)がいるが、明暦三(一六五七)年当時は十六だから、子はあり得ない。二人の姉が(賀嶋政玄室と稲田稙春室。ウィキの「水野成之」から)いるから、彼らの子か。或いは、甥というのは真っ赤な嘘かも知れぬ。

「御知る人に罷成(まかりなる)しるしに」お互いにお近づきとなりましたそのお記しとして。

「持合(もちあひ)たる盃、慮外仕(りよぐわいつかまつ)るべし」今、持ち合せたこの盃で、誠に不躾ながら御返杯申し上げよう。

「燒もゝ」雉子の腿肉を焼いたもの。

「はさみける」長兵衛が手に取って、主税に勧めたのである。

「つめたり」ギュッと摑んで握り締めた。

「いや、こはざれするわつぱしめ。」「いや」は感動詞「何とまあ」、「こは」は「これは」、「ざれ」は「戲(ざ)れ」で「悪戯(いたずら)・悪い冗談」、「わつは」は「童(わつぱ)」、「し」は強意の副助詞、「め」は接尾語「奴(め)」で相手を罵る語。「何と! こりゃあ、つまらねえ冗談をする小童がッツ!」。

「備前福岡一文字定則」福備前の刀工一文字派のうちで福岡の地に興った福岡一文字派。古備前派正恒系の刀工であった定則の子・則宗を祖とするという。鎌倉初期に興ったとされる。

「三尺手切」「手切(てぎり)」は「籠手切(こてぎり)」で脇差の銘によく用いられているから、脇差の別称のように思われる。ほぼ九十一センチメートルであるから異様に長い脇差である。

「二胴」人体を二つ重ねて一刀両断に出来る刀の意。

「肴の水の物、ひやひやと一盃きこしめし候得」「水も漏らさぬ強靱の氷の刃、そのお腹に直接、一佩、お召しになられるがよかろう。」。実に厭らしい謂いである。

「土段(どたん)」底本、「段」の右に編者が『壇』を添漢字している。刑罰としての「生き胴」(金澤藩やその他で行われた死刑の一種。刑場に土を盛って「土段場(土壇場)」というものを作り、そこに目隠しをした罪人を俯せに横たえて、二名の斬手が同時に頸と胴を斬り放すものである。少なくとも、延宝八(一六八〇)年と元治年間(一八六四年~一八六五年)にこの刑に処せられた者が実際にあっし、金沢藩では十八世紀後半まで重罪人に対してこの刑が執行されていたとウィキの「生き胴」にある)では、盛り上がった土段の周囲の地面に木や竹の杭を数本打ち立て(左右の手と足を固定するため)、その間に手足を挟んだり縛ったりして動かないように固定した

「袴の股立(ももだち)取りし」「股立ち」は袴の左右両脇の開きの縫止めの部分をいう。そこを摘んで腰紐や帯にはさみ,袴の裾をたくし上げることを「股立を取る」と称し、機敏な活動をする仕度の一つとされた。

「なまり鍔(つば)」不詳。鉛なんぞの軟らかいもので鍔は作るまい。普通は鉄或いは胴製である。思うに、この「な」は原典の「あ」の誤記で、「あまり」、即ち「若黨ども、二、三人餘り」で切れ、「鍔に切柄(きりづか)までしこみたる」なのではあるまいか? 「切柄」は小柄(こづか)のことであろう。日本刀に付属する小刀で刀の鞘の内側の溝に装着する。通常、本来の用途としては木を削ったりするものであるが、時には武器として投げ打つこともあった。小型の単刀式手裏剣である。

「なわ・たすき」「繩・襷」。

「糞尿(フンメウ)をのみくろふ」「糞尿(ふんにやう)を吞み喰(くろ)ふ」。尿は呉音が「ネウ(ニョウ)」、漢音でも「デウ(ジョウ)」で「メウ」というのは不審。或いは「ネ」「テ」(原典には濁点が殆んどない清音表記である)の原本を写本する際に誤まって「メ」としたものではなかろうか?

「『しつそ』といふ『くそ蟲』」「しつそ」は不詳であるが、「そ」は恐らく「糞蟲」から考えて「蛆」(音「ソ」)であろう。問題は「しつ」だが、これは或いは大きな蛆虫状のもので「蛭」(漢音では「シツ」がある)ではあるまいか? 私は既に「和漢三才圖會」の「蟲類」の電子化注を終えているが、そこで痛感したのは、和漢を問わず、近世までは蛆虫状の諸動物(昆虫類だけに限らぬ)の幼虫類を十把一絡げに「蛆」と言っていたし、真正の蛭(ヒル:環形動物門ヒル綱 Hirudinea)でなくても、笄蛭(コウガイビル:扁形動物門渦虫(ウズムシ)綱三岐腸(ウズムシ)目陸生三岐腸(コウガイビル)亜目コウガイビル科コウガイビル属 Bipalium)や肝蛭(カンテツ:扁形動物門吸虫綱 二生亜綱棘口吸虫目棘口吸虫亜目棘口吸虫上科蛭状吸虫科(カンテツ)科蛭状吸虫亜科カンテツ属カンテツ Fasciola hepatica)とか、蛭に似て全く非なる動物をそのように呼んでいる例は幾らもあるから「蛭蛆」で「シツソ」、充分、有り得ると思うんだがなぁ? 如何?

