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2017/11/27

柴田宵曲 俳諧博物誌(10) 鯛 二 / 鯛~了

  

       

 

 『荘子』の「秋水」の篇に「子は魚に非ず、安(いづくん)ぞ魚の樂しきを知らん」「子は我に非ず、安んぞ我が魚の樂しきを知らざるを知らん」という問答があるが、魚族とわれわれとの間には水と陸との隔りがある。ひとり魚の楽しきを知らぬばかりでなく、生きた魚と相見ることも、限られた種類の外は困難である。鯛の如きはわれわれの面前に現れる場合、己に幽明境を異にしていることが多い。生きて尾鰭を振る鯛を観察するには、鯛の浦に舟を泛べるか、あるいは水族館のガラス越に片影を窺うより仕方があるまい。古来の俳句を通覧して、生きた鯛を詠んだものが少いのはそのためである。

[やぶちゃん注:冒頭の「荘子(そうじ)」「秋水篇」の話は一般に「知魚楽」などという通称で知られる。原話は私が頗る愛するもので、教員時代には漢文でしばしば教材として用いたので、記憶している教え子諸君も多いであろう。

   *

莊子與惠子、遊於濠梁之上。莊子曰、「鯈魚出遊、從容。是魚樂也。」。惠子曰、「子非魚。安知魚之樂。」。莊子曰、「子非我。安知我不知魚之樂。」。惠子曰、「我非子。固不知子矣。子固非魚也。子之不知魚之樂、全。」。莊子曰、「請、循其本。子曰、『女、安知魚樂』云者、既已、知吾知之而問我。我、知之濠上也。」。

○やぶちゃんの書き下し文

 莊子、惠子と濠梁(がうりやう)の上(ほと)りに遊ぶ。

 莊子曰く、

「鯈魚(いうぎよ)出でて遊び、從容(しようよう)たり。是れ、魚(うを)の樂しむなり。」

と。

 惠子曰く、

「子は魚に非ず。安(いづく)んぞ魚の樂しむを知らん。

」と。

 莊子曰く、

「子は我に非ず。安んぞ我の魚の樂しむを知らざるを知らん。」

と。

 惠子曰く、

「我は子に非ず。固(もと)より子を知らず。子は固より魚に非ざるなり。子の魚の樂しむを知らざるは、全(まった)し。」

と。

 莊子曰く、

「請ふ、其の本(もと)に循(したが)はん。子曰はく、『女(なんぢ)、安んぞ魚の樂しむを知らん』と云ふは、既已(すでにすで)に、吾の之(これ)を知れるを知りて我に問ひしなり。我、之を濠の上りに知れり。」

