江戸川乱歩 孤島の鬼(32) 屋上の怪老人
屋上の怪老人
私は影武者のお蔭で危なく難を逃れたが、少しも助かったという気持はしなかった。徳さんの息子に化けている私は、うっかり小屋のそとへ姿を現わすこともできず、まして舟を漕いで島を抜け出すなんて、思いもよらぬことであった。私はまるで、私の方が犯罪人ででもあるように、昼間はじっと徳さんの小屋の中に隠れて、夜になると外気を呼吸したり、縮んでいた手足を伸ばすために、コソコソと小屋を這い出すのであった。
食物は、まずいのさえ我慢すれば、当分しのぐだけのものはあった。不便な島のことだから、徳さんの小屋には、米も麦も味噌も薪も、たっぷり買いためてあったのだ。私はそれから数日のあいだ、えたいの知れぬ干し魚をかじり、味噌をなめて暮らした。
私は当時の経験から、どんな冒険でも、苦難でも、実際ぶつかってみると、そんなでもない、想像している方がずっと恐ろしいのだ、ということを悟った。
東京の会社で算盤をはじいていたころの私には、まるで想像もつかない、架空のお話か夢のような境遇である。ほんとうに私は一人ぼっちで、徳さんのむさくるしい小屋の隅に寝ころんで、天井板のない屋根裏を眺め、絶え間ない波の音を聞き、磯の香を嗅ぎながら、このあいだからの出来事がみんな夢ではないかと、変な気持になったこともたびたびであった。それでいて、そんな恐ろしい境遇にいながら、私の心臓はいつもの通りしっかりと脈うっていたし、私の頭は狂ったようにも思われぬ。人間は、どんな恐ろしい事柄でも、いざぶつかってみると、思ったほどでもなく平気で堪えて行けるものである。兵士が鉄砲玉に向かって突貫できるのも、これだなと思って、私は陰気な境遇にもかかわらず、妙に晴ればれした気持にさえなるのであった。
それはとも角、私は先ず第一に、諸戸屋敷の土蔵の中に閉されている諸戸道雄に、事の仔細を告げて、善後の処置を相談しなければならなかった。昼間が怖いといって、暮れきってしまっては、電燈もない島のことだから、どうすることもできない。私は黄昏(たそがれ)どきの、遠目には人顔もさだかにわからぬ時分を見計らって、例の土蔵の下へ行った。心配したほどのこともなく、島中の人が死に絶えたかと思うように、どこにも人影はなかった。でも、私は目的の土蔵の窓の下にたどりつくと、ちょうどその土塀のきわにあった一つの岩を小楯に身を隠して、じっとあたりの様子をうかがった。
塀の中や土蔵の窓から人声でも漏れはせぬかと聞き耳を立てた。
夕闇の中に、蔵の窓は、ポッカリと黒い口を開けて、だまりこんでいる。遠くの波打際から響いてくる単調な波の音のほかには、なんの物音もない。「やっぱり夢を見ているのではないか」と思うほど、すべてが灰色で、青も色もない、うら淋しい景色であった。
長い躊躇ののち、私はやっと勇気を出して、用意してきた紙つぶてを、狙い定めて投げ上げると、白い玉が、うまく窓の中へ飛び込んだ。その紙に、私はきのうからの出来事をすっかり書きしるし、私たちはこれからどうすればいいのかと、諸戸の意見を聞いてやったのである。
投げてしまうと、また元の岩の蔭に隠れて、じつと待っていたが、諸戸の返事はなかなか戻ってこぬ。もしかしたら、彼は私がこの島を立ち去らなかったのを怒っているのではないかと、心配しはじめたころ、もうほとんど暮れきって、土蔵の窓を見わけるのもむずかしくなった時分に、やっと、その窓のところヘボンヤリと白い物が現われ、紙つぶてを私の方へ投げてよこした。
その白いものは、よく見ると諸戸ではなくて、懐かしい双生児の秀ちゃんの顔らしかったが、それが、闇の中でもなんとなく悲しげに打ち沈んでいるのが察しられた。秀ちゃんはすでに諸戸から委細のことを聞き知ったのであろうか。
紙つぶてをひろげて見ると、うす闇の中でも読めるように大きな字の鉛筆書きで、簡単にこんなことをしるしてあった。いうまでもなく諸戸の筆跡である。
「いまは何も考えられぬ。あすもう一度きてください」
それを読んで、私は暗然とした。諸戸は彼の父親ののっぴきならぬ罪状を聞かされて、どんなにか驚き悲しんだことであろう。私と顔を合わせることさえ避けて、秀ちゃんに紙つぶてを投げさせたのを見ても、彼の気持がわかるのだ。
私は、土蔵の窓からじっと、私の方を見つめているらしいボンヤリと白い秀ちゃんの顔に、うなずいて見せて、夕闇の中をトボトボ徳さんの小屋に帰った。そしてともし火もつけず、けもののようにゴロリと横になったまま、何を考えるともなく考えつづけていた。
翌日の夕方、土蔵の下へ行って合図をすると、今度は諸戸の顔が現われて、左のような文句をしたためた紙切れを、ヒョイと投げてよこした。
