江戸川乱歩 孤島の鬼(30) 影武者
影武者
その翌日とうとう恐ろしい破滅がきた。
お昼過ぎ、私がひとりで啞の女中のお給仕で(これが秀ちゃんの日記にあったおとしさんだ)ご飯をすませても、諸戸が父親の部屋から帰ってこないので、ひとりで考えていても気が滅入るばかりだものだから、食後の散歩かたがた、私はまたしても土蔵の裏手へ、秀ちゃんと眼の話をしに出掛けた。
窓を見上げてしばらく立っていても、秀ちゃんも吉ちゃんも顔を見せぬので、私はいつもの合図の口笛を吹いた。すると、黒い窓の鉄格子の中へ、ヒョイと一つの顔が現われたが、私はそれを見て、ハッとして、自分の頭がどうかしたのではないかと疑った。なぜといって、そこに現われた顔は秀ちゃんのでも吉ちゃんのでもなく、父親の部屋にいるとばかり思っていた、諸戸道雄の引きゆがんだ顔であったからだ。
何度見直しても、私のまぼろしではなかった。まぎれもない道雄が、双生児の檻に同居しているのだった。それがわかった刹那、私は思わず大声に叫びそうになったのを、素早く諸戸が口に指を当てて注意してくれたので、やっと食い止めることができた。
私の驚き顔を見て、諸戸は狭い窓の中から、しきりと手まねで何か話すのだが、秀ちゃんの微妙な眼とは違って、それに話す事柄が複雑すぎるものだから、どうも意味が取れぬ。諸戸はもどかしがって、ちょっと待てという合図をして首を引込めたが、やがて、丸めた紙切れを私の方へ投げてよこした。
拾い上げてひろげて見ると、多分秀ちゃんのを借りたのであろう、鉛筆の走り書きで、次のように書いてあった。
少しの油断から丈五郎の奸計(かんけい)におちいり、双生児と同じ監禁の身の上となった。非常に厳重な見張りだから、到底急に逃げ出す見込みはない。だが、僕よりも心配なのは君だ。君は他人だから一層危険だ。早くこの島から逃げ出したまえ。僕はもう諦めた。すべてを諦めた。探偵も、復讐も、僕自身の人生も。
君との約束にそむくのを責めないでくれたまえ、最初の意気込みに似ず気の弱い僕を笑わないでくれたまえ、僕は丈五郎の子なのだ。
懐かしき君とも永遠におさらばだ。諸戸道雄を忘れてくれたまえ。岩屋島を忘れてくれたまえ。そして無理な願いだけれど、初代さんの復讐などということも。
本土に渡っても警察に告げることだけは止してください。長年の交誼(こうぎ)にかけて、僕の最後のお頼みだ。
読み終って顔を上げると、諸戸は涙ぐんだ眼で、じつと私を見おろしていた。悪魔の父はついにその子を監禁したのだ。私は道雄の豹変を責めるよりも、丈五郎の暴虐を恨むよりも、形容のできない悲愁に打たれて、胸の中が空虚になった感じだった。
諸戸は親子というかりそめの絆(きずな)に、いくたび心を乱したことであろう。はるばるこの岩屋島を訪れたのも、深く思えば私のためでもなく、初代の復讐などのためではむろんなく、その実は、親子という絆のさせた業であったかもしれないのだ。そして、最後の土壇場になって、彼はついに負けた。異様なる父と子の戦いは、かくして終局をつげたのであろうか。
長い長いあいだ、土蔵の中の諸戸と眼を見かわしていたが、とうとう彼の方から、もう行けという合図をしたので、私は別段の考えもなく、ほとんど機械的に諸戸屋敷の門のほうへ歩いて行った。立ち去るとき、諸戸の青ざめた顔のうしろの薄暗い中に、秀ちゃんのいぶかしげな顔がじっと私を見つめているのに気づいた。それが一そう私をはかない気持にした。
