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2017/11/09

柴田宵曲 俳諧漫筆其の七 蒲公英

  

[やぶちゃん注:本篇は昭和二六(一九五一)年四月発行の雑誌『日本及日本人』に発表された。底本は一九九九年岩波文庫刊の小出昌洋編「新編 俳諧博物誌」に載る「蒲公英」(たんぽぽ)を用いたが、「虫の句若干」の冒頭注で述べた通り、大幅な変更処理を施してある。]

 

 子供の時分、小学校の読本に蒲公英(たんぽぽ)のことが出て来て、教室で実物を見せようとしても、東京の下町では容易に見つからない。日曜に郊外へ遊びに行く者は見当り次第取って来るように命ぜられたが、時が少し遅かったかどうかして、誰も持って来なかったことをおぼえている。蒲公英の花は古来菫(すみれ)ほど持囃(もてはや)されず、紫雲英(れんげ)ほど群生せず、同じ黄色のものでは菜の花に圧倒された形で、人目を惹くことが存外少いようである。

[やぶちゃん注:「蒲公英(たんぽぽ)」被子植物門 Magnoliophyta 双子葉植物綱 Magnoliopsida キク目 Asterales キク科 Asteraceae タンポポ属 Taraxacum の総称。在来種以外の帰化種も多く、ここでは種は示さない(帰化種は近世に入ったものもあり、古俳諧に詠まれているのだからと言っても在来種とは限らない。世界的には六十種を越える)。詳しい種はウィキの「タンポポ」の主な種を参照されたい。

「菫(すみれ)」キントラノオ目スミレ科スミレ属 Viola のスミレ類。或いはスミレ Viola mandshurica

「紫雲英(れんげ)」マメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ属ゲンゲ Astragalus sinicus

「菜の花」アブラナ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種アブラナ Brassica rapa var. nippo-oleifera。]

 蒲公英を詠んだものは元禄前後にも

 

 蒲公英やすこしのべたき花の茎    鶴聲

 蒲公英の花を築たる堤かな      畏計

 たんぽゝや芹生(お)ふ原のまがひ道 牧童

 蒲公英や春とはぬ宿の忘菊      山店(さんてん)

 蒲公英のものいみの日ぞ佛の坐    衞門

 蒲公英の土手や昔の鳴海潟      東推

 たんぽゝや幾日(いくか)踏まれてけふの花

                   鵬卯

 たんぽゝや白壁見やる足の下     知足

 蒲公英や葉にはそぐはぬ花盛     圃(ほはく)

 

 等の句があるけれども、特に記憶に値するようなものではない。花の形が菊に似ているところから「春とはぬ宿の忘菊」といったり、物忌(ものいみ)の日に仏の座を引合に出したりするのは、あまり面白からぬ趣向である。蒲公英の葉が堅い感じで、花と不調和な点を捉えている方が幾分かまさっているかと思う。畏計、牧童、東推の三者はいずれも蒲公英の咲いている場所を描いた。

[やぶちゃん注:「元禄前後」元禄は一六八八年から一七〇四年までで、前は貞享(じょうきょう:一六八四年から一六八八年まで)で、後は宝永(一七〇四年から一七一一年まで)。]

 この花が路傍の足下などによくあることは、鵬卯や知足の句にも現れている。但「幾日踏まれてけふの花」という言葉には、苦心の末に花咲く日に逢ったような意味が含まれているような気がする。単純に蒲公英の姿を詠んだのは鶴声の一句だけれども、相当長い蒲公英の花の茎に対し、何故少し伸べたいというのか、その点がよくわからない。

 蕪村が故園の情を寓した「春風馬堤曲」の中に

 

   たんぽゝ花咲(はなさけ)り

   三々五々五々は黃に三々は白し

   記得す去年此路よりす

 憐(あはれ)とる蒲公茎短(みじこう)して乳を浥(あませり)

 

という句がある。毛馬塘(けまつつみ)の春の景物として蒲公英を描いたので、三々五々の語は星の如く点在するこの花の様子をよく現している。此処(ここ)の蒲公英は黄白相雑(あいまじ)り、黄の方が白より多かったことも、短い文句から窺うことが出来る。蕪村の句集に蒲公英の句は見当らぬようだけれども、蒲公英に興味を持つ者でなければ到底如是(にょぜ)の詞句を吐き得まいと思う。

