柴田宵曲 俳諧博物誌(13) 狸 二
二
俳諧と狸との交渉について閑却すべからざるものは、蕪村の『新花摘』であろう。今更蕪村の狐狸妖怪趣味でもあるまいが、この好材料を顧みぬのは古人のいわゆる「腹ふくるるわざ」である。腹はふくれた方が狸にふさわしいなどと混ぜ返してはいけない。
[やぶちゃん注:「蕪村の『新花摘』」与謝蕪村(享保元(一七一六)年~天明三(一七八三)年)著になる寛政九(一七九七)年刊になる俳書。蕪村は安永六(一七七七)年夏、其角の「花摘」に倣って、恐らくは亡き母の追善のため、一日十句を創る夏行 (げぎょう) を思い立ち、十六日間百二十八句まで実行したが、あとは所労のため、七句を追加しただけで中絶した。その後、これに京都定住以前の回想談(其角の「五元集」に関する話・骨董論・五篇の狐狸談・其角の手紙の話など)を加えたものとして完成させたものが本書である。蕪村没後の天明四(一七八四)年、冊子であった自筆草稿を巻子本(かんすぼん)にする際、月渓の挿絵(私は個人的にはこの挿絵が好きではない)と跋文を加え、さらにその十三年後には原本が模刻出版されている。発句と俳文とが調和した蕪村の傑作とされる。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。
「腹ふくるるわざ」思ったことを言わずにいると、腹が張ってくるような不快な気持ちになる、の意。「徒然草」の第十九段、季節の変化の興趣を語った秋の箇所に出る表現。長いので、当該箇所だけを引く。
*
七夕(たなばた)祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒(よさむ)になるほど、雁(かり)鳴きてくる頃、萩の下葉(したば)色づくほど、早田(わさだ)刈り干すなど、とり集めたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分(のわき)の朝(あした)こそをかしけれ。言ひつづくれば、みな源氏物語・枕草子などにこと古(ふ)りにたれど、同じことは、いまさらに言はじとにもあらず。思ふこと言はぬは、腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ、あぢきなきすさびにて、かつ破(や)り捨(す)つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。
*]
蕪村の書いた狸談の一は丈羽なる者の別荘の話である。老翁一人に番をさせて、市中ながらも樹おいかさみ草しげりて世塵(せじん)をさくる便(たよ)りよしという場所であったから、蕪村も暫くそこに泊っていた。老翁は洒掃(さいそう)の外に仕事もないので、孤灯の下に夜長の珠数(じゅず)をつまぐり、蕪村は奥の一間で句を錬り詩をうめいていたが、やがて布団を被って寝ようとすると、広縁の雨戸をどしどしと二、三十ばかり連打する者がある。起出して戸をあけて見ても何もいない。また寝ようとすると前のような音がする。恐しくなって老翁に相談したら、それは狸の仕業です、今度来たら直ぐ戸をあけて逐(おい)かけて下さい、私は背戸の方から廻って、くね垣の下で隠れて待ちましょう、という。蕪村が心得て狸寝入をするほどにまたやって来た。そらといって戸をあける。老翁も声をかけて出合ったが、遂に何も見えぬ。斯くすること五日に及んだので、蕪村も睡眠不足になって疲れて来た。ところへ丈羽の家から人が来て、もう狸は今夜から参りますまい、今日の明方藪下というところで、年取った狸を撃った者があります、夜ごとの悪戯は其奴(そいつ)の仕業でしょうから、今夜は御安眠が出来ましょう、という話であった。なるほどその夜から音なくなったが、蕪村は「此ほど旅のわび寢のさびしきをとひよりたるかれが心」を憐み、善空坊という道心坊を語らい、一夜念仏してその菩提を弔ったというのである。