と。

   *

私の「橋上 萩原朔太郎」の注で、上記原文・訓読に加えてオリジナルの語注と私の現代語訳を掲げてあるので是非、参照されたい。

「鯛の浦」老婆心乍ら、千葉県鴨川市小湊の内浦湾(狭義には同湾東部にある小湊港奥の史跡観光呼称)及び同湾の南東に伸び出る入道ヶ崎にかけての沿岸部の一部海域の通称広称名で、正式な広域の海辺域呼称は「妙の浦」。ここ(グーグル・マップ・データ)。小湊は日蓮の生誕地(実際の誕生地である片海(かたうみ)は近世の二度の大地震による陥没によって海中に没している)で、小湊港奥直近には日蓮宗大本山小湊山誕生寺(建治二(一二七六)年に日家が生家跡に建立、後に現在地に移転)がある。日蓮が誕生した折り(貞応元(一二二二)年二月十六日)、海面に大小の鯛が群れ集(つど)ったという伝承から、この海域を「鯛の浦」と名づけ、漁を禁じたことに由来するとされ、他にも、立宗後の日蓮が、両親の供養に小舟で訪れた際、海に題目を唱えたところ、海面に題目の文字が現われ、そこに現れた鯛の群れがその題目を食べ尽くしたという話が伝わる、日蓮宗のメッカである。但し、現在の史跡としての鯛の浦は元禄地震(元禄十六年十一月二十三日(一七〇三年十二月三十一日)の際の陥没、激しく複雑な海岸地形の変形によって、当時の誕生寺前庭は海中に没したほか、現在の鯛の浦もその時に現出したとされ、各種の超自然の奇瑞譚もその後に場所と照合的に形成されたものであろうと思われる。私は遠い五十三年の昔、七つの時、父の祖母(同時に母の叔母。私の両親は従兄妹である)と父母と一度だけ訪れたことがある。船端を叩くと、綺麗なマダイが海中を舞い踊りながら、何匹も上っては投げた餌を食べ、潜って行った。小学校二年生の私はそれをまことに不思議な思いで見た。今でもその瞬間を、昨日のことのように動画で鮮やかに出せるのである。亡き母との楽しかった旅の思い出として私の忘れ得ぬ思い出である。因みに、鯛の浦でマダイが群れる理由は現在でも科学的に解明されていないことも言い添えておこう。]

 

 鯛はねて難波(なには)の冬のあたゝかさ 一禮

 

という句の場合は、慥(たしか)に生きているに相違ないが、この鯛は沙上のものになつているので、人間の眼に快く感ぜられるほど、清澄に跳ねている次第ではない。

 

   遠浦の獵船押送りして此橋の下に入(いる)

 帆をかぶる鯛のさわぎや薰(かほ)る風  其角

 

 この句は已に市井に近づいているにかかわらず、頗る珍しい場合を捉えたもので、遠い浦々から活きたまま鯛を船で運んで来る、橋のところへ来て帆を倒すと、舟底の鯛どもは一斉に驚き騒ぐ、というような意であろう。こういう特別な世界を描くことは余人の追随を許さぬ、正に其角の擅場(せんじょう)である。折からの薫風と相俟(あいま)って、舟底の鯛とは思われぬ爽快の趣を具えている。

[やぶちゃん注:「擅場」「擅」(セン:漢音)は「恣(ほしいま)ま独り占めにする。勝手気儘にするの意で、その人だけが思うままに振る舞うことが出来る場所・場面・世界。一人舞台の意の「独擅場(どくせんじょう)」に同じい。言わずもがなであるが、「どくだんじょう」は「擅」を「壇」に見誤った誤った慣用読み。]

 

   あまの子共の魚ぬすむを

 ふところに小鯛つめたし網子(あご)の聲 龜翁

   春眠不覺曉

 春の泊鯛呼(よぶ)聲や濱のかた     几董

 

 いまだ市人の手に落ちぬ、海浜の鯛を描いた点で、これらも異色ある句の中に算えられなければなるまい。

 交通機関の発達せぬ時代にあっては、活きた鯛の姿が見られぬどころの話でない。新しい鯛を口にし得ぬ地方も少くなかったであろう。塩鯛の句の多いことはこれを証する。

 

 鹽鯛や餘花の膳部の一はづみ       車庸

 紙鹽(かみしほ)の鯛や今朝(けさ)吹(ふく)秋の風

                     汀蘆

 鹽鯛の天窓(あたま)ならべてとし暮(くれ)ぬ

                     芙蓉花

 鹿聞(しかきき)の炙るや鯛の一夜鹽   嘯山

 鹽鯛の鹽ぬけてよりきくの花       成美

 鹽鯛もむかしの沖津五月雨(さつきあめ) 星山

 鹽鯛の味も香もなし氷餠         流沙

   伊勢の便を得て

 鹽鯛よ二見の浦のしぐるゝか       口遊

 

