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2017/11/08

江戸川乱歩 孤島の鬼(2) 思い出の一夜

 

   思い出の一夜

 

 当時私は二十五歳の青年で、丸の内のあるビルディングにオフィスを持つ貿易商、合資会社S・K商会のクラークを勤めていた。実際は、わずかばかりの月給など、ほとんど私自身のお小遣になってしまうのだが、といってW実業学校を出た私を、それ以上の学校へ上げてくれるほど、私の家は豊かではなかったのだ。

[やぶちゃん注:「クラーク」Clerk。事務員。

「W実業学校」早稲田実業学校っぽい。江戸川乱歩(明治二七(一八九四)年~昭和四〇(一九六五)年:本名・平井太郎/死因・脳出血)は三重県名賀郡名張町(現在の名張市)生まれで、郡役所の書記(出生当時)平井茂男の長男であった。父は後に販売自営業に転職したが、乱歩が中学を卒業した満十八歳(明治四五(一九一二)年)の時、破産乱歩は希望していた第八高等学校(現在の名古屋大学の前身)への進学を断念、一家は朝鮮馬山に移住した。しかし、向学の志の篤かった乱歩は、単身、帰国上京、本郷湯島天神町の印刷業雲山堂に活版工見習いとして住み込む一方、早稲田大学予科二年の編入試験に合格、翌大正二(一九一三)年八月には早稲田大学政治経済学部に入学している。大正五(一九一六)年に同大を卒業(満二十二歳)後は、渡米の望みを断ち、大阪の貿易商社「加藤洋行」の社員として住込就職したが、一年と持たず、その後は職業を転々としている。次の段落に語られる文芸・芸術趣味も併せて、この主人公(後で出るが、姓を「蓑浦(みのうら)」という)はある面で乱歩の分身であることが判る。以上の乱歩の事蹟はアイナット氏の個人サイト「乱歩の世界」の「乱歩年表」に拠った。事実、後で主人公が勤務する貿易商社ビルから自分の住まいを示す方向の地名として「早稲田」が出る。]

 二十一歳から勤め出して、私はその春で丸四年勤続したわけであった。受持ちの仕事は会計の帳簿の一部分で、朝から夕方まで、パチパチ算盤玉(そろばんだま)をはじいていればよいのであったが、実業学校なんかやったくせに、小説や絵や芝居や映画がひどく好きで、一ぱし芸術がわかるつもりでいた私は、機械みたいなこの勤務を、ほかの店員たちよりも、一層いやに思っていたことは事実であった。同僚たちは、夜な夜なカフェ廻りをやったり、ダンス場へ通よったり、そうでないのは暇さえあればスポーツの話ばかりしているといった、派手で勇敢で現実的な人々が大部分であったから、空想好きで内気者の私には、四年もいたのだけれど、ほんとうの友だちは一人もないといってよかった。それがひときわ私のオフィス勤めを味気ないものにしていたのだった。

 ところが、その半年ばかり前からというものは、私は朝々の出勤を今までほどいやに思わぬようになっていた。というのは、その頃十八歳の木崎初代が、はじめて見習いタイピストとしてS・K商会の人となったからである。木崎初代は、私が生れるときから胸に描いていたような女であった。色は憂欝な白さで、といって不健康な感じではなく、からだは鯨骨(くじらぼね)のようにしなやかで弾力に富み、といってアラビヤ馬みたいに勇壮なのではなく、女にしては高く白い額に、左右不揃いな眉が不可思議な魅力をたたえ、切れの長い一かわ眼に微妙な謎を宿し、高からぬ鼻と薄過ぎぬ唇が、小さい顎を持ったしまった頰の上に浮彫りされ、鼻と上唇のあいだが人並みよりは狭くて、その上唇が上方にややめくれ上がった形をしている、と、細かに書いてしまうと、一向初代らしい感じがしないのだが、彼女は大体そのように、一般の美人の標準にはずれた、その代りには、私だけには此上もない魅力を感じさせる種類の女性であった。

