老媼茶話巻之六 五勇ヲ分ツ
分(ワカツ)二五勇ヲ一
夫(それ)、長劍を帶し、榛荊(シンケイ)に分ケ入(いり)、兕豹(ケイヒヤウ)をたゝき、虎熊(コユウ)を打(うち)おそれざる。是、獵者の勇也。
劍を負(おひ)て深渕(シンエン)に潛(カヅキ)入(いり)、蚊龍(コウリヤウ)を取(とり)ひしぎ、黿鰐(ゲンガク)をうつは、是、漁者の勇也。
高くあやうき屋上(ヲクじやう)に登り、四方鵠立(コウリヤウ)して顏色へんぜず、もゝふるはず。是、工匠の勇也。
剽(キツ)ては必ず刺(サシ)、視(ミ)ては必(かならず)、殺す。是、典刑の勇也。
君父の爲に、其身、粉骨碎身(フンコツサイシン)せらるゝに、志(こころざし)、くつせず、變ぜざる。是、仁義の勇也。
[やぶちゃん注:「榛荊(シンケイ)」単漢字では「榛」はブナ目カバノキ科ハシバミ属ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii を、「荊」はバラ類(バラ目バラ科 Rosaceae)・カラタチ(ムクロジ目ミカン科カラタチ属カラタチ Poncirus trifoliata)等の有意な棘(とげ)のある低木の総称であるが、これはそれらを主とした、いらいらと肌を刺す藪や鋭い棘を持った茨(いばら)類の茂る雑木林などの謂い。「荊榛」(けいしん)とも書く。
「兕豹(ケイヒヤウ)」「兕」は中国の想像上の水牛に似た一角獣であるが、それの角として輸入されたのはサイの角であり、後、この漢字は雌の犀を意味する字となった。しかしここはまあ、獰猛な獣や豹(ひょう)の意で採ればよかろう。問題は読みで、「兕」は呉音が「ジ」、漢音が「シ」であって「ケイ」という音はなく、「豹」も「ヒョウ」の歴史的仮名遣は「ヘウ」であるから、おかしい。
「深渕」底本が敢えてこの字を用いているので、原典がこれであろうと推理し、そのまま使った。
「黿鰐(ゲンガク)」「黿」は現現代国で、爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科 Trionychinae のスッポンでも大型種で吸着力もハンパないマルスッポン属マルスッポン
Pelochelys cantorii を指す。顎の力が強く、嘴も鋭いため、噛まれると、かなりひどい怪我を負うこともある。されば、ここは大すっぽんと鰐(わに)と採ってよかろう。わざわざ本邦の「わに」=鮫の意に読み換える必要は私はないと思う。ここで語られていることは、使用されている漢字からも、多分に大陸的な本草学に基づくものであるからである。
「鵠立(コウリヤウ)」大きな体の白鳥が首をすっくと立てて、四方を泰然自若として見廻すように、大工が高い屋根の上でも平然と立って仕事ができることを比喩していよう。但し、読みが矢張りやや問題で、正規の音は「鵠」が呉音で「コク・ゴク」、漢音で「コク」であること(但し、本邦では慣用音として「コウ」の音もあるにはある)、「立」は呉音・漢音ともに「リユウ」で慣用音も「リツ」であるから、この読みはやはりおかしい。どうも、ある種の確信犯で、わざと前条の「蚊龍(コウリヤウ)」と対(つい)にして、かく読んだのではないかと疑いたくなる仕儀である。
「剽(キツ)て」この字は音は基本「ヘウ(ヒョウ)」であるものの、「脅かす・刺す・斬る」の意であるから、ここは「斬(き)つて」の当て読みをしていると採る。後が極悪の罪を犯した者を非難して「凝っと見つめる」だけでなく、実際に「死刑に処する」というニュアンスのそれであるのに対して、同じく「脅す」だけでなく、実際に「刺し」て処罰すると採るべきかも知れぬが、それでは「キツ」の音が説明不能となる。]