 この中で嘯山の句だけは、山家へ鹿の声を聞きに行くに当り、臨時に鯛を一塩にして携帯するのだから別である。他は句を通して見ても、更に食欲を刺激するものがない。

[やぶちゃん注:「紙鹽」「かみじほ(かみじお)」とも読む。魚や貝の身を和紙に挟んで、塩を載せ、それに水を振りかけて、軽く塩味をつける調味法を指す。

「鹿聞」鹿の啼き声を聞く風流の物見遊山。あまり聞き慣れないが、「鹿」は秋の季語であるから、これも同格。]

 人間の手に落ちた鯛は先ず市店に現れ、次いで庖厨(ほうちゅう)のものとなる。

 

   粟ケ崎の漁家にて

 わすれめや胡葱(ひげねぎ)膾(なます)浦小鯛

                     牧笛

 

の如きは、市店を経ずして食膳に上る場合で、先ず番外と見なければならぬ。

[やぶちゃん注:「粟ケ崎」いろいろの情報を管見から、河北潟の南、現在の石川県河北郡内灘町向粟崎(むかいあわがさき)の海浜方面にある内灘海岸(現在の住所は内灘町千鳥台)附近と推定しておく。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 齒朶(しだ)の葉に見よ包尾(つつみを)の鯛のそり

                     耕雪

 春雨や小桶(こをけ)にかつぐかす小鯛  白雄

 包尾の鯛のどかなる都かな        輦之(れんし)

 市にふる鯛の尾かれて秋の風       曉臺

   天滿宮にまうでの道あさ市にたつ人の聲

   いそがしくをのがさまざま求めていぬ、

   あのつともそのいをにや

 買はれ行(ゆく)鯛は何處(いづこ)のとしわすれ

                     園女

 

 朝市に買う園女の鯛が最も新鮮なような感じがする。

 庖厨の作業としては、

 

 鯛を切(きる)鈍きはものや桃の宿   几董

 我櫻鯛裂く枇杷の廣葉かな       秋風

 

の如き、いずれも市中の趣を遠ざかっているが、鯛を料理する場合に著しいものは鱗である。

[やぶちゃん注:秋風の句は読みと意味が判らぬ。初句の切れからから考えると「わがさくら」であるが、それでは切れが致命的で桜と桜色の鯛の二景としても下の続きようが致命的にぎこちなく、「さく」を「咲く」の洒落として掛けているとしても凡そ下びて不快以外のなにものでもない。それでは「櫻鯛」という名詞(桜の花盛りの頃に産卵のため、内湾の浅瀬に群集する鯛を、特に瀬戸内海沿岸地方で称する語で、「花見鯛」とも言い、春の季語ではある)で採るなら「われさくら/だひ(たひ)さくびはの//ひろはかな」では如何にも句切れが気持ち悪い。他の読みや解釈があるなら、御教授願いたい。]

 

 咲く花を眞向(まつかう)にこくや鯛の鱗(こけ)

                    三枝

 茸狩(きのこがり)や鯛の鱗にかたつぶり

                    嘯山

 散(ちる)時は鯛もさくらも鱗かな   箕十(きじふ)

   酒店

 簾戸(すだれど)に鯛のこけちる春日かな

                    白雄

 

 嘯山はまた一ひねりひねって、茸狩の人のこぼす鯛の鱗に、蝸牛が寄るという奇抜な趣を持出した。この句は内容において、前に引いた「鹿聞」の句と共通するものを持っている。

[やぶちゃん注:「こく」「扱く」。強く擦(こす)る。]

 食膳の消息は

 

 きくのかや鯛はにごさぬ椀(わん)の内 涼菟

 古(ふる)されし鯛の目覺す花柚(はなゆ)かな

                    許國

 鯛の汁喰うて出たれば月かすむ     成美

 

位のもので、特筆に値せぬが、この外に

 

 梅が香にはづんで反(そる)や折の鯛  臥高

 重箱に鯛おしまげて花見かな      成美

 