[やぶちゃん注:原文は後で示す。
「洒掃(さいそう)」「洒」は「水を注ぐこと」、「掃」は「塵を掃(は)くこと」で、洗濯と掃除の意。]
蕪村はこの話に「狸ノ戸ニオトヅルヽハ尾ヲモテ扣(たた)クト人云メレド、左(さ)ニハアラズ、戸ニ背ヲ打ツクル音ナリ」という註を加えている。これは狸学者の研究範囲に属する問題であろうが、この一条を結んだ
秋のくれ佛に化る狸かな 蕪村
の句は、少しく離れ過ぎた感がある。そうかといって
戸を敲(たた)く狸も秋を惜みけり 蕪村
を持って来たのでは即(つ)き過ぎるであろう。不即不離はなかなかむずかしいらしい。
[やぶちゃん注:後に原文を示す。新潮日本古典文学集成を参考に漢字を恣意的に正字化して示し、句読点や改行も追加した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。
「秋のくれ佛に化る狸かな」かの狸は今度は仏に化けたのだと思うこととしよう、というニュアンスであろう。
「戸を敲(たた)く狸も秋を惜みけり」底本は「戸を敲(たた)く狸と秋を惜みけり」となっているが、新潮日本古典集成の「与謝蕪村集」(昭和五四(一九七九)年刊)の清水孝之氏の注に従って訂した。前の句には別案があり、「戸を敲く狸も秋を惜みけり」は「落日庵」及び遺稿稿本に載るもの。他に「平安二十歌仙」「落日庵」には「秋をしむ戸に音づるゝ狸かな」がある。
*
結城の丈羽(ぢやうう)、別業(べつげふ)をかまへて、ひとりの老翁をしてつねに守らせけり。市中(しちゆう)ながらも、樹、おひかさみ、草しげりて、いさゝか、世塵をさくる便りよければ、余もしばらく其所に、やどりしにけり。
翁(おきな)は酒掃(しやさう)のほか、なすわざもなければ、孤燈のもとに念珠(ねんじゆ)つまぐりて秋の夜の長きをかこち、余は奥の一間にありて句をねり、詩をうめきゐけるが、やがてこうじにたれば[やぶちゃん注:「困じにたれば」で「疲れたので」の意。]、ふとん引かふてとろとろと睡(ねぶら)んとするほどに、廣緣(ひろえん)のかたの雨戸をどしどしどしどしとたゝく。約(やく)するに[やぶちゃん注:おおよそ。]二、三十ばかりつらねうつ音す。いとあやしく胸とゞめきけれど、むくと起出て、やをら、戸を開き見るに、目にさへぎるものなし。又ふしどに入りてねぶらんとするに、はじめのごとくどしどしとたゝく。又起出見るに、もの影だになし。いといとおどろおどろしければ、翁に告ゲて、
「いかゞはせん。」
など、はかりけるに、翁曰(いはく)、
「こざめれ[やぶちゃん注:「こそあるらめ」の略である「ござんめれ」の転訛した語。手ぐすね引いて待つさまを指す。「よし! 来た!」。]、狸の所爲(しよゐ)なり。又、來りうつ時、そこ[やぶちゃん注:「足下」と傍書有り。]はすみやかに戸を開(ひらき)て逐(お)うつべし。翁は背戸のかたより𢌞(めぐ)りて、くね垣[やぶちゃん注:垣根のこと。]のもとにかくれ居て待(まつ)べし。」
と、しもと[やぶちゃん注:「笞(しもと)」。鞭(むち)。]ひきそばめつゝ、うかゞひゐたり。余も狸寢いりして待(まつ)ほどに、又、どしどしと、たゝく。
「あはや。」
と戸を開(ひら)ケバ、翁も、
「やゝ。」
と聲かけて出合(いであひ)けるに、すべてものなければ、おきなうちはらだちて、くまぐま、のこるかたなく、かりもとむるに[やぶちゃん注:こと細かに探し求めたのであったが。]、影だに見えず。
