柴田宵曲 俳諧漫筆 菊
[やぶちゃん注:本篇は昭和二五(一九五〇)年十二月発行の雑誌『日本及日本人』に発表された。底本は一九九九年岩波文庫刊の小出昌洋編「新編 俳諧博物誌」に載る「菊」を用いたが、「虫の句若干」の冒頭注で述べた通り、大幅な変更処理を施してある。
植物界 Plantae 被子植物門
Magnoliophyta 双子葉植物綱 Magnoliopsida キク亜綱 Asterdiae キク目 Asterales キク科 Asteraceae 或いはキク属 Chrysanthemum のタクソンで広義のキク類となるが、ここで宵曲が挙げいている園芸用のの栽培菊(特に本邦に於いて観賞用多年草植物として品種交配によって多数生み出された品種群(和菊))のみであるから、イエギク Chrysanthemum × morifolium としてよいであろう。]
蜀山人の『一話一言(いちわいちげん)』には文化四年文化七年と両度に巣鴨の菊を見ることが書いてある。その時の菊は花の種類を尽すだけで、他に趣向はなかったらしいが『武江年表』の記載によると、文化七年から巣鴨染井の植木屋に菊の花を以て人物鳥獣その他を造ることがはじまり同十三年までで一旦造物はなくなったとある。しかるに弘化元年に至って巣鴨染井の造菊が再興したらしく、同四年には目黒に波及し、文久元年になると根津千駄木藪下の辺に菊の造物が多く出来て、日々遊観の人が絶えぬようになっている。但(ただし)文久元年の条には、「今年も」という言葉が用いてあるから、実際はもう少し前からあったのであろう。この「根津千駄木藪下」は即ち団子坂附近になるので、どんな造物か正体はわからぬが、そんな種類のものがあの辺に存在していたことは慥(たしか)である。
[やぶちゃん注:「一話一言」大田南畝の大部の随筆。安永四年から文政五年(一七七五年~一八二二年)の凡そ四十七年の間、書き継がれた。現存伝本の最多は全五十六巻。内容は彼の博学と多趣味の赴くまま、多岐に亙り、江戸随筆の代表とされ、作者生前から愛読者があり、写本も作られ、よく読まれた。
「文化四年」一八〇七年。
「武江年表」江戸の町名主で考証家であった斎藤月岑(げっしん 文化元(一八〇四)年~明治一一(一八七八)年)の著になる江戸・東京地誌(「武江」は「武藏國江戸」の略)。徳川家康入府の天正一八(一五九〇)年から明治六(一八七三)年)までの二百八十三年間の市井の出来事が編年体で記されてある。「正編」が嘉永三(一八五〇)年に、「続編」が明治一五(一八八二)年に出版された。
「巣鴨染井」現在の豊島区駒込から巣鴨附近。この辺り(グーグル・マップ・データ)。東京に冥い私が唯一目を瞑っても歩ける唯一の場所。それは染井霊園の裏にある正壽山慈眼(じがん)寺(日蓮宗・豊島区巣鴨・一部のデータや準公的資料等には読みを「じげん」とするものがある)には愛する芥川龍之介の墓があるからである。私の夏目漱石のフェイク小説「こゝろ佚文」のロケーションもそこで、挿入した写真も染井霊園で撮影された(教え子の手になる)ものである。宜しければ、御笑覧あれかし。
「弘化元年」一八四四年。
「文久元年」一八六一年。
「団子坂」東京都文京区千駄木三丁目附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
明治以後における団子坂の菊は東京の名物であった。「不是花中偏愛菊(これくわちゆうひとへにきくをあいするにあらず)。此花開盡更無花(このはなひらきつくせばさらにはななからん)」というのは唐人の感懐であるが、東京の菊は重陽より晩(おそ)いのを例とするから、団子坂の菊が凋落すれば間もなく冬の天地に入らなければならぬ。行楽の機関に乏しかった時代だけに、好晴を利して団子坂に集る人の数は想像以上に多かったのである。その混雑の模様は『浮雲』や『三四郎』の中にもよく描かれているが、俳句の畠において最も多く団子坂を詠じているのは子規居士であろうと思う。