の如き場合のあることを一顧する必要がある。

[やぶちゃん注:「花柚(はなゆ)」私の注で既出既注であるが、再掲しておく。ユズ(ムクロジ目ミカン科ミカン属ユズ Citrus junos)の一種で実は小さい。香りがよく、花や皮を酒や吸い物に入れて用いる。僅かに紫色を帯びた白い五弁花を初夏に咲かせ、俳諧では夏(陰暦四月)の季語とする。

 要するに鯛は

 

 櫻さく伊勢路は鯛もさかりかな     作者不知

 寺の男鯛喰(くひ)に出る櫻かな    竹戸

 世はさくら門は鯛賣(うる)日和かな  白雄

 初雪やおもひもよらぬ鯛を買(かひ)  三屋(さんをく)

 初雪やみそ漬の鯛もちたるぞ      晩得

 

 花にも雪にも欠くべからざる肴ではあるが、特に鯛のために挙げなければならぬのは恵比須講(えびすこう)であろう。恵比須講に鯛を用いるのは、恵比須様との因縁以外に何があるか、歳時記には別に記されていない。

[やぶちゃん注:「恵比須講」「恵比須」(表記は「夷」「戎」「胡」「蛭子」「蝦夷」「恵比寿」「恵美須」など多様で、読みも「えびっさん」「えべっさん」「おべっさん」などとも呼称される)は純粋な日本古来の神で、現在では七福神(他六神は外来移入神)の一神として殆んど唯一の福の神として信仰される神であり、同時に古くから漁業の神でもあり、後に「留守神(るすがみ)」(出雲に神が集う十月に留守番をする神)や商売の神ともされるようになった。「えびす」神は複数存在するが、その主たる起源は、伊耶那岐(いさなき)・伊耶那美(いさなみ)の最初の子で奇形児であった蛭子(ひるこ)か、或いは、本来の国神である大国主(大黒)の子である事代主(ことしろぬし)とされることが多い。他にも大国主の国産み神話で協力をする矮小の智神(私は蛭子と全く同一の神と考えている)少彦名(すくなびこな)や、木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)の産んだ火の神の末子彦火火出見(ひこほほでみ)とすることもある(一説にはこれも外来の神とする説もある。それは当てた漢字の「戎」や「夷」が「異邦の輩」を意味する語であることによるが、これは本末転倒の妄説だと私は思う。ここまでは一部でウィキの「えびす」を参考にした)。以下、小学館「日本大百科全書」から引く。『夷講、恵比須講、恵美須講などと書く。えびす神を祭る行事であるが、えびす神の信仰を受け入れるにあたって、商家においては、同業集団の組織と結び付いてえびす講中をつくり、一方農村では、地域集団の祭祀』『組織に結び付いたものと、年中行事的な各戸の行事として受け止めた所とがあり、それらが相互に混在し重複している。期日は旧暦』十月二十日が『一般である。旧暦』十『月は神無月』『といわれ、全国の神々が出雲』『へ集合するという伝承が、広く行き渡っている。したがってその期間は神々が不在になるはずで、神祭りも行われない。そこで』十月二十日の『えびす神の祭りを正当化するために、「夷様の中通(なかがよ)い」などといって、えびす講の前後だけ出雲から帰ってくるのだと』言『ったり、えびす様と金毘羅』様(祭日は十月十日)だけは留守神だから、『出雲へ行かないのだと説明している。えびす講を』十一月二十日に『する例もあり、年の市(いち)と結び付いて』十二月二十日に『する所もある。農村では』、十月と一月の二十日を『対置させてともに祝い、えびす様が稼ぎに行く日と帰る日だなどと説明する所が多い。えびす講の日は、神棚に一升枡(ます)をあげ、中に銭や財布を入れて福運を願い、あるいは東北から中部にかけての広い地域では、フナなどの生きた魚を水鉢に入れてえびす神に供えたり、またこの魚を井戸の中に放したりする』とある。]

 

 まづ鯛と筆を立けり惠美須講      史邦(ふみくに)