[やぶちゃん注:「春風馬堤曲」厳密には「春風馬堤(しゆんぷうばてい)の曲(きよく)」と読む。十八のパートから成る俳詩で、安永六(一七七七)年の春興帖「夜半樂」に発表したもの。本篇は冒頭で蕪村がシチュエーションを記している通り、故郷である摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島(みやこじま)区毛馬町(けまちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ))に帰る途中、藪入りで帰省する娘に出逢ったとして、その心情に仮託しつつ、自らの郷愁を詠んだ抒情詩の絶品である。私の『萩原朔太郎「郷愁の詩人 與謝蕪村」より「春風馬堤曲」(やぶちゃん原詩補注版)』で全篇(原詩・訓読)を注附きで読める。以上は前書のように宵曲が記している部分が漢文訓読体の第十一句群目で、発句のように示しているのが発句体の第十二句目。娘が昔、遊び、奉公へ出た道に、今も同じように三々五々とあちこちに小さな群落を作って咲く蒲公英を見て、懐かしく思う景で、その思い出に惹かれて、蒲公英を折り採ると、そこから乳のような白い汁が溢れ出てくるというのであり、次の第十三句群はそれを受けて、

   *

むかしむかししきりにおもふ慈母の恩

慈母の懷袍(くわいはう)別に春あり

   *

と続くのである(「袍」は「抱」の誤りとも言われる)。白い汁から母の乳を連想し、母の懐に抱かれた、その無何有の春の世界を想起しているのである。因みに、ここで「三々は白し」とあるのは、もしこれが花の色が白いと言っているのであるなら、在来種のタンポポ属シロバナタンポポ Taraxacum albidum と考えてよかろう。但し、ほほけた穂綿を指しているとも読めぬことはない。]

 

 蒲公英や葉を下草に咲て居る  秋瓜(しうくわ)

 蒲公英や花拵(こしら)へて伸上(のびあが)り

                雲郎

 蒲公英に東近江の日和かな   白雄

 たんぽゝや五柳親父(おやぢ)がしたし物

                几董

 蒲公英や滝より上の里の春   道彦

 蒲公英や菜に行く蝶の道次手(ついで)

                同

 蒲公英や蝶も一さし舞うて行く 鸞窓

 たんぽゝや靑柳うたふ岸に咲  谷水

 蒲公英に狐の遊ぶ晝間かな   柳絮(りうぢよ)

 蒲公英や蝶も一輪花の宿    信之

 田螺鳴く畝の蒲公英打ほけぬ  曉臺

 たんぽゝや誰草臥(くたびれ)た尻の跡

                作者不知

 

この中にもあまり面白い句はない。秋瓜及雲郎の句は蒲公英の形を描いている点で多少注目に催する。「葉を下草に咲て居る」というのは蒲公英のスケッチとして、一応要領を得ているように思う。「花拵へて伸上り」は前の鶴声の句と一脈相通ずるところがあり、擬人的なために句を俗にしている。蝶を配したものは三句ながら平凡であるが、昼狐の句は人の意表に出た。こういう趣向は机上で案じ得べき性質のものでないから、恐らく作者の実見に基いた句であろう。蒲公英の花は明快で妖気を含んでいない。白日の下、この花のほとりに遊ぶ狐は、ただ一幅の画として受取ることが出来る。

[やぶちゃん注:「五柳親父(おやぢ)」陶淵明。

「したし物」「浸し物」。蒲公英の葉や花はお浸(ひた)しにして食すことが出来る。かなり苦いが、茹で上げた後、水に晒す時間を長めにとると、苦みが和らぐ。

「道彦」は「だうげん(どうげん)」と読む。

「田螺鳴く」江戸の歳時記で既に三春の季語であった。実際に今でも田螺(腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae のタニシ類)が鳴くと思っている人はいるようだが、無論、鳴かない。蛙の鳴き声を誤認したもので、特に現代では両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri の鳴き声に特定されている。(この蛙の鳴き声は近代以前には非常に好まれ、季節の贈答品として生きたまま贈られたりさえした。私の「谷の響 四の卷 一 蛙 かじか」なども参照されたい)。同季語の発句を例示しておく。

