柴田宵曲 俳諧博物誌 (3) 鳶 二
二
鳶の舞台は天空である。しかも常に高所を飛んでいる。鳥と名がつく以上、空を飛ばぬ族(やから)は稀であるが、われわれの親しく見得る範囲において、鳶の如く悠々たる高空飛行を続けている者はあるまい。「鳶の輪」という言葉は、高空における鳶の動作を描いて遺憾なきものである。
鳶の輪につれて寄らばや山ざくら 丈 艸
鳶の輪の下に野中の柳かな 百 杖
鳶の輪の下に鉦(かね)うつ彼岸かな 大江丸
三句とも春の句であるのは偶然であろうか。丈艸の句は「つれて寄らばや」という中七字が、少しく不明瞭のように思われるが、一本に「鳶の輪の崩れて入(いり)や」とあり、これに従えば句意も明であるのみならず、今まで長閑に舞っていた鳶が、急に輪を崩して山桜の梢に見えなくなったという点で、一句の上に或(ある)変化を生ずることになる。先年山崎から宝寺(たからでら)辺に遊んだ時、図らずもこの句と同じ光景に遭遇してなるほどと思った。丈艸の句は何処かわからぬが、実景を捉えたものであることは疑(うたがい)を容(い)れぬ。
[やぶちゃん注:「山崎から宝寺(たからでら)辺」「宝寺」は京都府乙訓郡大山崎町(おおやまざきちょう)の天王山中腹にある真言宗天王山(又は銭原山)宝積寺(ほうしゃくじ:本尊十一面観音。養老八・神亀元(七二四)年に聖武天皇の勅命を受けた行基が開いたと伝承し、聖武天皇が夢で竜神から授けられたとする「打出」と「小槌」(両者は別の物。前者は短い握りとその上に刻みのついた打部がある小型の棒状のもの)を祀ることから「宝寺(たからでら)」の別名がある。この附近(東海道本線山崎駅から宝積寺辺り。グーグル・マップ・データ)を散策したということであろう。]
春風や動くともなき鳶の羽 嘯山(せうざん)
鳶飛(とん)で影も動かず花盛(はなざかり)
乙由(おついう)
澄切(すみきつ)て鳶舞ふ空や秋うらゝ
正己(せいき)
これらは「鳶の輪」の語は用いてないけれども、輪を描くのとほぼ同様の状態であろう。乙由の句は世界において丈州の句に近い。ただ丈州の方は「崩れて入や」の語によって、鳶の輪と山桜とを巧(たくみ)に繋いでいるに反し、乙由の「花盛」は漠然としていて、季節を現す以外に一向その景色が浮んで来ないのである。
長閑(のどか)さや尾羽に楫(かぢ)取ル雲の鳶
桃先(たうせん)
はるの日や鳶の尾ひねるうら表 輕舟
の二句は、天空の鳶に対し、更にこまかな観察を試みたのであるが、少しく細工に堕した傾(かたむき)がある。桃先の句に「天の鳶淵の魚」という前書がついているのは、『詩経』の「鳶飛戾天。魚躍干淵」を引いたに過ぎぬにしろ、眼前の自然を直視する者に取っては、一枚の故紙も或隔りとならざるを得ない。しばらく『詩経』を伏せて、この句を三誦(さんしょう)して見ても、竟に生々(せいせい)たるものを欠いているのをどうすることも出来ぬ。
[やぶちゃん注:「鳶飛戾天。魚躍干淵」正字化した。「詩經」の「大雅」にある「旱麓(かんろく)」の第三連の一節。
鳶飛戾天
魚躍于淵
豈弟君子
遐不作人
鳶(とび)飛びて天に戾(いた)り
魚(うを)淵に躍(をど)る
豈弟(がいてい)の君子よ
遐(なん)ぞ人を作(な)さざらん
これは現在、幼き領主君子への祭事の後に捧げられた言祝ぎの詩と考えられており、「鳶が限りなき天空の果てまで自由自在に飛び上り、魚が深い淵で自ずから楽しんで飛び跳ねる如く、天然自然の理に従って、若き御子におかせられては、何事もなく成長なされ、立派な君子となられますように」と言った謂いであろう。]
鳶に乘(のつ)て春を送るに白雲や 其角
鳶の羽や夕日にすきて雲の峯 荻人(てきじん)
雲の峯これにも鳶の舞ふ事よ 之房(しばう)
鳶ののぼる限りなき哉雲の峯 榎柢(かてい)
鳶鴉(からす)空は隙なし秋の雲 鼠彈
風哉庵
しぐれせぬ時には雲に鳶一つ 野坡
鳶の句に雲が出て来るのは自然の順序であろう。其角の旬は『田舎之句合(いなかのくあわせ)』に出ている。彼がいまだ二十歳、蕉門の立脚地の全く走らぬ時代だから、自然の趣に遠いのは致方(いたしかた)がない。「鳶に乘て春を送る」は慥(たしか)に奇想で、後年の其角の面目は多少この裡(うち)に見えている。雲の峯の三句の中では、荻人の「鳶の羽」が最もすぐれているかと思う。夕日の前を飛ぶ鳶の羽が明に透いて見える光景は、われわれもしばしば目撃した。大きな雲の峯を背景にして、夕日の鳶をはっきり描いたところに、この句の特色を認めなければならぬ。之房及(および)榎抵の句はこれに比べると抽象的で、高く翔(かけ)る鳶の姿を髣髴するものがない。
