老媼茶話巻之五 播州姫路城
播州姫路城
姫路の城主松平大和守義俊の兒小姓(ちごこしやう)森田圖書(ずしよ)、十四才の時、傍輩(はうばい)とかけをなし、ぼんぼりを燈し、よる、天守の七階目へ上るに、三拾四、五の、いかにもけだかき女、十弐一重(じふにひとへ)を着て、燈(ともしび)の元に、机へ向ひ、書(ふみ)を讀居(よみゐ)たりけるが、圖書を見て、
「汝、何故に來るぞ。」
と、いふ。
圖書、手を突(つき)て、
「傍輩とかけをいたし、此所へ參り候。」
と、いふ。
女、
「然らば、印(しるし)をとらするぞ。」
と、甲(かぶと)のしころを呉(くる)る。
圖書、是をいただき、おりけるに、天守の三階目の後ろより、大入道、圖書が肩より、のぞき、ぼんぼりの火を吹消(ふきけし)て失(うせ)たり。
圖書、又、取(とり)て歸(かへ)し、天守へ上るに、女、いつものごとく有(あり)て、
「何、又、何故(なにゆゑ)に來(きた)るぞ。」
と、いふ。
圖書、申樣(まうすやう)、
「天守の三階目へ下り候に、大入道、後(うしろ)より火を吹消(ふきけし)候まゝ、闇(くら)くして、下へおりわづらい、火を燈(ともし)にまいり候。」
と云(いふ)。
女、聞(きき)て、
「實(まこと)に汝は、けなげもの也。」
とて、ほんぼりへ、火をつけてくるゝ。
圖書、天守より下り、殿の御前へ出(いで)、件(くだん)の事を物語して、甲のしころを取出(とりいだ)す。
大和守、見玉ふに、我(わが)召料(めしりやう)の鎧のしころなりしかば、急ぎ、納戸(なんど)のものを召(めし)、鎧櫃(よろひびつ)を取出(とりいだ)し、見玉ふに、
「しころはなくして、鉢斗(ばかり)有りし。」
と、いへり。
此もの語りは、姫路の當御城主に仕へる士の咄(はなし)也。
森田圖書、今、士大將(さむらひだいしやう)と成(なり)けると也。
[やぶちゃん注:お馴染み、姫路城の女怪長壁姫(おさかべひめ)の登場である。本書では既に「巻之三 猪苗代の城化物」で名が先行登場している。同工異曲でこれよりも上手く出来ているのは「諸國百物語卷之三 十一はりまの國池田三左衞門殿わづらひの事」や「諸國百物語卷之五 四 播州姫路の城ばけ物の事」であろう。参照されたい(孰れも私の電子テクスト。注附き)。
「松平大和守義俊」恐らくは作者(三坂春編は元禄一七・宝永元(一七〇四)年(?)頃の生まれで明和二(一七六五)年没)と同時代の姫路藩藩主松平明矩(正徳参(一七一三)年~寛延元(一七四九)年)を憚って変名を用いたものであろう。彼は寛保元(一七四一)年に白河藩主から姫路藩主へと国替となっている。享保一四(一七二九)年に従四位下大和守を賜っており、彼は初名を松平義知と言ったからである。
「森田圖書」不詳。「圖書」は元来は宮中の中務(なかつかさ) 省に属した図書寮(ずしょりょう:書籍・経典や紙・筆・墨などの管理・供給を担当し、また、国史編纂など を掌った役所の略官名。無論、ここは通称に過ぎぬ。
「かけ」「賭」。ありがちな肝試しのそれ。
「ぼんぼり」「雪洞」。灯火具の一種。「ぼんぼり」は「ほんのり」という語の転訛で、灯火を紙や布の火袋(ほぶくろ)で蔽い、火影のほのかに透いて定かならぬのを由来としたとされる。当初、「ぼんぼり」は広く灯火・茶炉(さろ)などに取り附けた蔽いそのものを指したが、その後、小型の行灯(あんどん)を言うようになり、後には、専ら、紙・布などを張った火袋を取り附けた手燭(てしょく)又は燭台を呼ぶようになった。手燭や燭台は蠟燭を用いる灯火具で、通常は灯台のように裸火を点したが、その炎が風のために揺り動かされ、吹き消されたりするのを防ぐためと、失火の虞れを避けるため、行灯のようにこれに火袋を取りつけた「雪洞」が考案されたという。以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った。
「いかにもけだかき女」「如何にも氣高き女」。
「書(ふみ)」読みは底本に従った。
「しころ」「錣」。兜 (かぶと)の鉢の左右と後方に附けて垂らし、首から襟の防御とする武具。多くは木製の札(さね) 或いは鉄板を三段乃至(ないし)五段下(さが)りと成して縅し附けた。
「いつものごとく」さっきと同じ様子で。
「わづらい」ママ。「煩ひ」。不如意となり。
「けなげもの」「健氣者」。愛(う)い奴。
「召料(めしりやう)」これは誰からか戴いたというのではなくて、単に「貴人が使う物」の意。
「納戸(なんど)のもの」御納戸役。主君の衣類調度を管理し、誰かからの献上品や主君自身が賜うのに用いる金銀諸物に関する事務を担当した。
「士大將(さむらひだいしやう)」物頭。この場合は、家老の下で実際の軍兵を統括管理指揮する実務パートの最高責任者で、弓組・鉄砲組などの足軽の各組頭の総指揮官ととってよかろう。]