 

 菜の花の盛に一夜啼(なく)田螺 河合曽良

 田螺鳴く畝のたんぽぽ打ちほけぬ 加藤曉臺

 鳴く田螺鍋の中ともしらざるや  小林一茶

 

但し、寧ろ、「田螺鳴(たにしな)く」という諧謔味を好んだのは近代俳人で、鳴かないことを知っていて確信犯で季語として使用したものが異様に多い。今も信じている方々のその根っこにはこの罪深い連中の駄句があるように思われる。以上は私が「北越奇談 巻之五 怪談 其三(光る蚯蚓・蚯蚓鳴く・田螺鳴く・河鹿鳴く そして 水寇)」で考証した注を援用した。]

 

 蒲公英に人を配合した句は殆ど見当らない。「誰草臥た尻の跡」は珍しく人を持って来たが、その人は已に憩い去って姿をそこに見せぬのである。暁台の句は、これまで挙げた中で、最も複雑な内容を持っている。畝(うね)に咲く蒲公英はほほけて、あたりに田螺の声がする。春も末に近い田園の、懶(ものう)げな日和の感じが一句の上に漂っているように思われる。

 しかし花の過ぎた蒲公英を詠んだものとしては、蕪村の高弟である召波の左の句を推さなければなるまい。

 

 たんぽゝもけふ白頭に暮の春   召波

 

 同門の凡董が花から眼を外らして、「五柳親父がしたし物」などとひねったのに比べると、この方が遥に自然であり、詩趣にも富んでいる。白頭はいうまでもなく白い球形の穂綿を形容したのであるが、この一語によって花の老と、春の老いたるとを併せ示したのは凡手でない。

 擬人的な叙法もこの程度にとどまれば、厭味にもならず、俗に堕する虞(おそれ)もないのである。竹久夢二の童謡に

 

 くれゆく春のかなしさは

 白髪頭(しらがあたま)の蒲公英の

 むく毛がついついとんでゆく

 風がふくたびとんでゆき

 若い身そらで禿頭(はげあたま)

 

というのがあったが、召波の句と殆ど同じところを捉えている。「けふ白頭に」といい「白髪頭」というのは日本人らしい見立なのかも知れない。しかるにソログープの「地のものは地へ」という童話を読むと、「数々の花の中で、サーシャはこの頃、何よりも彼のようにかよわい、感じやすい蒲公英が一番好ましくなった。殊にその丸い、灰色の籃(かご)をちぎって、草の上に寝ころんで、もぎとらないで、軽い息吹でそれを吹き散らすと、悠々と空に種子があがって行くのを見送るのが気に入った」と書いてある。少年らしい一種のセンチメンタリズムであるが、草の上に寝ころんで、蒲公英の穂綿を吹き散らす少年の姿を想い浮べると、そういう気持の上には東西の差別も何もないように思われる。日本人が白髪と見立てるところを、「灰色の籃」とのみいい去ったのも、かえって淡々たる妙味がある。

[やぶちゃん注:この唄は竹久夢二(明治一七(一八八四)年~昭和九(一九三四)年)が大正八(一九一九)年に刊行した唄集「夢のふるさと」の中の「ゆく春」の前章。夢二、三十六歳。

   *

 

  ゆく春

 

くれゆく春のかなしさは

白髪頭の蒲公英(たんぽゝ)の

むく毛がついついとんでゆく。

風がふくたびとんでゆき

若い身そらで禿頭(はげあたま)。

 

くれゆく春のかなしさは

薊(あざみ)の花をつみとりて

とんとたゝたけば馬がでる

そつとはらへば牛がでる

でてはぴよんぴよんにげてゆく

 

   *

「ソログープ」フョードル・ソログープ(Фёдор Сологуб 一八六三年~一九二七年:本名:フョードル・クジミチ・テテルニコフ:Фёдор Кузьмич Тетерников)はロシア象徴主義の詩人で小説家。