[やぶちゃん注:「不是花中偏愛菊。此花開盡更無花」表記と読みは確信犯で正字・歴史的仮名遣に直した。中唐の名詩人元稹の七絶「菊花」の転・結句。宵曲とは異なる、私の訓読を後に示す。
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菊花
秋叢繞舍似陶家
遍繞籬邊日漸斜
不是花中偏愛菊
此花開盡更無花
秋叢(しうそう) 舍(しや)を繞(めぐ)りて 陶家に似たり
遍(あまね)く籬邊(りへん)を繞(めぐ)れば 日 漸(やうや)く斜く
是れ 花中(くわちゆう) 偏(ひと)へに菊を愛するにはあらず
此の花 開くこと 盡きなば 更に花 無ければなり
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起句の「陶家」は隠棲した、かの詩人陶淵明の家を夢想して言っているのであり、承句はそれを受けて「籬」(垣根)がダイレクトに、淵明の古詩「飮酒」中の名句「采菊東籬下 悠然見南山」(菊を采(と)る東籬(とうり)の下(もと) 悠然として南山を見る)と響き合うようになっている。
「浮雲」二葉亭四迷の「浮雲」は明治二〇(一八八七)年から明治二十二年にかけて発表された長編小説。その「第二編」の「第七囘 團子坂の觀菊(きくみ) 上」の前半部(次の第八回は同題の「下」であるが、「觀菊」とは無縁)に団子坂の菊見に行った主人公らが菊細工を見るシークエンスが描かれているが、人工的に変形させた菊細工には至って批判的である。
「三四郎」夏目漱石の「三四郎」は明治四一(一九〇八)年の九月一日から十二月二十九日にかけて『朝日新聞』に連載された長編小説。その「四」の前の方で(引用は岩波旧全集に拠る。踊り字「〱」は正字化した)、
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ある日の午後三四郎は例のごとくぶら付いて、團子坂の上から、左へ折れて千駄木林町(せんだぎはやしちやう)の廣い通へ出た。秋晴と云つて、此頃は東京の空も田舍(いなか)の樣に深く見える。かう云ふ空の下に生きてゐると思ふ丈(だけ)でも頭は明確(はつきり)する。其上、野へ出れば申し分(ぶん)はない。氣が暢(の)び暢びして魂が大空程の大きさになる。それで居て身體總體(からださうたい)が緊(しま)つて來る。だらしのない春の長閑(のどか)さとは違ふ。三四郎は左右の生垣(いけがき)を眺めながら、生まれて始めての東京の秋を嗅(か)ぎつつ遣(や)つて來た。
坂下では菊人形(きくにんぎやう)が二三日前開業したばかりである。坂を曲がる時は幟(のぼり)さへ見えた。今はたゞ聲だけ聞こえる、どんちやんどんちやん遠くから囃(はや)してゐる。其囃(はやし)の音が、下の方から次第に浮き上がつて來て、澄み切つた秋の空氣の中へ廣がり盡くすと、遂には極めて稀薄な波になる。其又(また)餘波が三四郎の鼓膜の側(そば)まで來て自然に留る。騷がしいといふよりは却(かへ)つて好い心持ちある。
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その「四」の終りの方の会話に、
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[やぶちゃん注:前略。]野々宮君は笑ひながら、
「まあ、どうかしませう。――身長(なり)ばかり大きくつて馬鹿だから實に弱る。あれで團子坂の菊人形が見たいから、連れて行けなんて云ふんだから」
「連れて行つて御上なされば可(い)いのに。私(わたくし)だつて見たいわ」
「ぢや一所に行きませうか」
「えゝ是非。小川さんも入らつしやい」[やぶちゃん注:これはヒロイン里見美禰子の台詞。「小川」は主人公小川三四郎。]
「えゝ行きませう」
「佐々木さんも」
「菊人形は御免だ。菊人形を見る位なら活動寫眞を見に行きます」