かくすること、連夜五日ばかりに及びければ、こゝろつかれて今は住(すま)うべくもあらず覺えけるに、丈羽が家のおとな[やぶちゃん注:「長」と傍書有り。その地区の奴婢(ぬひ)の元締め。]ゝるもの來りて云(いふ)、
「そのもの、今宵(こよひ)はまゐるべからず、此あかつき、籔下(やぶし)タといふところにて、里人(りじん)狸の老(おい)たるをうち得たり。おもふに、此ほどあしくおどろかし奉りたるは、うたがふべくもなくシヤツ[やぶちゃん注:「其奴(そやつ)」の転訛した語。]が所爲也。こよひは、いをやすく[やぶちゃん注:「寢(い)を安く」。]おはせ。」
など、かたる。
はたして、その夜より音なく成(なり)けり。
にくしとこそおもへ、此ほど旅のわび寢のさびしきをとひよりたる[やぶちゃん注:慰めんとしてでも「訪(と)ひ寄り」呉れた。]、かれが心のいとあはれに、かりそめならぬちぎりにやなど、うちなげかる。されば、善空坊といへる道心者(だうしんもの)をかたらひ、布施とらせつ、ひと夜、念佛して、かれがぼだいを、とぶらひ侍りぬ。
秋のくれ佛に化(ばけ)る狸かな
狸ノ戸ニオトヅルヽハ、尾ヲモテ扣(たた)ク
ト、人、云(いふ)メレド、左(さ)ニハアラ
ズ、戸ニ背(せ)ヲ打(うち)ツクル音ナリ。
*]
もう一つの話は丹後宮津の見性寺(けんしょうじ)に三年余も滞在した時の事である。一夜厠(かわや)へ行こうとして「何やらんむくむくと毛のおひたるもの」に踏み当った。驚いて足を引きそばめ、闇中(あんちゅう)を窺(うかが)ったが、何の音もない。ここと思うあたりをはたと蹴(けつ)ても、一向障(さわ)るものがないので、俄(にわか)に恐しくなった。法師、下部(しもべ)らを呼起し、灯火を照して奥の間へ来て見たが、襖障子は常の如く寂然としている。あなたの神経でしょう、ということになつて臥牀(ねどこ)に入ると、今度は胸の上に磐石(ばんじゃく)でも乗せられたような気がして、夢中に呻(うめ)き声を立てる。竹渓という和尚がそれを聞いて起してくれた。それは狸沙弥(しゃみ)の仕業だというので、妻戸を押開いて見ると、縁から簀(す)の子(こ)の下まで梅の花のような足跡が続いている。前に蕪村の言を信じなかった人々も、これを見ては「さなん有りけり」といわざるを得なかった。
[やぶちゃん注:前の引用に続くもの。先の要領で原文を後に示す。
「見性寺」天の橋立の近く、京都府宮津市小川にある浄土宗一心山見性寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。寛永二(一六二五)年に建立された。
*
むかし、丹後宮津の見性寺(けんしやうじ)といへるに、三とせあまり、やどりゐにけり。秋のはじめより、あつぶるひ[やぶちゃん注:「熱震ひ」。概ね、マラリヤを指す。]のためにくるしむこと、五十日ばかり、奧の一間は、いといとひろき座しきにて、つねにさうじ[やぶちゃん注:障子。]、ひしと戸ざして、風の通ふひまだに、あらず。其(その)次の一間に病床をかまへ、へだてのふすまをたてきりて有(あり)けり。ある夜、四更[やぶちゃん注:午前二時頃。]ばかりなるに、やまひ、やゝひまありければ[やぶちゃん注:小康状態になっていたので。]、かはやにゆかんとおもひて、ふらめき起(おき)たり。
かはやは奧の間のくれえん[やぶちゃん注:「榑緣」。細長い板を敷居と平行に並べて張った縁側のこと。]をめぐりて、いぬゐ[やぶちゃん注:北西。]の隅にあり。ともしびもきえて、いたう、くらきに、へだてのふすま、おし明(あけ)て、まづ、右(みぎ)り[やぶちゃん注:普通の右の意。「左(ひだ)り」の対語となるように作った語。]の足を一步さし入(いれ)ければ、何やらん、