[やぶちゃん注:「アラビヤ馬」馬(哺乳綱奇蹄(ウマ)目ウマ科ウマ属ウマ Equus caballus)の品種の一つである「アラブ(種)」(ArabArabian) 。現存する馬の改良種の中で最初に確立した品種とされる。標準体高約一メートル五十センチメートル、同体重約四百キログラム。サラブレッドよりも小柄で華奢な体躯であり、速力もサラブレッドよりも劣るものの、耐候性・耐久性に優れる。成立ははっきりしないが、アラビア半島の遊牧民ベドウィンによって厳格な血統管理の下(もと)に改良が進められ、品種として確立した。伝承によれば、「ケヒレット・エル・アジュズ」(「老婦人の牝馬(めすうま)」の意)という♀の馬がアラブ種の根幹牝馬(ひんば)であるという。現行の「サラブレッド」はこの「アラブ」を元として、イギリスやその他の在来馬と掛け合わせて作られた品種である(以上はウィキの「アラブ種」に拠った)。

「一かわ眼」(ひとかわめ)で「一皮目」。「一重瞼 (ひとえまぶた) に同じい。]

 内気者の私はふと機会を失って、半年ものあいだ、彼女と言葉をかわさず、朝、顔を見合わせても目礼さえしない間柄であった(社貞の多いこのオフィスでは、仕事の共通なものや、特別に親しい者のほかは、朝の挨拶などもしないような習わしであった)。それが、どういう魔がさしたものか、ある日、私はふと彼女に声をかけたのである。後になって考えてみると、このことが、いや私の勤めているオフィスに彼女が入社してきたことすらが、まことに不思議なめぐり合わせであった。彼女と私とのあいだにかもされた恋のことをいうのではない。それよりも、そのとき彼女に声をかけたばっかりに、のちに私を、この物語にしるすような世にも恐ろしい出来事に導いた運命についていうのである。

 そのとき木崎初代は、自分で結(ゆ)ったらしいオールバックまがいの、恰好のいい頭を、タイプライターの上にうつむけて、藤色セルの仕事着の背中を、やや猫背にして、何か熱心にキイを叩いていた。

[やぶちゃん注:「セル」「セル地」のこと(但し、「地」は当て字)。「セル」はオランダ語“serge”の略で、布地の「セルジ」のこと(「セル地」という発音の偶然から「セル」と短縮された)。梳毛糸(そもうし:ウールをくしけずって長い繊維にし、それを綺麗に平行にそろえた糸)を使った、和服用の薄手の毛織物。サージ。]

 HIGUCHI HIGUCHI HIGUCHI HIGUCHI HIGUCHI HIGUCHI HIGUCHI HIGUCHI

 見ると、レターペーパーの上には、樋口(ひぐち)と読むのであろう、誰かの姓らしいものが、模様みたいにべッタリと並んでいた。

 私は「木崎さん、ご熱心ですね」とかなんとかいうつもりであったのだ。それが、内気者の常として、私はうろたえてしまって、愚かにもかなり頓狂な声で、

「樋口さん」

 と呼んでしまった。すると、響きに応じるように、木崎初代は私の方をふり向いて、

「なあに?」

 と至極落ちついて、だが、まるで小学生みたいなあどけない調子で答えたのである。彼女は樋口と呼ばれて少しも疑うところがないのだ。私は再びうろたえてしまった。木崎というのは私のとんでもない思い違いだったのかしら。彼女は彼女自身の姓を叩いていたにすぎないのかしら。この疑問は少しのあいだ私に羞恥を忘れさせ、私は思わず長い言葉をしゃべった。

「あなた、樋口さんていうの? 僕は木崎さんだとばかり思っていた」

 すると、彼女もまたハッとしたように、眼のふちを薄赤くして、いうのである。

「まあ、あたしうっかりして……木崎ですのよ」

「じゃあ、樋口っていうのは?」

 あなたのラヴ……といいかけて、びっくりして口をつぐんだ。

「なんでもないのよ……」

 そして木崎初代はあわてて、レターペーパーを器械からとりはずし、片手でもみくちゃにするのであった。

 私はなぜこんなつまらない会話をしるしたかというに、それには理由があるのだ。この会話が私たちのあいだに、もっと深い関係を作るきっかけをなしたという意味ばかりではない。彼女が叩いていた「樋口」という姓には、また彼女が樋口と呼ばれてなんの躊躇もなく返事をした事実には、実はこの物語の根本に関する大きな意味が含まれていたからである。