「菊人形は可(い)いよ」と今度は廣田先生が云ひ出した。「あれ程に人工的なものは恐らく外國にもないだらう。人工的によく斯んなものを拵へたといふ所を見て置く必要がある。あれが普通の人間に出來ていたら、恐らく團子坂(だんござか)へ行く者は一人もあるまい。普通の人間なら、どこの家(うち)でも四五人は必ずゐる。團子坂へ出かけるには當らない」[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、「四五人は必ずゐる」といふのであれば、の意。せめて、句点ではなく、読点の方がまだしもである。]
「先生一流の論理だ」と與次郎が評した。
「昔教場で教(をそ)はる時にも、よくあれで遣られたものだ」と野々宮君が云つた。
「ぢや先生も入らつしやい」と美禰子が最後に云ふ。先生は默つてゐる。みんな笑ひ出した。
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と出、次の「五」で、三四郎は美禰子から『明日(みやうにち)午後一時頃から菊人形を見に參りますから、廣田先生のうち迄入らつしやい。美禰子』という葉書を受け取る。
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坂の上から見ると、坂は曲(まが)つてゐる。刀の切先(きつさき)の樣である。幅は無論狹い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分遮(さけぎ)つてゐる。其後(うしろ)には又高い幟(のぼり)が何本となく立てゝある。人は急に谷底へ落ち込む樣に思はれる。其落ち込むものが、這ひ上がるものと入り亂れて、路一杯に塞(ふさ)がつてゐるから、谷の底にあたる所は幅をつくして異樣に動く。見てゐると目が疲れるほど不規則に蠢(うごめ)いている。廣田先生はこの坂の上に立つて、
「是は大變だ」と、さも歸りたさうである。四人はあとから先生を押す樣にして、谷へ這入つた。其谷が途中からだらだらと向(むかふ)へ廻り込む所に、右にも左にも、大きな葭簀掛(よしずがけ)の小屋を、狹い兩側から高く構へたので、空さへ存外窮屈に見える。往來は暗くなる迄込み合つてゐる。其中で木戸番が出來る丈(だけ)大きな聲を出す。「人間から出る聲ぢやない。菊人形から出る聲だ」と廣田先生が評した。それ程彼等の聲は尋常を離れてゐる。
一行は左(ひだ)りの小屋へ這入つた。曾我(そが)の討入(うちいり)がある。五郎も十郎も賴朝もみな平等に菊の着物を着てゐる。但し顏や手足は悉(ことごと)く木彫(きぼり)である。其次は雪が降つてゐる。若い女が癪(しやく)を起こしてゐる。是も人形の心(しん)に、菊を一面に這はせて、花と葉が平(たひら)に隙間(すきま)なく衣裝(いしやう)の恰好となる樣に作つたものである。
よし子は餘念なく眺めてゐる。廣田先生と野々宮はしきりに話しを始めた。菊の培養法が違ふとか何とかいふ所で、三四郎は、外(ほか)の見物に隔(へだ)てられて、一間ばかり離れた。美禰子はもう三四郎より先にゐる。見物は、概して町家(ちやうか)の者である。教育のありさうな者は極(きは)めて少(すくな)い。美禰子はその間に立つて、振り返つた。首を延ばして、野々宮のゐる方を見た。野々宮は右の手を竹の手欄(てすり)から出して、菊の根を指(さ)しながら、何か熱心に説明してゐる。美禰子は又向(むかふ)をむいた。見物に押されて、さつさと出口の方へ行く。三四郎は群集(ぐんじゆ)を押し分けながら、三人を棄てゝ、美禰子の後(あと)を追つて行つた。
漸くの事で、美禰子の傍(そば)迄(まで)來て、
「里見さん」と呼んだ時に、美禰子は靑竹(あをだけ)の手欄(てすり)に手を突いて、心持首を戾(もど)して、三四郎を見た。何とも云はない。手欄(てすり)のなかは養老の瀧である。丸い顏の、腰に斧(をの)を指した男が、瓢簞(へうたん)を持つて、瀧壺(たきつぼ)の側(そば)に跼(かゞ)んでゐる。三四郎が美禰子の顏を見た時には、靑竹のなかに何があるか殆んど氣が付かなかつた。