 めで鯛の古いで持や惠美須講      白雪

 鯛の跡へ亭主の出るや惠比須講     孟遠

 夜をこめて鯛のそらねや夷講(ゑびすかう)

                    米翁

 鯛喰ふて我も肥(こえ)けり戎講(ゑびすかう)

蘆錐

 

 「めで鯛」という洒落が元禄からあるのは少々意外であった。「夜をこめて」の句は恵比須講に際して、鯛の値の騰(あが)ることを示している。「夜をこめてとりのそらねははかるとも」という清少納言の歌を利かしているのはいうまでもないが、鳴雪翁は更にそれから脱化して「夜をこめて柿のそら価や本門寺」と御会式の世界に持って行った。こういう句も、こういう脱化の興味も、今や全く地を払おうとしている。

[やぶちゃん注:「夜をこめてとりのそらねははかるとも」清少納言の「百人一首」の第六十二番歌で知られる「後拾遺和歌集」の「巻十六」の雑に載る(九四〇番歌)、

 

 夜をこめて鳥の空音(そらね)は謀(はか)るともよに逢坂(あふさか)の關は許さじ

 

を指す。

「鳴雪」内藤鳴雪(めいせつ 弘化四(一八四七)年~大正一五(一九二六)年)は元伊予松山藩藩士、後に明治政府の官吏で俳人。本名は師克(もろかつ)、後に素行(もとゆき)と改名した。俳号鳴雪は訓の「なりゆき」で「何事も成行きに任す」の当て字という。ウィキの「内藤鳴雪によれば、『伊予松山藩の上級武士内藤房之進と八十(やそ)の長男として、藩の江戸中屋敷に生まれ』、八『歳のときから父に漢籍を教わり、また、草双紙類を好み、寄席や義太夫も知った。なお、同時期に小使として出仕していた原田左之助(後の新撰組幹部で十番隊隊長。当時』十五、六歳)『と会っており、遊んで貰った事もあった』。安政四(一八五七)年、『父の転勤で一家の故郷松山に移り、藩校明教館で漢学を学び、また、剣術も習ったが』、「武」より「文」に優れたという。文久三(一八六三)年十七歳の時、『元服して師克を名乗り、幹部の卵として明教館に寄宿し、大原武右衛門(正岡子規の母方の祖父)に漢詩を学んだ』。翌年、『藩主の嗣子松平定昭の小姓となり、翌年の第二次長州征伐に従っ』ている。慶応三(一八六七)年、『隠居した前藩主松平勝成の側付とな』り『(春日)チカを娶』る。同年、命ぜられて『京都の水本保太郎の塾に学び、翌年』、『水本の転勤に従って東京の昌平坂学問所へ入寮した』明治元(一八六九)年、『松山に戻り、翌年から権少参事として明教館の学則改革に携わった』。明治一三(一八八〇)年三十三歳の時、『文部省へ転じ』、『累進して』『書記官・往復課長』・寄宿舎舎監(東京に学ぶ松山の子弟のための常磐会という寄宿寮)・『参事官兼普通学務局勤務』を勤め、明治二四(一八九一)年に退官したが、寄宿舎監督は続けた。『寄宿生の、正岡子規・竹村黄塔・その弟の河東碧梧桐・五百木瓢亭・勝田主計らに、漢詩の添削をしてやった』りしたが、翌明治二五(一八九二)年四十五歳の時、二十一も年下の子規の俳句の弟子となった

「本門寺」「御会式」東京都大田区池上にある日蓮宗大本山長栄山池上本門寺で、日蓮の命日陰暦十月十三日にあわせて行われる法要。]

 

 人麻呂に鯛もあれかし若惠比壽   巢兆

 

というのは正月の一句で、恵比須講に直接関係はないが、序を以てここに挙げて置く。

 

 鯛ねがふ坊主に見せな葱の花    句空

 