 この記事は、恋物語を書くのが主眼でもなく、そんなことで暇どるには余りに書くべき事柄が多いので、それからの、私と木崎初代との恋愛の進行については、ごくかいつまんでしるすにとどめるが、この偶然の会話を取りかわして以来、どちらが待ち合わせるともなく、私たちはちょくちょく帰りが一緒になるようになった。そして、エレベーターの中と、ビルディングから電車の停留所までと、電車にのってから彼女は巣鴨の方へ、私は早稲田の方へ、その乗換場所までの、僅かなあいだを、私は一日中の最も楽しい時間とするようになった。間もなく、私たちはだんだん大胆になって行った。帰宅を少しおくらせて、事務所に近い日比谷公園に立ち寄り、片隅のベンチに短い語らいの時間を作ることもあった。また、小川町の乗換場で降りて、その辺のみすぼらしいカフェにはいり、一杯ずつお茶を命じるようなこともあった。だが、うぶな私たちは、非常な勇気を出して、場末のホテルへはいって行くまでには、ほとんど半年もかかったほどであった。

[やぶちゃん注:「命じる」注文する。]

 私が淋しがっていたように、木崎初代も淋しがっていたのだ。お互いに勇敢なる現代人ではなかったのだ。そして、彼女の容貌が私の生れた時から胸に描いていたものであったように、嬉しいことには、私の容姿もまた彼女が生れた時から恋するところのものであったのだ。変なことをいうようだけれど、容貌については、私は以前からやや頼むところがあつた。諸戸道雄(もろとみちお)というのは矢張(やは)りこの物語に重要な役目を演ずる人物であって、彼は医科大学を卒業して、そこの研究室で或る奇妙な実験に従事している男であったが、その諸戸道雄が、彼は医学生であり、私は実業学校の生徒であったころから、この私に対して、かなり真剣な同性の恋愛を感じていたらしいのである。

 彼は私の知る限りにおいて、肉体的にも、精神的にも、最も高貴(ノーブル)な感じの美青年であり、私の方では決して彼に妙な愛着を感じているわけではないけれど、彼の気むずかしい選択にかなったかと思うと、少なくとも私は自分の外形について、いささかの自信を持ちうるように感じることもあったのである。だが、私と諸戸との関係については、後にしばしば述べる機会があるであろう。

 それはともかく、木崎初代との、あの場末のホテルにおいての最初の夜は、今もなお私の忘れかねるところのものであった。それはどこかのカフェで、そのとき私たちは駈落ち者のような、いやに涙っぽく、やけな気持になっていたのだが、私は口なれぬウィスキーをグラスに三つも重ねるし、初代も甘いカクテルを二杯ばかりもやって、二人ともまっ赤になって、やや、正気を失った形で、それゆえ、たいした羞恥を感じることもなく、そのホテルのフロントに立つことができたのであった。私たちは巾の広いベッドを置いた、壁紙にしみのあるようないやに陰気な部屋に通された。ボーイが一隅の卓(テーブル)の上にドアの鍵と渋茶とを置いてだまって出て行ったとき、私たちは突然、非常な驚きの眼を見かわした。初代は見かけの弱々しい割には、心(しん)にしっかりしたところのある娘であったが、それでも、酔いのさめた青ざめた顔をして、ワナワナと唇の色をなくしていた。

「君、怖いの?」

 私は私自身の恐怖をまぎらすために、そんなことをささやいた。彼女は黙って、眼をつぶるようにして、見えぬほど首を左右に動かした。だが、いうまでもなく彼女は怖がっているのだった。

 それはまことに変てこな、気まずい場面であった。二人ともまさかこんなふうになろうとは予期していなかった。もっとさりげなく、世のおとなたちのように、最初の夜を楽しむことができるものと信じていた。それが、そのときの私たちには、ベッドの上に横になる勇気さえなかったのだ。着物を脱いで肌をあらわすことなど思いも及ばなかった。一と口にいえば、私たちは非常な焦慮を感じながら、すでにたびたび交わしていた唇をさえ交わすことなく、むろんそのほかの何事をもしないで、ベッドの上に並んで腰をかけ、気まずさをごまかすために、ぎごちなく両足をブラブラさせながら、ほとんど一時間ものあいだ、だまっていたのである。