「どうかしましたか」と思はず云つた。美禰子はまだ何とも答へない。黑い眼を左(さ)も物憂(ものう)さうに三四郎の額(ひたひ)の上に据ゑた。其時三四郎は美禰子の二重瞼(ふたへまぶた)に不可思議なある意味を認めた。その意味のうちには、靈(れい)の疲れがある。肉の弛(ゆる)みがある。苦痛に近き訴へがある。三四郎は、美禰子の答へを豫期しつゝある今の場合を忘れて、此眸(ひとみ)と此瞼(まぶた)の間に凡(すべ)てを遺却(ゐきやく)した。すると、美禰子は云つた。
「もう出ましょう」
眸(ひとみ)と瞼(まぶた)の距離が次第に近づく樣に見えた。近づくに從つて三四郎の心には女の爲に出なければ濟まない氣が萌(きざ)してきた。それが頂點に達した頃、女は首を投げる樣に向ふをむいた。手を靑竹の手欄(てすり)から離して、出口の方へ步いて行く。三四郎はすぐ後(あと)から跟(つ)いて出た。
*
以下、二人の散策が続き、例の有名な公案じみた「迷へる子(ストレイ シープ)が美禰子の口から発せられるのである。なお、岩波旧全集の古川久編の注解には、『本郷団子坂の菊人形は』この『当時の大衆娯楽を代表するものとなった。二葉亭四迷』の「浮雲」『にも描かれて、ロマンティックな気分を漂わせているが』(私(藪野直史)はそうは思わないが)『以下の場面も三四郎・美禰子の淡い恋愛感情を写す背景として活用されている』とある。]
團子坂を望みて
日曜やけう菊による人の蟻 子規
團子坂菊花偶
あはれ氣もなくて此(この)菊あはれなり
同
菊を見ず菊人形を見る人よ 同
旗立てゝ菊人形の日和(ひより)かな 同
團子坂
菊園に天長節の國旗かな 同
二軒見て通り過ぎけり菊細工 同
千駄木の友訪ふ道や菊細工 同
大方は似顔なりけり菊細工 同
墓參の歸りを行くや菊細工 同
白菊を滝につくりし細工かな 同
團洲の似顔愛づるや菊細工 同
傘さして菊細工見る小雨かな 同
崖に寄る菊人形の小屋高し 同
雨になる天長節や菊細工 同
枯れ方になりて哀れや菊人形 同
自來也も蝦蟇(がま)も枯れけり団子坂
同
菊細工舞臺も枯れてしまひけり 同
菊細工の句が特に多いのは、明治三十二年の秋、病牀を訪れた二、三子と共にこの題で句を作ったためであろう。その時永田青嵐氏が「一つ見て行き過ぎにけり菊人形」という句を作って出すと、廻って来た句稿の中に「二軒見て」の句がある。同じような思いつきではあるが、この方が味いがあると思って抜いて置いたところ、作者は子規居士であった。しかも居士は「一つ見て」の句を採ったのみをらず、『日本』紙上にもこの方を掲げたので、その後進を引立てる心持に深く感じたというのは、明治俳壇の空気を窺うに足る一挿話であろう。「自來也も蝦蟇も枯れけり」の句には菊の字がない。団子坂の地名があるだけでこの自来也も蝦蟇も菊人形たることが明(あきらか)になるのである。
[やぶちゃん注:「團洲」歌舞伎役者九代目市川團十郞(天保九(一八三八)年~明治三六(一九〇三)年:襲名は明治七(一八七四)年)の俳号。
「明治三十二年」一八九九年。]
子規居士はこれほど多くの団子坂文学を遺(のこ)したが、居士の撰に成る『新俳句』や『春夏秋冬』を見ても、それらしいものは殆ど見当らない。東京人である漱石氏の句などには、当然菊人形が取入れられそうに思われるにかかわらず、やはりそれがない。手許の書物の頁を翻して発見し得たのは僅に左の数句に過ぎぬ。
牡丹は富貴蓮は君子
人形の菊こそ花の乞食かな 紅葉
ある人同し心をとて
障子さへいやぢやに菊の舞臺かな 同
子を持つて始めて見たり菊人形 瓊音(けいおん)
吾(わ)れ子あり菊人形の俗に耐ふ 同
怪しさや夕まぐれ來る菊人形 我鬼
團子坂の菊はいやしき手摺(てずり)かな
笑風