「むくむく。」
と毛のおひたる[やぶちゃん注:「生いたる」。生えた。]ものを、ふみ當(あて)たり。
おどろおどろしければ、やがて足をひきそばめて[やぶちゃん注:すっと引き縮めて。]、うかゞひゐたりけるに、ものゝ音もせず。
あやしくおどろおどろしけれど、むねうち、こゝろさだめて、此たびは左りの足をもて、こゝなん、と思ひて、
「はた。」
と蹴(け)たり。
されど、露(つゆ)さはるもの、なし。
いよゝ、こゝろえず、みのけだちければ、わなゝくわなゝく、庫裡(くり)なるかたへ立(たち)こえ[やぶちゃん注:行って。]、法師・しもべなどの、いたく寢ごちたるを[やぶちゃん注:ぐっすりと寝込んでいる。]うちおどろかして、
「かくかく。」
と、かたれば、みな起出(おきいで)つ。
ともし火、あまたてらして、奧の間にゆきて見るに、ふすま・さうじはつねのごとく戸ざしありて、のがるべきひまなく、もとよりあやしきものゝ影だに見えず。
みな云ふ、
「わどの[やぶちゃん注:「和殿・吾殿」対等の二人称。]、やまひにをかされて、まさなく[やぶちゃん注:正気でないので。]、そゞろごと[やぶちゃん注:「漫言(そぞろごと)」とりとめもない訳の分からぬこと。]いふなめり。」
と、いかり、はらだちつゝ、みな、ふしたり。
中中(なかなか)に[やぶちゃん注:なまじっか。]あらぬこといひ出けるよと、おもなくて[やぶちゃん注:面目なく思って。]、我もふしどにいりぬ。やがて眠らんとする頃、むねのうへばんしやく[やぶちゃん注:盤石。大きな重い石。]をのせたらんやうにおぼえて、たゞうめきに、うめきける。
其聲のもれ聞えけるにや、住侶[やぶちゃん注:住持。]竹溪師、いりおはして、
「あな、あさまし。こは何ぞ。」
と、たすけおこしたり。
やゝ人ごゝちつきて、かくとかたりければ、
「さることこそあなれ[やぶちゃん注:そういうことは実際、確かにあることに違いない。]、かの狸沙彌が所爲なり。」
とて、妻戸おしひらき見るに、夜、しらじらと明(あ)ケて、あからさまに見認(みとめ)けるに、椽(えん)より簀の子のしたにつゞきて、梅の花のうちちりたるやうに、跡、付(つき)たり。
扨(さて)ぞ、先キにそゞろごと云(いひ)たりとて、のゝしりたるものども、
「さなん有けり。」[やぶちゃん注:「そういうことであったのか!」。]
とて、あさみあへり[やぶちゃん注:驚き呆れたのであった。]。
*
「竹溪師」触誉芳雲(正徳五(一七一五)年~安永八(一七七九)年)見性寺第九世。見性寺公式サイト内の「与謝蕪村と見性寺」を是非、見られたい。]
蕪村はこの一条に続いて、竹渓和尚の不思議な様子を描いている。林若樹(はやしわかき)氏がかつて『読売新聞』に「狸の睾丸人畳敷」の考証を書かれた時も、『新花摘』の本文を引用して、蕪村は竹渓師を狸の化生(けしょう)ではないかと怪しんでいるといわれたように記憶する。狸の化けたのでないにしたところが、狸味横溢していたことは明(あきらか)で、竹渓師うちわらいて「秋ふるや楠(くす)八疊の金閣寺」という結びの一句も何となく薄気味が悪い。もし世の中に狸笑というものが存在するとしたら、この竹渓和尚の笑の如きが正にそれであろう。
[やぶちゃん注:同じく、前の引用に続くもの。先の要領で原文を後に示す。