子規居士の句に「大凧(おほだこ)に近よる鳶もなかりけり」という句があるが、凧を紙鳶(いか)といい、支那には古く木鳶(もくえん)なるものもあったらしいから、因縁浅からざる間柄であろう。凧の揚る春の空に鳶も舞う。この二つの配合には、古人も興味を持っていたようである。
[やぶちゃん注:「木鳶(もくえん)」戦国時代の「韓非子」の「外儲説左上」の中に、先行する「兼愛」の思想家で優れた技術者でもあったとされる墨子が「木鳶」(木製のグライダーのようなものと推定される)を作ったとする記載(但し、人の技術力は万能ではない例として批判的に)が出る。
*
墨子爲木鳶、三年而成、蜚一日而敗。弟子曰、「先生之巧、至能使木鳶飛。」。墨子曰、「吾不如爲車輗者巧也、用咫尺之木、不費一朝之事、而引三十石之任致遠、力多、久於歲數。今我爲鳶、三年成、蜚一日而敗。」。惠子聞之曰、「墨子大巧、巧爲輗、拙爲鳶。」。
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墨子、木鳶を爲(つく)り、三年にして成り、蜚(と)ぶこと、一日(じつ)にして敗(やぶ)る。弟子、曰く、
「先生の巧(かう)、能(よ)く木鳶をして飛ばしむるに至る。」
と。墨子、曰く、
「車輗(しやげい)を爲る者の巧みなるに如(し)かざるなり。咫尺(しせき)の木を用ひ、一朝の事を費さずして、三十石の任を引く。遠きを致すに、力、多く、歳數に久し。今や、我れ、鳶を爲るに、三年にして成り、蜚ぶこと一日にして敗る。」
と。
惠子、之れを聞きて曰く、
「墨子は大巧なり。輗を爲るを巧とし、鳶を爲るを拙とす。」
と。
*
「車輗」は車の轅(ながえ)の端と軛(くびき)とを結びつける小さな器具。]
きれ凧も鳶も嵐の行方かな 玉羽
寄見ては又のく鳶やいかのぼり 嘯山
生烏賊(なまいか)や鳶引懸(ひつかけ)ていかのぼり
箇口
嘯山の句は子規居士よりこまかいところを見せたが、少し説明に流れた嫌(きらい)がある。鳶の攫った生烏賊を直に「いかのぼり」というが如きは、滑稽というよりも駄酒落で、芭蕉以後の句らしくもない。嵐の空に凧は切れて飛び、鳶も遠く舞い去る玉羽の句は、平凡なように見えて、やはり生趣に富んでいる。
古鳶のきげんなほりぬ朝がすみ 士朗
鳶はまだ霞(かすみ)て居るや更衣(ころもがへ)
朱拙
塵ほどに鳶舞上る卯月かな 梅室
鳶舞て霧に霧ふる太空(みそら)かな 丿松(べつしよう)
これらはいずれも天空遥(はるか)なる鳶を描いている。朱拙の句はちょっと人間が顔を出すようであるが、この場合の人はさほど重要な役をつとめていない。現在衣を更(か)えつつある人がどうとかいうよりも、更衣の季節が主になっている。即ち首夏(しゅか)の侯に当って衣を更える、折ふし鳶の舞う空は、春の名残をとどめて、ほのかに霞んでいる、という意である。暦の上の春と夏とは截然(せつぜん)と区別し得ても、風物の上では混雑を免れぬ。夏霞という季題さえ存在する以上、空が霞んでいたところで、何の不思議もないわけだけれども、それをどこまでも春の名残と見る。こういう観察なり表現なりは、俳句として決して上乗(じょうじょう)のものではない。けれども「古鳶のきげんなほりぬ」という擬人的な趣向や、「塵ほどに鳶舞上る」という誇張された形容に比べると、やはり元禄期の句らしい自然なところがある。「霧に霧ふる」というのは、一面の霧の上に更に霧が立ち重(かさな)る場合であろう。大空の鳶もあるいはそのために姿を見失ってしまうかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「首夏(しゅか)」夏の初め。初夏。陰暦四月の異称でもある。
「空が霞んでいたところで、何の不思議もないわけだけれども、それをどこまでも春の名残と見る。こういう観察なり表現なりは、俳句として決して上乗(じょうじょう)のものではない」と主張するのであれば、季語など不要であり、題詠に拠る無精詠吟など愚の骨頂である。私の俳句体験は中学時代に自由律俳句の「層雲」から始まった経緯もあり、無季俳句を支持する人間である。そもそもが、芭蕉は「季の詞ならざるものはない」とはっきり言っている。俳諧俳句に用いられる語彙が正しく正確に選ばれたものであればあるほど、その中には必ず絶対的属性として季節が既にして「ある」のである。]