これは「醬酢爾蒜都伎合而鯛願吾爾勿所見水葱乃煮物」という『万葉』十六の歌から脱化している。「鯛願」は文字通り「タイネガウ」と訓んだ書物もあったと記憶する。但ここに肉食を許されぬ坊主を点出し、葱の花で春の季にしたのは例の俳語手段である。

[やぶちゃん注:「醬酢爾蒜都伎合而鯛願吾爾勿所見水葱乃煮物」は底本にルビで訓じられてあるが、訓読文で以下に示す。「万葉集」の「巻第十六」の「由緣ある雜歌(ざふか)」の中の一首。

 

   酢・醬(ひしほ)・蒜(ひる)・鯛・水葱(なぎ)を詠める歌

 醬(ひしほ)酢に蒜(ひる)搗(つ)き合(か)てて鯛願ふ我れにな見えそ水葱(なぎ)の羹(あつもの)

 

「醬」は小麦と大豆を煎った麹(こうじ)に塩水を加えて作った調味料。醬油の醪(もろみ)のような製品。「蒜」は野蒜(単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ亜科 Allieae連ネギ属ノビル Allium macrostemon)。末句で禁じているのは、そこまで述べた調理法による美食に対し、下賤な水葱(水葵(単子葉植物綱ツユクサ目ミズアオイ科ミズアオイ属ミズアオイ Monochoria korsakowii。「万葉集」では求愛の歌に詠み込まれるなど、親しまれ、青紫色の花を染料に利用したほか、若芽や若葉を塩茹でにして流水によく晒し、汁物・煮物・和え物に用いた。))の熱い吸い物を「見せるな、忌まわしい」という意である。なお、底本では「鯛願」を「たいもが」と訓じていて、それで宵曲は本文でかく言っているのである。]

 

   嵐梅亭より鮮肴(せんかう)をおくられけるに

 魚は鯛すみ家はさぞなむめの花   野坡

 

 鯛の讃美者はなかなか多い。「腐っても鯛」という諺を取入れた句すらある。

 

 くさつても鯛で見しらす祭かな   寄芬(きふん)

 腐つても鯛遲うても櫻かな     嘯山

 

 しかしその一面には

 

 河豚汁(ふくとじる)鯛は凡にてましましける

                  召波

   貪閑

 何よけん鯛はいや也(なり)春の雨 几董

 

の如く、鯛を軽んずる風をも生じている。

[やぶちゃん注:「貪閑」は「どんかん」と読むか。私は見たことがない語である。「閑寂清貧を貪る」の謂いか。]

 

 芭蕉忌や鯛喰(くひ)あきし人の果 晩得

 

などというのは、いずれ贅沢を尽した人の末路であろうから、一般の例にはならぬが、他の魚と比較して鯛を蔑視した句も多少はある。

[やぶちゃん注:「芭蕉忌」芭蕉は元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)に没した。死の直接の主因は劇症型の下痢症状であったが、詳しい死因(推定)に興味のある方は私が四年前に書いた記事旅に病んで夢は枯野をかけ𢌞る 芭蕉 ――本日期日限定の膽(キモ)のブログ記事――319年前の明日未明に詠まれたあの句――を参照されたい。そこにも記してあるが、芭蕉はそれ以前から内臓の不調を訴えており、大坂で饗応される食べ慣れない山海珍味を食し過ぎ、さらに状態を悪化させたことは確かであるから、この句の「鯛喰(くひ)あきし人の果」とは芭蕉も含まれるとは言える。ただ寧ろ、徳川家康が大の鯛好きであったこと、身の硬い鯛のつけ揚げ(てんぷら)の食い過ぎで家康が死んだ事実は江戸時代、広く知られていたから、晩得は或いは、江戸の権現様家康に芭蕉を重ねて匂わせたものかも知れぬ。]

 

 行く春や鰺にうつろふ鯛の味   大江丸

 ゆふぐれは鯛にかちたる小鰺かな 蓼太

 幸替(さちかひ)や鯛はすがれて先ヅ鰹

                 東水

 