「ね、話しましょうよ。私なんだか小さかった時分のことが話してみたくなったのよ」

 彼女が低い透き通った声でこんなことをいったとき、私はすでに肉体的な激しい焦慮を通り越して、かえって妙にすがすがしい気持になっていた。

「ああ、それがいい」

 私はよいところへ気がついたという意味で答えた。

「話してください。君の身の上話を」

 彼女はからだを楽な姿勢にして、澄みきった細い声で、彼女の幼少のころからの不思議な思い出を物語るのであった。私はじっと耳をすまして、長いあいだほとんど身動きもせず、それに聞き入っていた。彼女の声はなかばは子守歌のように、私の耳を楽しませたのである。

 私は、それまでにも、またそれから以後にも、彼女の身の上話は、切れ切れに、たびたび耳にしたのであったが、このときほど感銘深くそれを聞いたことはない。今でも、そのおりの彼女の一語一語を、まざまざと思い浮かべることができるほどである。だが、ここには、この物語のためには、彼女の身の上話をことごとくはしるす必要がない。私はそのうちから、のちにこの話に関係を生じるであろう部分だけを、ごく簡単に書きとめておけばよいわけである。

「いつかもお話ししたように、私はどこで生れた誰の子なのかもわからないのよ。今のお母さん――あなたはまだ会わないけれど、私はそのお母さんと二人暮らしで、お母さんのためにこうして働いているわけなの――そのお母さんがいうのです。初代や、お前は私たち夫婦が若かった時分、大阪の川口という船着場で拾ってきて、丹誠をして育て上げた子なんだよ。お前は汽船待合所の薄暗い片隅に、手に小さな風呂敷包みを持って、めそめそと泣いていたっけ。あとで風呂敷包みをあけて見ると、中から多分お前の先祖のであろう、一冊の系図書きと、一枚の書きつけとが出てきて、その書きつけで初代というお前の名も、その時ちょうどお前が三つであったこともわかったのだよ。でもね、私たちには子供がなかったので、神様から授かったほんとうの娘だと思って、警察の手続もすませ、立派にお前を貰ってきて、私たちはたんせいをこらしたのさ。だからね、お前も水臭い考えを起こしたりなんぞしないで、私を――お父さんも死んでしまって、一人ぼっちなんだから――ほんとうのお母さんだと思っていておくれよ、とね。でも、私それを聞いても、なんだかおとぎ話でも聞かせてもらっているようで、ほんとうは悲しくもなんともなかったのですけれど、それが、妙なのよ、涙が止めどもなくながれてしようがなかったの」

[やぶちゃん注:「大阪の川口」現在の大阪府大阪市西区川口か。ここ(グーグル・マップ・データ)。安治川の河口付近で、旧川口居留地があった。ウィキの「旧川口居留地」によれば、明治元(一八六八)年七月には、当地の十六区画が諸外国へ競売されて『完売し、直ちに街路樹や街灯、洋館が並ぶ西洋の街へと整備され』た。『居留地に接する富島町、古川町、本田一番町~三番町、梅本町も外国人雑居地とな』り、明治一九(一八八六)年には『人気に応えて』、更に十『区画の増設が行われた。また、木津川対岸の江之子島にはドームを有する洋風建築の大阪府庁舎』(二代目で、明治七(一八七四)年竣工。大正一五(一九二六)年に大手前へ移転した)『や大阪市庁舎『(初代で、明治三二(一八九九)年竣工。大正元(一九一二)年に堂島へ移転)が建設された』。明治三十二年には『居留地制度は廃止されたが、大正時代末まで』、『周辺一帯は大阪の行政の中心であり』、『大阪初の電信局、洋食店、中華料理店、カフェができ、様々な工業製品や嗜好品が』、『ここから大阪市内に広まるなど、文明開化・近代化の象徴であった』とある。]

 彼女の育ての父親の在世の頃、その系図書きをいろいろ調べて、ずいぶんほんとうの親たちを尋ね出そうと骨折ったのだけれども、系図書きに破けたところがあって、ただ先祖の名前や号やおくり名が羅列してあるばかりで、そんなものが残っているところをみれば、相当の武士の家柄にはちがいないのだが、その人たちの属した藩なり、住居なりの記載が一つもないので、どうすることもできなかったのである。