鳶の羽の力見せ行野分かな 玉志(ぎよくし)
冬近き日のあたりけり鳶の腹 白雄
の如き句になると、同じく天空を舞いながらも、野分とか日光とかいうものが加わるために、自(おのずか)らその動きが中心になって来る。白雄の句は分類すれば秋の季に入るわけだが、一句から受ける感じはむしろ冬の分子が多い。頭上低く舞う鳶の腹に、やや斜になった日影があかあかとさすという光景は、われわれも何時(いつ)か何処かで仰いだ記憶があり、慥に「冬近き」季節とぴったり合うものである。こういう微妙な感じを捉えることは、正に俳人得意のところであろう。
鳶ほどな雲夕立のはじめかな 鼠卜
市中夕立といふ題
鳶の香も夕だつかたに腥(なまぐさ)し 其角
前の句は最初鳶位な大きさであった黒雲が、遂に一天にひろがって沛然(はいぜん)たる夕立を齎(もたら)すというので、鳶はただ雲の形容に用いられたに過ぎぬ。後の句は題を得て詠んだものの如くであるが、一句の趣は頗る異色に富んでおり、鳶の多かった江戸市中の空気が連想されるのみならず、爽快なる驟雨の感が十七字に溢れている。仮にこういう題があったにしても、この趣は都会詩人たる其角の実感から生れたものに相違ない。鳴雪翁は『其角研究』でこの句を説くに当り、漢詩では「龍氣腥」などといって、夕立に腥の字をよく用いる、という意味のことをいわれたかと思う。言葉は其角一流に捻っているが、鳶を描いて鳶を離れ、一脈の涼風を紙表に漂わしむる点で、この句は嶄然(ざんぜん)他を抽(ぬ)いている。渡辺華山の俳画に市中白雨(はくう)らしい光景を画いて、それに「鳶の香」の一句が遺してあったことを思い出す。
[やぶちゃん注:「沛然(はいぜん)」雨が勢いよく降るさま。
「龍氣腥」例えば、晩唐期、李商隠とともに「温李」と並称された温庭筠の「秋雨」に、
秋雨
雲滿鳥行滅
池涼龍氣腥
斜飄看棋簟
疏灑望山亭
細響鳴林葉
圓文破沼萍
秋陰杳無際
平野但冥冥
とある。
「嶄然(ざんぜん)」「嶄」は「高く険しい」の意で、「一段高く抽(ぬき)ん出ているさま」「一際、目立つさま」を言う。
『渡辺華山の俳画に市中白雨(はくう)らしい光景を画いて、それに「鳶の香」の一句が遺してあった』「白雨(はくう)」は明るい空から降る雨。俄か雨のこと。この絵、見て見たい(但し、それらしい題名で贋物もあるようだ)。識者の御教授を乞う。]
二里程は鳶も出て舞ふ汐干(しほひ)かな 太祇
この句は天空の鳶を描くと共に、地上の世界をも描いている。その世界は一面の汐干潟であるため、天地の寄合の極みまで一陣に入る大観となつて、われわれの眼前に展けて来る。干潟の空に舞う鳶を遥に眺めて、あれは二里位も沖であろうと感じたのを、「二里程は鳶も出て舞ふ」と断定的な表現を用いたところに、太祇の長所もあれば短所もある。鳶が海天に舞うのは、汐干の際に限ったわけではないが、何ら眼を遮(さえぎ)る物のない干潟は、この高空飛行者に取って絶好の舞台でなければならぬ。彼は悠々と輪をかきながら、太祇の目測に従えば二里ほども沖の空に出つつある。瞰下(かんか)する大干潟に蠢(うごめ)く小動物は、悉くその鋭い双眼に収(おさま)り、時あって颯(さっ)とおろして来れば、漏(もれ)なくその餌食(えじき)になるのであろうが、太舐はそういう点に力を入れず、「二里程は鳶も出て舞ふ」の一語によって、汐干潟の広さを現そうとした。こんな大観を捉えたものも、鳶の句としては珍しいのである
鳶鴉目早き空の雪解(ゆきげ)かな 素丸(そまる)
蛙(かはづ)なく田のいなづまや鳶の影
野坡
空中にある鳶の眼は何に注がれているか、素丸はその消息を詳(つまびらか)にしておらぬが、野坡はほぼこれを伝えている。春もやや深くなって、蛙が頻(しきり)に鳴立てる水田の上に、鳶が颯とおろして来る趣を「いなづま」と形容したものであろう。地上の小動物が鳶の影におののくことは前に述べた。平和な田園の音楽師も、一たびこの影の水田を掠(かす)めるに及んでは、敵機来襲以上に驚いて、鳴りをひそめるに相違ない。この句における鳶は、纔(わずか)にその影を水田に落すに過ぎぬけれども、それだけで猛禽の本色は十分に現れている。彼は徒(いたずら)に悠々として青天に輪をかいているわけではない。