江戸川乱歩 孤島の鬼(44) 意外の人物 / 最終章突入!
意外の人物
諸戸は私を離した。私たちは動物の本能で、敵に対して身構えをした。
耳をすますと、生きものの呼吸が聞こえる。
「シッ」
諸戸は犬を叱るように叱った。
「やっぱりそうだ。人間がいるんだ。オイ、そうだろう」
意外にも、その生き物が人間の言葉をしゃべった。年とった人間の声だ。
「君は誰だ。どうしてこんなところへきたんだ」
諸戸が聞き返した。
「お前は誰だ。どうしてこんなところにいるんだ」
相手も同じことをいった。
洞窟の反響で、声が変って聞こえるせいか、なんとなく聞き覚えのある声のようでいて、その人を思い出すのに骨が折れた。しばらくのあいだ、双方探り合いの形で、だまっていた。
相手の呼吸がだんだんハッキリ聞こえる。ジリジリと、こちらへ近寄ってくる様子だ。
「もしや、お前さんは、諸戸屋敷の客人ではないかね」
一間ばかりの近さで、そんな声が聞こえた。今度は低い声だったので、その調子がよくわかった。
私はハッと或る人を思い出した。だが、その人はすでに死んだはずだ。丈五郎のために殺されたはずだ……死人の声だ。一刹那、私はこの洞窟がほんとうの地獄ではないか、私たちはすでに死んでしまったのではないか、という錯覚をおこした。
「君は誰だ。もしや……」
私が言いかけると、相手は嬉しそうに叫び出した。
「ああ、そうだ。お前さんは蓑浦さんだね。もう一人は、道雄さんだろうね。わしは丈五郎に殺された徳だよ」
「ああ、徳さんだ。君、どうしてこんなところに」
私たちは思わず声を目当てに走り寄って、お互いのからだを探り合った。
徳さんの舟は魔の淵のそばで、丈五郎の落とした大石のために顚覆した。だが、徳さんは死ななかったのだ。ちょうど満潮のときだったので、彼のからだは、魔の淵の洞窟の中へ吸い込まれた。そして、潮が引き去ると、ただ一人闇の迷路にとり残された。それからきょうまで、彼は地下に生きながらえていたのだった。
「で、息子さんは? 私の影武者を勤めてくれた息子さんは?」
「わからないよ、おおかたサメにでも食われてしまったのだろうよ」
徳さんはあきらめ果て調子であった。無理もない。徳さん自身、再び地上に出る見込みもない、まるで死人同然の身の上なんだから。
「僕のために、君たちをあんな目に会わせてしまって、さぞ僕を恨んでいるだろうね」
私はともかくも詫びごとをいった。だが、この死の洞窟の中では、そんな詫びごとが、なんだか空々しく聞こえた。徳さんはそれには、なんとも答えなかった。
「お前たち、ひどく弱っているあんばいだね。腹がへっているんじゃないかね。それなら、ここにわしの食い残りがあるから、たべなさるがいい。食い物の心配はいらないよ、ここには大ガニがウジャウジャいるんだからね」
徳さんがどうして生きていたかと、不審にたえなかったが、なるほど、彼はカニの生肉で飢(うえ)をいやしていたのだ。私たちはそれを徳さんに貰ってたべた。冷たくドロドロした、塩っぱい寒天みたいなものだったが、実にうまかった。私はあとにも先にも、あんなうまい物をたべたことがない。
[やぶちゃん注:「塩っぱい」「しょっぱい」。]
私たちは徳さんにせがんで、さらに幾匹かの大ガニを捕えてもらい、岩にぶつけて甲羅を割って、ペロペロと平らげた。いま考えると無気味にも汚なくも思われるが、そのときは、まだモヤモヤと動いている太い足をつぶして、その中のドロドロしたものを啜るのが、なんともいえずうまかった。
飢餓(きが)が回復すると、私たちは少し元気になって、徳さんとお互いの身の上を話し合った。
