トゥルゲニエフ作 上田敏譯 「散文詩」(抄) 犬
犬
室内双影あり、犬とわれと。 そともは、風雨すさまじく荒びぬ。
犬は面前に踞して、わが顏まもりぬ。
われ亦犬をまもる。
かれ、宛も、何事をか語らむとする如し。 啞なり、言葉なし、はたおのれをも識らず………されどわれは彼を識れり。
われは識る。 ふたりのきはに何の隔(へだて)なしといふ思は、犬にも、われにも、この刹那にこそ浮ぶなれ。 われら平等ぞ。 同じ火花はふたりに燃えたり。
死は、冷たき長翼の一搖曳をもて、落し來らむ。
かくて寂滅。
その時、誰か、各に耀ける熖の、何たるを判(わか)ち知らむ。 否、今目守り合ふこのふたりは、人間にあらず、畜生にあらず。
かたみに睨むその眼(まなこ)よ、平等のものゝ眼なり。
畜生にも、人間にも、同じ命といふもの、おぢわなゝきつゝ、互に寄り添ふ。
[やぶちゃん注:「踞して」「きよして(きょして)」。蹲(うづくま)って。
「長翼の一搖曳をもて」「ちやうよくのいちえうえいをもて」。長く大いなる翼の、ただ一(ひと)羽ばたきを以って。
「落し來らむ」その生命の「火花」の、「燃え」る火を、吹き落しにやって来るであろう。
「各に」「おのおのに」。
「おぢわなゝき」「怖じ戰慄(わなな)き」。]
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