だが、私はむろん帰る気になれなかった。道雄を救わねばならぬ。秀ちゃんを助け出さねばならぬ。たとえ道雄がいかに反対しようとも、私は初代の敵を見捨てて、この島を立ち去ることはできぬ。そして、あわよくば、なき初代のために、彼女の財宝を発見してやらねばならぬ(不思議なことに、私はなんの矛盾をも感じないで、初代と秀ちゃんとを、同時に思うことができた)。諸戸の頼みがなくても、警察の力を借りるのは最後の場合だ。私はこの島に踏みとどまって、もっと深く探って見よう。滅入っている諸戸を力づけて、正義の味方にしよう。そして、彼の優れた智恵を借りて、悪魔と戦おう。私は諸戸屋敷の自分の居間に帰るまでに、雄々しくもこのように心をきめた。
部屋に帰ってしばらくすると、久しぶりで佝僂の丈五郎が醜い姿を現わした。彼は私の部屋にはいると、立ちはだかったまま、
「お前さんは、すぐに帰る支度をなさるがいい。もういっときでもここの家には、いや、この岩屋島には置いておけぬ。さあ支度をなさるがいい」
と、どなった。
「帰れとおっしゃれは帰りますが、道雄さんはどこにいるのです。道雄さんも一緒でなければ」
「息子は都合があってあわせるわけにはいかぬ。が、あれもむろん承知の上じゃ。さあ用意をするのだ」
争っても無駄だと思ったので、私は一と先ず諸戸屋敷を引き上げることにした。むろんこの島を立ち去るつもりはない。島のどこかに隠れていて、道雄なり秀ちゃんなりを、救い出す手だてを講じなければならぬ。だが、困ったことには、丈五郎のほうでも抜け目なく、一人の屈強な下男をつけて、私の行く先を見届けさせた。
下男は私の荷物を持って先に立って歩いて行った。先日私に話しかけた不思議な老人の小屋のところへくると、いきなりそこへはいって行って、声をかけた。
「徳さん、おるかな。諸戸の旦那のいいつけだ、舟を出しておくれ。この人をKまで渡すのや」
「その客一人で帰るのかな」
老人はやっぱり、このあいだの窓から半身を出して、私の顔をジロジロ眺めながら答えた。
そこで結局、下男は私をその徳さんという老人に預けて、帰ってしまったのだが、丈五郎が、いわば裏切者であるこの老人に私を托したのは、意外でもあり、薄気味わるくもあった。
とはいえ、この老人が選ばれたことは、私にとって非常な好都合である。私は大略ことの仔細を打ちあけて老人の助力を乞うた。どうしても今しばらく、この島に踏みとどまっていたいと言い張った。
老人は先日と同じ筆法で、私の計画の無謀なことを説いたが、私があくまでも自説をまげぬので、ついに我を折って、私の乞いを容れてくれたばかりか、丈五郎をたばかる一つの名案をさえ持ち出した。
その名案というのは、
疑い深い丈五郎のことだから、私がこのまま島にとどまったのでは、承知するはずもなく、ひいては私を預かった老人が恨みを買うことになるから、ともかく一度本土まで舟を渡して見せなければならぬ。
それも、徳さんが一人で舟を漕いで行ったのでは、なんの利き目もないのだが、幸い徳さんの息子が私と年齢も、背恰好も似寄りだから、その息子に私の洋服を着せ、遠目には私と見えるように仕立てて、本土へ渡すことにしよう。私は息子の着物を着て、徳さんの小屋に隠れていればよいというのであった。
「お前さんの用事がすむまで、息子にはお伊勢参りでもさせてやりましょう」
徳さんは、そんなことをいって笑った。
夕方ごろ徳さんの息子は私の洋服を着込んで、そり身になって、徳さんの持ち舟に乗り込んだ。
私の影武者を乗せた小舟は、徳さんを漕ぎ手にして、行手にどのような恐ろしい運命が待ちかまえているかも知らず、夕闇せまる海面を、島の切り岸に沿って進んで行った。