「そうすると、わしらは死ぬまでこの穴を出る見込みはないのだね」
私たちの苦心談を聞いた徳さんが、絶望の溜息をついた。
「わしは残念なことをしたよ。命がけで、元の穴から海へ泳ぎ出せばよかったのだ。それを、渦巻に巻き込まれて、とても命がないと思ったものだから、海へ出ないで穴の中へ泳ぎ込んでしまったのだよ。まさかこの穴が、渦巻よりも恐ろしい、八幡の藪知らずだとは思わなかったからね。あとで気がついて引き返してみたが、路に迷うばかりで、とても元の穴へ出られやしない。だが、何が幸いになるか、そうしてわしがさ迷い歩いたお蔭で、お前さんたちに会えたわけだね」
「こうしてたべ物ができたからには、僕たちは何も絶望してしまうことはないよ。百に一つまぐれ当たりでそとへ出られるものなら、九十九度まで無駄に歩いて見ようじゃないか、何日かかろうとも、幾月かかろうとも」
人数がふえたのと、カニの生肉のお蔭で、にわかに威勢がよくなった。
「ああ、君たちはもう一度娑婆の風に当たりたいだろうね。僕は君たちが羨ましいよ」
諸戸が突然悲しげに呟いた。
「変なことを言いなさるね。お前さんは命が惜しくはないのかね」
徳さんが不審そうに尋ねた。
「僕は丈五郎の子なんだ。人殺しで、かたわ者製造の、悪魔の子なんだ。僕はお日さまが怖い。娑婆に出て、正しい人たちに顔を見られるのが恐ろしい。この暗闇の地の底こそ悪魔の子にはふさわしい住みかかもしれない」
可哀そうな諸戸。彼はその上に、私に対する、さっきのあさましい所行を恥じているのだ。
「もっともだ。お前さんはなんにも知らないだろうからね。わしはお前さんたちが島へきたときに、よっぽどそれを知らせてやろうかと思った。あの夕方、わしが海辺にうずくまって、お前さんたちを見送っていたのを覚えていなさるかね。だが、わしは丈五郎の返報が恐ろしかった。丈五郎を怒らせては、いっときもこの島に住んではいられなくなるのだからね」
徳さんが妙なことを言い出した。彼は以前諸戸屋敷の召使いであったから、ある点まで丈五郎の秘密を知っているはずだ。
「僕に知らせるって、何をだね」
諸戸が身動きをして、聞き返した。
「お前さんが、丈五郎のほんとうの子ではないということをさ。もうこうなったら何をしゃべってもかまわない。お前さんは丈五郎が本土からかどわかしてきたよその子供だよ。考えてもみるがいい、あの片輪者の汚ならしい夫婦に、お前さんのような綺麗な子供が生れるものかね。あいつのほんとうの子は、見世物を持って方々巡業しているんだよ。丈五郎に生き写しの佝僂だ」
読者は知っている、かつて北川刑事が、尾崎曲馬団を追って静岡県のある町へ行き、一寸法師に取り入って、「お父つぁん」のことを尋ねたとき、一寸法師が「お父つぁんとは別の若い佝僂が曲馬団の親方である」といったその親方が、丈五郎の実の子だったのだ。
徳さんは語りつづける。
「お前さんもどうせ片輪者に仕込むつもりだったのだろうが、あの佝僂のお袋がお前さんを可愛がってね、あたり前の子供に育て上げてしまった。そこへもってきて、お前さんがなかなか利口者だとわかったものだから、丈五郎も我(が)を折って、自分の子として学問を仕込む気になったのだよ」
なぜ自分の子にしたか。彼は悪魔の目的を遂行する上に、真実の親子という、切っても切れぬ関係が必要だったのだ。
ああ、諸戸道雄は悪魔丈五郎の実子ではなかったのである。驚くべき事実であった。
[やぶちゃん注:本章を含む本作の最終五章は初出では第十四回に相当する。この回のみ、竹中英太郎氏の挿絵標題には、回数表示がなく、そのかわりに『完結』(右から左への横書)の文字が書き込まれてある。]