老媼茶話巻之五 久津(クツ)村の死女 / 老媼茶話巻之五~了
久津(クツ)村の死女
奧州岩城の城主内藤能登守領分、窟(クツ)村の百姓庄三郎女房たつといふ女、きわめてけんどんじやけんなり。
人のよきをそねみ、あしきをよろこぶ。
いかり腹立(はらたつ)事ある時は、眼(まなこ)さかつり、口、廣くなり、髮の毛、さかさまになりて、さながら、鬼女のごとし。
人をのろひころす事、弐拾人にあまり、かゝる猛惡のものたりといへども、天命、定(さだま)りありて、のがるゝ事なく、三拾七にて、身まかりぬ。
死ぬる時は、さまざま惡相あらはし、一生作りしつみとがを、みづから口走り、くるひじにゝ死す。
死骸を窟村の菩提所善性寺といふへ送りぬ。善性寺住僧、京學に登り、留守也。跡の事をば、走り熊の福性寺といふ淨土寺にて取行(とりおこな)ふ間、福性寺より坊主壱人來りて、かの亡者を剃刀(カウソリ)をせんとて、つふりをもみ、剃刀をあて、戒をさづくるに、死人(しびと)、手をあげ、つふりをかゝえ、すらせず。
坊主、興をさまし、剃刀をとれば、死人も手をおろす、かくする事、數度なり。
暫(しばらく)有(あり)て、亡者の眼(まな)ざしかはり、口、廣くなり、額の髮の毛を分(わけ)て、こぶの樣にならびて、角弐ツ生出(おひいで)たり。
坊主、大きにおどろき、亡者の一類をよび、
「此(この)死人(しびと)、野送りの節、あやしき事あるべし。用心せよ。」
とて棺(くわん)の蓋(ふた)をも丈夫に打(うち)つけ、船繩(ふななは)とて、ふときなわにて能々(よくよく)からげ、其暮(そのくれ)、窟(いは)むらの後(うしろ)の山へ送り行(ゆく)に、晴(はれ)たる空、俄(にはか)に曇り、雲、發(おこ)りて、雨、ふり出(いだ)し、大風・らいでん、おびたゞしく、稻光り、しきりにして、黑雲、棺の上へおゝひ懸(かか)る。
是を見て、送りの者、棺を山下に打捨(うちすて)、我先(われさき)にと、逃歸(にげかへ)りぬ。
夜明(よあけ)て、皆々行(ゆき)て見るに、棺、みぢんに破れ碎(くだけ)て死人(しびと)、行方なし。
元文四年二月五日夜五ツ時分の事なり。
岩城(いはき)よりじやうどの館(がたて)成願寺(じやうぐわんじ)へ來りし老僧の、もの語りなり。
老媼茶話卷之五終
[やぶちゃん注:「久津(クツ)村」「窟(クツ)村」不詳。識者の御教授を乞う。わざわざ「領分」と言っているところを見ると、他藩の飛び地かとも思った。実際には福島県二本松市内であることが後に判明した。後の「善性寺」の注を参照されたい。
「奧州岩城の城主内藤能登守」「奧州岩城の城」は陸奥国磐前郡磐城平(現在の福島県いわき市平)にあった磐城平藩の藩庁たる磐城平城(いわきたいらじょう)。「能登守」とあるので、これは第四代藩主内藤義孝(寛文九(一六六九)年~正徳二(一七一三)年)ということになるのであるが、それでは最後の事件の時制である「元文四年」(一七三九年)と齟齬する。クレジットが正しいとすれば、これはその二代後の第六代藩主内藤備後守政樹(宝永三(一七〇六)年~明和三(一七六六)年)の治世となる。彼は日向国延岡藩の初代藩主として移封されているが、それは延享四(一七四七)年のことであるから、問題ない。
「けんどんじやけん」「慳貪邪慳」。
「つみとが」「罪科」。
「くるひじに」「狂ひ死」。
「善性寺」現在の福島県二本松市内には三つの同名の寺があるが、この内、浄土宗は福島県二本松市根崎のそれ(読みは「ぜんしょうじ」)のみである。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここでこの寺が「久津」「窟」村の菩提寺とあるから、この附近がロケーションであることが判明することとなった。
「熊の福性寺」「淨土寺」不詳。識者の御教授を乞う。
「船繩(ふななは)」舫(もや)い用の水分を含んでも、耐性の劣化しない極太の繩のことであろう。
「ふときなわ」ママ。「太き繩(なは)」。
「からげ」「絡げ」「紮げ」。繩を結び結わえる。括(くく)り。
「窟(いは)むら」先の村名。
「らいでん」「雷電」。
「みぢん」「微塵」。
「元文四年二月五日」グレゴリ暦一七三九年三月十三日。
「夜五ツ」午後十時頃。問題はこれが、どのシチュエーションを指しているかで、恐らくは、福性寺での髪を剃る時間へ、立ち戻っていると考えるのが穏当とは思われる。
「じやうどの館(がたて)」「允殿館」で、既出既注の、現在の福島県会津若松市に所在した城館。中世に会津領主であった蘆名氏の有力家臣松本氏の居館の一つであった。宝徳三(一四五一)年に蘆名氏家臣松本右馬允通輔が築いたとされる。現在は公園化され、会津五薬師の一つである館薬師堂が建ち、敷地内には秀行の廟所がある。福島県会津若松市館馬町内。ここ(グーグル・マップ・データ)であろう。
「成願寺」前にも出たが、現在、この名の寺は存在しない。]