丹念にしらべ、子細に点検したら多少は出て来るに相違ないが、菊の句が多い割に菊人形の句が少いことは、以上の例だけで断言してもよさそうである。漱石氏は『三四郎』の中で「あれほどに人工的なものは恐らく外国にもないだろう。人工的によくこんなものを拵えたという所を見て置く必要がある。あれが普通の人間に出来ていたら、恐らく団子坂へ行くものは一人もあるまい。普通の人間なら、どこの家でも四、五人は必ずいる。団子坂へ出掛けるには当らない」という一流の菊人形観を述べた。漢土以来の隠逸趣味に捉われているわけでもない明治の俳人の作に菊人形を詠んだものが少いのは、余りに人工的に過ぎるためかどうか。右に挙げた諸句の多くが題意を含んでいるのを見ても、ほぼ這間(しゃかん)の消息を解し得るような気がする。
[やぶちゃん注:「瓊音」言わずと知れた、国文学者・俳人で国粋主義者であった沼波瓊音(ぬなみけいおん 明治一〇(一八七七)年~昭和二(一九二七)年)。二句目はその壮士然としたところが如何にもクソである。
「我鬼」言わずと知れた、芥川龍之介我鬼の句である。大正八(一九一九)年三月の作。
「這間」「この間(かん)」の意。但し、「這」には「この」という指示語の意はなく、誤読の慣用法である。宋代、「この」「これ」の意で「遮個」「適箇」と書いたが、この「遮」や「適」の草書体が「這」と誤判読されたことに由来するものである。]
団子坂の菊は大正初年に亡びたようである。白山上(はくさんうえ)へ出る通りの幅が広くなったのを境として、年々歳々あれだけ人を集めた菊人形は団子坂から姿を消した。国技館に移されて後の菊人形は、もう従来のように都人士の興味を惹くことが出来なくなってしまった。――ここで思い出すのが鳴雪翁の一句である。
俳調の変易に感じて
菊は古し人形つくるつゝじかな 鳴雪
この句は年代がはっきりわからないけれども、いわゆる「俳調の変易」が新傾向を指すものとすれば、明治四十二、三年以後の作ということになるであろう。躑躅(つつじ)で人形を造ったのは大久保の躑躅園である。菊の顰(ひそみ)に倣(なら)った躑躅人形なるものも、明治末年にあっては相当斬新な試であったかも知れない。長いこと繰返された菊人形の方は、それだけ陳腐に属するわけでもあるが、斬新なるべき躑躅人形は菊人形ほど多くの人を引寄せることが出来ず、かつその生命も久しいものでなかった。躑躅人形の如く斬新であった当時の俳調はその後どうなったか。鳴雪翁のこの句は、人形や俳調を外にしてもいろいろ考えさせるものがある。
[やぶちゃん注:「明治四十二」「年」は一九〇九年。
「明治末年」老婆心乍ら、明治は四十五年までで、一九一二年七月三十日まで。]
大久保の躑躅園は大正八、九年の交に亡び、その木は日比谷公園に移された。東京の春秋の名物は、かくして旧来の面目をとどめなくなったのである。大正生れ乃至(ないし)昭和生れの人々に取っては、団子坂も大久保も菊や躑躅とは縁のない地名に過ぎぬであろう。しかし園は亡び、花は絶えても当時の句はなお存している。明治の団子坂を知っている者なら、如上の句から菊人形の盛況を思い浮べ得るはずである。更に年所を閲すれば『浮雲』や『三四郎』の一節を引用して、傍証の料とする時代が来るかも知れぬが、そうなったからといって菊人形の句が悉くその価値を失うこともあるまい。要は対象の捉え方如何にある。常に変らぬ自然の姿を描いた句だけが永く価値を保つと解するのは、題材に重きを置き過ぎた説で、作者の態度なり技倆なりを等閑視したものといわなければならぬ。俳句の天地はそれほど局限されたものではない。うつろいやすき人事を捉えて、その趣を後昆(こうこん)に伝えたものは古来の句中にいくらも存在するからである。
[やぶちゃん注:「交」は音で「こう」と読んでいよう。年月や季節の変わり目を指す語である。
「更に年所」(ねんしょ:「所」は「数(かず)」の意で、「年数・年月・歳月」の意)「を閲」(けみ)「すれば『浮雲』や『三四郎』の一節を引用して、傍証の料」(りょう:資料)「とする時代が来るかも知れぬ」まさに今やそうなっている。句だけを出しても、子供らには殆んど通じなくなっているのである。私はそれでよいと思っている。私は人間が畸形させた菊人形が大嫌いだからである。
「後昆」「後」も「昆」も、「のち・あと」の意で、「後世の人・後人(こうじん)」或いは「子孫・後裔」のこと。]