こんなになった私を見捨てないで、いろいろ苦労をしてくれたのは、感謝の言葉もない。ほんとうのことをいうと、僕は君がこの島を去ったものと思って、どんなにか失望していただろう。僕は君と離れては、淋しくて生きていられないことが、しみじみわかった。丈五郎の悪事もはっきりした。僕はもう親子というようなことを考えないことにしよう。父は憎いばかりだ。愛情なんて少しも感じない。かえって他人の君にはげしい執着をおぼえる。君の助けを借りてこの土蔵を抜け出そう。そして、可哀そうな人たちを救わねばならぬ。初代さんの財産を発見せねばならぬ。それはつまり君を富ませることだからね。土蔵を抜け出すについては僕に考えがある。少し時期を待たねばならぬ。その計画については、おいおいに知らせることにしよう。毎日人目のないおりを見計らって、できるだけたびたび土蔵の下へきてください。昼間でもここへはめったに人もこないから大丈夫です。
諸戸は一度ぐらついた決心をひるがえして、親子の義理を断ったのである。だが、その裏には、私に対する不倫な愛情が、重大な動機になっていることを思うと、私は非常に変てこな気持になった。諸戸の不思議な熱情は、私には到底理解ができなかった。むしろ怖いようにさえ思われた。
それから五日のあいだ、私たちはこの不自由な逢瀬(おうせ)をつづけた(逢瀬とは変な言葉だが、そのあいだの諸戸の態度は、なんとなくこの言葉にふさわしかった)。その五日間の私の心持なり行動なりを、詳しく思い出せば、ずいぶん書くこともあるけれど、全体のお話には大して関係のないことだから、すべて略することにして、要点だけをつまんでみると、あの謎のような出来事を発見したのは、三日目の早朝、諸戸と紙つぶての文通をするために、私が何気なく土蔵に近づいたときであった。
まだ朝日の昇らぬ前で、薄暗くもあったし、それに島全体を朝もやが覆っていて、遠目が利かなかったせいもあるが、何よりも、それがあまり意外な場所であったために、私は例の塀そとの岩の五、六間手前まで、まるで気づかないでいたが、ふと見ると、土蔵の屋根の上に、黒い人影がモゴモゴとうごめいているではないか。
[やぶちゃん注:「五、六間」九メートル強から十一メートル弱。]
ハッとして、やにわにあと戻りをして、土塀の角に身を隠して、よく見ると、屋根の上の人物というのは、はかならぬ佝僂の丈五郎であることがわかった。顔を見ずとも、からだ全体の輪廓でたちまちそれとわかるのだ。
私はそれを見ると、諸戸道雄の身の上を気遣わないではいられなかった。この片輪の怪物が姿を見せるところ、必らず凶事が伴なった。初代が殺される前に怪老人を見た。友之助が殺された晩には、私はその醜い後姿を目撃した。そしてついこのあいだは、彼が断崖の上で鶴嘴を揮うと見るや、徳さん親子が魔の淵の藻屑と消えたではないか。
だが、まさか息子を殺すことはあるまい。殺し得ないからこそ、土蔵に幽閉するような手ぬるい手段をとったのではないか。
いやいや、そうではない、道雄のほうでさえ親に敵対しようとしているのだ。それをあの怪物がわが子の命を奪うくらい、なにを躊躇するものか。道雄があくまで敵対すると見きわめがついたものだから、いよいよ彼をなきものにしようと企らんでいるにちがいない。
私が塀の蔭に身を隠して、やきもきとそんなことを考えているあいだに、怪物丈五郎は、少しずつ薄らいで行く朝もやの中に、だんだんその醜怪な姿をハッキリさせながら、屋根の棟の一方の端に跨(また)がって、頻(しき)りと何かやっていた。
ああ、わかった。鬼瓦(おにがわら)をはずそうとしているのだ。
そこには、土蔵の大きさにふさわしい、立派な鬼瓦が、屋根の両端に、いかめしくすえてあった。東京あたりではちょっと見られぬような、古風な珍らしい型だ。
あの鬼瓦をはがせば、屋根板一枚の下は、すぐ諸戸道雄の幽閉された部屋である。危ない危ない、頭の上で恐ろしい企らみが行われているとも知らず、諸戸はあの下でまだ眠っているかもしれない。といって、あの怪物のいる前で、口笛を吹いて合図をすることもできず、私はイライラするばかりで、なにをすることもできないのである。
やがて、丈五郎はその鬼瓦をすっかりはずして、小脇にかかえた。二尺以上もある大瓦なので、片輪者には抱えるのもやっとのことである。
さて、次には鬼瓦の下の屋根板をめくって、道雄と双生児の真上から丈五郎の醜い顔がヒョイと覗いて、ニヤニヤ笑いながら、いよいよ残虐な殺人にとりかかる。
私はそんなまぼろしを描いて、腋の下に冷汗を流しながら、立ちすくんでいたのだが、意外なことには、丈五郎は、その鬼瓦を抱えたまま、屋根の向こうがわへおりて行ってしまった。邪魔な鬼瓦をどこかに運んでおいて、身軽になって元のところへ戻ってくるのかと、いつまで待っていても、そんな様子はないのである。
私はおずおずと塀の蔭から例の岩のところまで進んで、そこに身を隠して、なおも様子をうかがっていたが、そのうちに朝もやはすっかり晴れ渡り、岩山の頂上から大きな太陽が覗き、土蔵の壁を赤々と照らすころになっても、丈五郎はついに姿を見せなかったのである。