「林若樹」既出既注。以下の『読売新聞』に載ったという「狸の睾丸八畳敷」は不詳。この宵曲の書き方では、あたかも本執筆(「俳諧博物誌」は昭和五六(一九八一)年刊)のさほど遠くない近過去のように読まれてしまう虞れがあるが、林は昭和一三(一九三八)年に亡くなっているから、四十数年以上も前、戦前のことである。
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竹渓師は、
「あはや。」
といそぎ起出(おきいで)給ひけるにや、おびも結(ゆ)ひあえず、ころもうち披(ひら)きつゝ、ふくらかなる睾丸(かうぐわん)の、米囊(べいのう)のごときに、白き毛、種々(しようしよう[やぶちゃん注:読みはママ。ふさふさと。])とおひかぶさりて、まめやかもの[やぶちゃん注:本来そこにあるべき主なる物。男根のこと。]はありとも見えず。わかきより痒(かゆが)りのやまひ[やぶちゃん注:いんきんたむし。主に陰部に白癬菌が感染することで起こる。「股部白癬」。]ありとて、たゞ睾丸を引(ひき)のばしつゝ、ひねりかきて、おはす。其(その)有(あり)さま、いとあやしく、かの朱鶴(しゆかく)長老の聖經(しやうぎやう)にうみたるにやと、いとどおそろしくこゝろおかれければ、竹渓師、うちわらひて、
秋ふるや楠八疊の金閣寺 竹溪
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最後の部分の、「朱鶴(しゆかく)長老」は群馬県館林市にある曹洞宗青竜山茂林寺(もりんじ)の寺僧朱鶴のことで、同寺に文福茶釜をもたらしたことで知られ、彼の正体は狸であったとされる。茂林寺公式サイト内の「分福茶釜と茂林寺」を参照されたい。「聖經」は仏聖の書いた有り難い経典。「いとどおそろしくこゝろおかれければ」は「(そんなふうな比喩をあからさまに言うことは、たいそうまずかろうと遠慮して黙っていたところ、の意。
新潮日本古典集成の「与謝蕪村集」の清水孝之氏の注によれば、最後の句は『〈秋もたけた今日この頃、古雅な金閣寺の楠造りの八畳の間に楠がよく』匂う『よ〉』が表の意味であるが、『裏の意は「ふる」に「古る」「振る」を掛け、「楠八畳」に「狸の睾丸(きんだま)八畳敷」を匂わし、「金閣」に「きんだま」を利かせ、「わしがそんなに』(狸なのではなかろうかとまで)臭う『かな」とおどけてみせた』滑稽句である、とある。]
『蕪村句集』中に狐の句は多いが、狸の句はあまり見えぬ。右に挙げた秋の暮の二句は、この種の狸文学の圧巻たるべきものである。「國中往々怪を描くものあり、これ予が癖にして實に東洋民族の癖なり」といった小川芋銭氏も、一番多く描いたのが河童で、その次は狐だろうということだから、狐の方が狸より画になり詩になりやすい要素を多く有するのかも知れない。「仏に化る狸」は『宇治拾遺』中の話を連想せしめる。愛宕山に住む高僧が白象に乗った普賢菩薩を拝む。その話を開かされた猟師が、自分の目にも同じく普賢菩薩が見えるのを怪しみ、殺生を業とする自分などに仏が拝めるはずはない、これは化物の所為であろうとして妄に射倒す。果してそれは狸であったという話である。明治に至って小泉八雲は「常識」なる題下にこの話を書き、「博学にして信心深い人であったが、僧は狸に容易にだまされていた。しかし猟師は無信心ではあったが、強い常識を生れながらもっていた。この生れながらもっていた常識だけで直に危険な迷を看破し、かつそれを退治することができた」という解釈を与えている。
[やぶちゃん注:「宇治拾遺物語」のそれは、私が幼少時より、後に出る小泉八雲のそれを皮切りとしてひどく偏愛してきた話で、「宇治拾遺物語」の第百四話「獵師、佛を射る事」である。総ては私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その3) 附小泉八雲“Common