「地のものは地へ」原題はЗемле земное。ソログープは好きな作家であるが、これは残念なことに読んだことがない。]

 明治の文学に蒲公英を描いたものはいろいろあるかも知れぬが、今脳裏から直に喚起し得るのは漱石氏の『草枕』の一節である。

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が二字下げでポイント落ち。前後を一行空けた。ここは底本に拠らず、岩波旧全集で校訂して正字正仮名で示した。なお、宵曲は「珠」を「球」と誤っている。]

 

 しばらくは路(みち)が平(たひら)で、右は雜木山(ざふきやま)、左は菜の花の見つゞけである。足の下に時々蒲公英(たんぽゝ)を踏みつける。鋸(のこぎり)の樣な葉が遠慮なく四方へのして眞中に黃色(きいろ)な珠(たま)を擁護(ようご)して居る。菜の花に氣をとられて、踏みつけたあとで、氣の毒な事をしたと、振り向いて見ると、黃色な珠は依然として鋸(のこぎり)のなかに鎭座(ちいざ)して居る。呑氣(のんき)なものだ。

 

しずかな春の山路で折々蒲公英を踏みつける。如何にも太平の趣である。この蒲公英も毛馬塘と同様、三々五々咲いているに相違ない。漱石氏のいわゆる非人情の世界、俳諧の天地だから、蒲公英の句がありはせぬかと思って、全集の俳句を調べて見たけれども、僅(わづか)に左の一句を発見し得たきりであった。

 

 犬去つてむつくと起る蒲公英が   漱石

 

犬が去って後にむくりと起上る蒲公英は、『草枕』の主人公が山路に踏むのと、大体において相似た趣を発揮するもののようである。

 子規居士は「吾幼時の美感」の中で、「蒲公英などちひさく黃なる花は總て心行かず、只ゲンゲンの花を類ひなき物に思へり」といっている。それでは蒲公英の句がないかというと、決してそんなことはない。

[やぶちゃん注:「吾幼時の美感」『ホトトギス』第二巻第三号(明治三一(一八九三)年十二月十日)に掲載された。「青空文庫」ので全文が読める。引用部は正字化した。]

 

 蒲公英の垣根とばかり上根岸   子規

 道古(ふ)りて蒲公英開く砦(とりで)かな

                 同

 蒲公英やローンテニスの線の外  同

 蒲公英に描きそへたる軋土筆かな 同

 蒲公英に人の參らぬ地藏かな   同

 蒲公英の小路左へ分れけり    同

 馬借りて蒲公英多き野を過る   同

 蒲公英や紀念碑を彫る路の端   同

 蒲公英に砲臺古りし岬かな    同

 名を埋む野邊や蒲公英一杯の土  同

 蒲公英や釣鐘一つ寺の跡     同

 蒲公英に胡粉(ごふん)こぼすや土細工

                 同

 蒲公英やボール轉(ころ)げて通りけり

                 同

 剝製の雉蒲公英の造り花     同

 蒲公英や細工にすべき花の形   同

 

 明治以後は知らず、子規居士以前の俳人で、これほど蒲公英の句を詠んだ人は恐らくあるまいと思われる。蒲公英の花なるものは、いくらじっと睨(にら)んだところで、そう多くの詩材になるべき余地はないが、居士は種々の配合物を持って来て縦横の変化を試みたのである。その配合物の中にはローンテニス、紀念碑、砲台、ボール、剝製の雉等の如く、明治時代を俟(ま)たなければ存在せぬものがある。ローンテニスの白い線の外に蒲公英が咲いていたり、蒲公英の傍をボールが転げて通ったりする微細な趣は、学生時代に運動家であった居士の一面を語ると共に、俳諧における新趣味を示すものでなければならぬ。蒲公英は明治の新趣味を俟ってその詩境を拡大し得たというべきであろう。

[やぶちゃん注:個人的には子規の句をいいと思うことはあまりないが、この中の「名を埋む野邊や蒲公英一杯の土」には強く惹かれる。

「ローンテニス」lawn tennis。イギリスでの初期のテニスの正式な名称。“lawn”は「芝生」で、当時、芝生のコートで行われたことに由来する。]

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