「てつし」「徹し」。

「長袖」「古くは、武士が袖括りして鎧を着るのに対して、常に長袖の衣服を着ていることから、武士でない公家・医師・神主・僧侶・学者などを、武士階級の者が軽蔑して呼んだのがこれであったから、ここはそれを拡大した「町人」を指している。

「腕立(うでたて)」力の強いことを自慢し、それを頼んでしきりに人と争うことを指す。

「血に迷ひ」血が頭に昇って気が変になり。

「骨(コツ)原」「小塚原(こつかはら)」。所謂、「こづかっぱら」、小塚原刑場。千住大橋南側の小塚原町(こづかはらまち)に創設(慶安四(一六五一)年)された。ウィキの「小塚原刑場」によれば、『江戸の刑場は北に小塚原刑場、南に東海道沿いの鈴ヶ森刑場(東京都品川区南大井)、西に大和田刑場(八王子市大和田町大和田橋南詰付近)があり、三大刑場といわれた。刑場の広さは間口』六十間(約百八メートル)、奥行三十間余り(約五十四メートル)程で、『小塚原の仕置場では磔刑・火刑・梟首(獄門)が執行され』、『腑分けも行われた』『(腑分けが行われたのは小伝馬町牢屋敷(日本橋小伝馬町)と小塚原刑場であったという)』。『死体は丁寧に埋葬せず』、『申し訳程度に土を被せるのみで、夏になると周囲に臭気が充満し、野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような有様だったという』(だから、ここでの水野の謂いには、そこにこっそり損壊遺体を投げ捨てておけば、殺人事件としては発覚しにくいというようなニュアンスもあるように思われる)。『また、使われる刀剣の試験場(当時は「おためし場」といった)で』もあった。現在の東京都荒川区南千住二丁目に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「靑ばい」「靑蠅」。双翅(ハエ)目ヒツジバエ上科クロバエ科Calliphoridaeのうち、緑色や青色のハエの俗称。

「ひそかに片影に埋(うづめ)ける」実際には敷地内の片隅に埋めて、一定期間、腐敗が進んだところでそれこそ小塚原刑場へ持って行って遺棄し、事件を隠蔽しようとしたのかも知れぬ。

「ねふらず」「眠らず」。

「神田山新知恩寺幡隨院」現在は東京都小金井市前原町にある浄土宗神田山新知恩寺幡随院(ばんずいいん)。本尊阿弥陀如来。ウィキの「幡隨院」によれば、慶長八(一六〇三)年に『帰依していた徳川家康が江戸開幕にあたって、『浄土宗知恩寺』三十三『世住持・幡随意を開山として招聘し、江戸神田の台(現・東京都千代田区神田駿河台)に創建した寺である。家康はこの際に白銀』十『貫目および嫡男・秀忠も米』三百『俵を寄進して堂宇を整えるとともに』、『神田山新知恩院の寺号を与え、徳川家祈願所と定めた』。慶長一五(一六一〇)年には』『浄土宗の檀林が置かれ、後には浄土宗の関東十八檀林の一つとして同宗派の高僧を輩出したとされる』。翌慶長十六年に『幡随意は古希になったのを機に随意巖上人を同寺の』二『世住持法嗣に定めて伊勢国山田(現在の三重県伊勢市)の草庵に引退した』。元和三(一六一七)年、『神田の台における堀割(神田川)の開削工事が決まったために同地から下谷池之端(現在の台東区上野』二『丁目付近)に移り、』十八間(三十二・七二メートル)『四方あったという壮大な本堂と』四十『あまりの学寮を備えて檀林としての偉容を整えた。しかし』、明暦三(一六五七)年の「振り袖火事」に『類焼して堂宇を全て焼失してしまった』(本時制明暦三(一六五七)年当時はここにあったことになる下線やぶちゃん)。『このため』、万治二(一六五九)年に『浅草神吉町(現在の台東区東上野』五『丁目』『辺り、上野学園敷地を含む近接地)に移って再建、本堂・開山堂および学寮』四十『余を建立し、その新境内地は広さは』八千二百五十九『坪ほどあったとされる』。その後も度重なる焼失と再建が繰り返され、昭和一二(一九三七)年に『自火焼失、ついに江戸時代以来の旧地を離れて』昭和十五年に『現在の小金井市に移転』したとある。長兵衛は父の遺命で幡随院の住職向導に親交(命を助けられたともある)があったことから、「幡随院」を名乗ったと伝えるだけで、ここに出る幡随院の住職「覺山上人」という人物も調べ得なかった。識者の御教授を乞うものではある。

「士のすてもの」武「士の捨て者」。武士の風上にも置けない非道者。]

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