 これらは魚の種類よりも旬(しゅん)を重ずる、味覚本位の取捨であるらしい。「鯛の味あれて牡丹のさかりかな」の句の条に一言したように、鯛の味は暮春には已にうつろうので、

 

 葛西(かさい)へも鯛落ぶれて行(ゆく)春ぞ

                 素丸(そまる)

 鯛の目にほこりかゝりて春は行  砂文

 

ということになつている。夏は

 

 下下(しもじも)も鯛やく朝ぞ更衣(ころもがへ)

                 常雪

 

から、

 

 あつき日の都や鯛の恥さらし   几董

 

に至って下落の極に達する。秋は最も鯛に因縁の乏しい季節だから、冬の声を聞いてはじめて

 

 十月や鯛もさくらも歸華(かへりばな) 昇角

 

という順序になるのであろう。

[やぶちゃん注:「葛西」武蔵国葛飾郡の江戸湾湾奥の臨海地帯を指していよう。だいたい現在の隅田川河口の右岸辺りから、荒川河口を経て、江戸川左岸域までと考えてよかろう。現在の東京湾の最奥部に当たる。
 
幸替」互いに獲物や獲物を獲る道具を交換すること。

 鯛の句はまだいろいろあるが、あまり久しく市井の間を徘徊したから、もう一度海に還って終ることにしたい。

 

 初神や鯛うき上る沖のそら       雲五

 春の海鯛の腸(はらわた)ながしけり  笙洲

 鳴門さす鯛もあらうぞ春の月      晴江

 苦汐(にがしほ)に鯛も浮木や秋の海  大町

 名月や水のこがねの籞鯛(いけすだひ) 完二

 短夜(みじかよ)を籞の鯛の命かな   月巢

 

 「初神」は初雪の意であろう。この方は生死に関係あるまいと思うが、苦汐の襲来は致命的である。春の海に腸を流すのは、舟の上で料理する場合に相違ない。「籞」はイケスである。人に囚われた生簀の中に残喘(ざんぜん)を保っているのも、はかないといえばはかないが、一寸の命のある間はなお一寸の世界がある。人のこの世にあるのもほぼ同じものだなどと、余計な理窟は列べない方がよかろう。

[やぶちゃん注:「初神」全く知らぬが(小学館の「日本国語大辞典」にも載らない)、宵曲の意で腑に落ちる。

「苦汐」赤潮のこと。極端に酸素量の少ない貧酸素水塊が海面に浮上して生ずる現象。機序には多くの原因や複雑な生成過程があるが、基本的には富栄養化した海で大量のプランクトンが発生して死滅すると、その死骸が海底に堆積、それが短時間で分解される際に水中の酸素が激しく消費されることで生じ、それが一気に浮上することで認知されることが多い。水が赤く染まることが多いことからかく呼称されるが、水の色は原因となるプランクトンの色素によってかなり異なるが、赤潮の発生主因の起原プランクトン類の多くが色素として、クロロフィルの他に種々の赤色系色素としてのカロテノイドを持つ場合が多いことに拠る。有意な大きさのこれが出現すると、BODBiochemical oxygen demand:生物化学的酸素要求量)が極端に低下し、魚介類や海藻の棲息や繁殖を妨げ、しばしば致命的な限定的生態系破壊を引き起こす。

「人に囚われた生簀の中に残喘(ざんぜん)を保っているのも、はかないといえばはかないが、一寸の命のある間はなお一寸の世界がある。人のこの世にあるのもほぼ同じものだなどと、余計な理窟は列べない方がよかろう」こういう禅語染みた言わずもがなのことを言いたてておいて、最後に謂わぬが「よかろう」と敢えて言い立てる悪趣味は、私が最も生理的に嫌悪するものであることを言わずもがな乍ら、言い添えておく。]

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