Sense”原文+田部隆次譯 / 「佛と魔」~了』の私の注を参照されたい。]
若葉山ほとけと見しは古狸 曉臺
多分同じ材料によるものと思われる。
こういう狸を捉えたものは、他の俳句に類例がないのみならず、日本文学としても乏しい部類に属するであろう。狸に戸を敵かれた蕪村は気味悪くもあり、恐しくもあったに相違ないが、その底には狸に対して或(ある)親しみを感ずる所がある。蕪村には「秋をしむ戸に音づるゝ狸かな」という句もあるが、「音づるゝ」では狸の真面目を発揮し得ない。ここはどうしても「戸を敲く」でなければならぬ。
[やぶちゃん注:「秋をしむ戸に音づるゝ狸かな」既注済み。]
蕪村の描いた竹渓和尚の正体は姑(しばら)く別問題として、狸の化け方は巧妙な点で狐に及ばぬにせよ、坊主に化ける一段に至っては狸の方が適役らしい。殊にあの便々(べんべん)たる腹は狸和尚の風采に欠くべからざるものである。
[やぶちゃん注:「姑(しばら)く」この字をかく訓ずること自体は、文学好きなら、まずは常識として知ってはいる。が、では、何故「姑(しゅうとめ)」の意の漢字をかく訓ずるかについては知らぬ方が多かろうと思う。実は私も知らなかった。本当かどうかは確認出来なかったが、あるQ&Aサイトの答えに、年配女性である姑は一般的に「保守的になりがちで、現状をそのままにしておこうとする傾向が強い」ことから「暫く」という意味になったとあった。但し、この「しばらく」の意は「詩経」に既に出ているから、非常に古いことだけは確かである。
「便々(べんべん)たる」太って腹の出ているさま。]
狸が坊主に化けて諸国を巡歴したという話は方々に伝わつている。本当に化け了(おお)せていれば、誰にもわかるはずはないが、人の目よりも犬の目の方が欺きにくいと見えて、偶然の機会から狸脚を露(あらわ)す例が多い。
狸かもしらず夏野を行(ゆく)坊主 千畦(せんけい)
あの坊子(ぼうず)狸にもせよひがんかな
秋光
という句は、這間(しゃかん)の消息を洩している点で注目に値する。一見何でもないようなものの、どこかに怪しい節(ふし)があって、狸ではないかというような評判が立つ。あるいはそうかも知れぬという程度の話で、疑われる者が常に僧形であるのは、狸との因縁浅からざる所以を証するものであろう。句としては格別妙でもないが、作者が一概に狸とも断ぜず、全然疑(うたがい)なきにも非ずという点から、この坊主に臨んでいるのがちょっと面白い。
弘法(こうばう)を狸にしたる蚊遣(かやり)かな
支考
の句に至ると、巡歴の僧を弘法大師として、その側に蚊遣が焚いてあるのを、狸を松葉燻(いぶ)しにする体と見立てたものの如く、一応は解せられる。狸の化けた弘法ならば、蚊遣に燻し立てられて正体を露すであろうが、さてこの句の真意はとなると、言葉の難解でない割に捕捉しにくい点がある。「四日市宿」という前書に子細でもあるかと思って『蓮二吟集(れんじぎんしゅう)』をしらべて見たら、「四日市と云處に宿す。西條といへる柹の名所也。此里に我名を知りたる男有(あり)て來りて風雅の事いひていにけるを主の聞て我に物書(かき)て得させよと云。我を尊き者とおもふにこそと心の程おかしければ」という長い前書がついていた。是(これ)に依って之(これ)を見るに、狸にされた弘法とは即ち支考自身の事であるらしい。危く引掛るところであった。もし支考が自ら蕉門の狸を以て任じ、その尻尾を出したものとすれば、一の愛敬であるが、比擬もこうなっては畢(つい)に厭味(いやみ)を免れぬ。