「三つにもなっていて、私ばかですわねえ。両親の顔をまるで覚えていないのよ。そして、人ごみの中で置き去りにされてしまうなんて。でもね、二つだけ私、今でもこう眼をつむると、闇の中へ綺麗に浮き出して見えるほど、ハッキリ覚えていることがありますわ。その一つは、私がどこかの浜辺の芝生のような所で、暖かい日に照らされて、可愛い赤さんと遊んでいる景色なの。それは可愛い赤さんで、私は姉さまぶって、その子のお守りをしていたのかもしれませんわ。下の方には海の色がまっ青に見えていて、そのずっと向こうに紫色に煙って、ちょうど牛のねた形で、どこかの陸が見えるのです。私、ときどき思うことがありますわ。この赤さんは私の実の弟か妹で、その子は私みたいに置き去りにされないで、今でもどこかに両親と一緒に仕合わせに暮らしているのではないかと。そんなことを考えると、私なんだか胸をしめつけられるように、懐かしい悲しい気持になってきますのよ」

 彼女は遠い所を見つめて、独りごとのようにいうのである。そして、もう一つの彼女の幼い記憶というのは、

「岩ばかりでできたような、小山があって、その中腹から眺めた景色なのよ。少し隔ったところに、誰かの大きなお屋敷があって、万里の長城みたいにいかめしい土塀や、母屋(おもや)の大鳥の羽根をひろげたように見える立派な屋根や、その横手にある白い大きな土蔵なんかが、日に照らされて、クッキリと見えているの。そして、それっきりで、ほかに家らしいものは一軒もなく、そのお屋敷の向こうのほうには、やっぱり青々とした海が見えているし、そのまた向こうには、やっぱり牛のねたような陸地が、もやにかすんで横たわっているのよ。きっとなんですわ。私が赤さんと遊んでいたところと、同じ土地の景色なのね。私、幾度その同じ場所を夢に見たでしょう。夢の中で、ああ、又あすこへ行くんだなと思って、歩いていると、きっとその岩山のところへ出るにきまっていますわ。私、日本中を隅々まで残らず歩き廻ってみたら、きっとこの夢の中の景色と寸分違(たが)わぬ土地があるに違いないと思いますわ。そしてその土地こそ私の懐かしい生れ故郷なのよ」

「ちょっと、ちょっと」私はそのとき、初代の話をとめて言った。「僕、まずいけれど、その君の夢に出てくる景色は、なんだか絵になりそうだな。かいてみようか」

「そう、じゃあ、もっと詳しく話しましょうか」

 そこで私は机の上の篭(かご)に入れてあったホテルの用箋を取り出して、備え付けのペンで、彼女が岩山から見たという海岸の景色を描いた。その絵がちょうど手元に残っていたので、版にしてここに掲げておくが、この即席のいたずらがきが、後に私にとってはなはだ重要な役目をつとめてくれようなどとは、むろんその時には想像もしていなかったのである。

「まあ、不思議ねえ。その通りですのよ。その通りですのよ」

 初代は出来上がった私の絵を見て、喜ばしげに叫んだ。

「これ、僕、貰っておいてもいいでしょう」

 私は、恋人の夢をいだく気持で、その紙を小さく畳み、上衣の内ポケットにしまいながらいった。

 初代は、それから又、彼女が物心ついてからの、さまざまの悲しみ喜びについて、尽きぬ思い出を語ったのである。それはここにしるす要はない。ともかくも、私たちは、そうして私たちの最初の夜を、美しい夢のように過してしまったのである。むろん私たちはホテルに泊りはしないで、その夜ふけに、めいめいの家に帰った。

[やぶちゃん注:ここにその風景を描いた挿絵があるのだが(左と右上部に、牛の臥したような島が左手の沖に浮かぶ海、中央に四方を土塀(但し、各所が毀れている)で囲んだ倉のある瓦葺きの屋敷、右手に岩山があり、その岩の天辺に少女と小さな子が稚拙に描かれている)、大分、タッチが違うので、或いは、乱歩の自筆かとも期待したが、これも左端にサインがあることが判り、それ拡大してよく見ると、やはり、竹中英太郎のものであることが判る。実に悲しことに、これは本文と密接などうしても欲しい挿絵なのであるが、著作権上、やはり、ここでは示せないのである。]

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