江戸川乱歩 孤島の鬼(14) 意外な素人探偵
意外な素人探偵
諸戸はなぜか非常に心配そうな様子を見せた。それから彼はなおも、私に食堂へ行くことを勧めたが、私が固辞するので、彼はあきらめて、例の書生を呼び出してこんなことを命じた。
「食堂にいるお客さんにね、ごはんをたべさせて、退屈しないように、君と婆やとで、よくお守りをしてくれたまえ。帰るなんて言い出すと困るからね。何かおもちゃがあったかしら……あ、それから、このお客さまにお茶を持ってくるのだ」
書生が去ると、彼はしいて作った笑顔で、私の方に向き直った。そのあいだに、私は部屋の一方の隅に置いてあった問題の七宝の花瓶に気づいて、こんな場所にそれを放り出しておく彼の大胆さに、いささか呆れた。
「立派な花瓶ですね。これ、僕どこかで一度見たような気がするんですが」
私は諸戸の表情に注意しながら尋ねた。
「ああ、あれですか。見たかもしれませんよ。初代さんの家の隣りの道具屋で買ってきたんだから」
彼は驚くべき平静さで答えた。それを聞くと、私はちょっと太刀打ちができない気がして、やや心臆するのを覚えた。
「僕は会いたかったのですよ。久しく君と打ちとけて話をしないんだもの」
諸戸は酔いにまぎらせて、少しく甘い言葉づかいをした。上気した頰が美しく輝き、長いまつげにおおわれた眼が、なまめかしく見えた。
「このあいだ巣鴨では、なんだか恥かしくていえなかったけれど、僕は君にお詫びしなければならないのです。君が許してくれるかどうかわからぬほど、僕はすまぬことをしているんです。でも、それは、僕の情熱がさせた業(わざ)、つまり僕は君を他人にとられたくなかったのです。いや、こんな自分勝手なことをいうと、君はいつものように怒るだろうけれど、君だって僕の真剣な気持はわかっていてくれるほずだ。僕はそうしないではいられなかったのです……君は怒っているでしょう。ね、そうでしょう」
「あなたは初代さんのことをいっているのですか」
私ほぶっきらぼうに聞き返した。
「そうです。僕は君とあの人のことが、ねたましくて堪えられなかったのです。それまでは、たとえ君は僕の心持をほんとうに理解してくれぬにもせよ、少なくとも君の心は他人のものではなかった。それが、初代さんというものが君の前に現われてから、君の態度が一変してしまった。覚えていますか、もう先々月になりますね。一緒に帝劇を見物した夜のことを。僕は君のあの絶えず幻を追っているような眼の色を見るに堪えなかった。その上、君は残酷にも平気で、さも嬉しそうに、初代さんの噂をさえ聞かせたではありませんか。僕があの時どんな心持だったと思います。恥かしいことです。いつもいう通り、僕はこんなことで君を責める権利なぞあろう道理はないのです。でも、僕はあの君の様子を見て、この世のすべての望みを失ってしまったような気がした。ほんとうに悲しかった。君の恋も悲しかったが、それよりも一層、僕のこの人なみでない心持が恨めしくてしようがなかった。それ以来というもの、僕が幾度手紙を上げても、君は返事さえくれなかったでしょう。以前はどんなにつれない返事にもせよ、返事だけはきっとくれたものだったのに」
いつになく、酔っている諸戸は雄弁であった。彼の女々(めめ)しくさえ見えるくりごとは、だまっていれば果てしがないのである。
「それで、あなたは、心にもない求婚をなすったのですか」
私は憤(いきどお)ろしく、彼の饒舌を中断した。
「君はやっぱり怒っている。無理はありません。僕はどんなことをしてでも、このつぐないをしたいと思います。君は土足で僕の顔を踏んづけてくれてもかまわない。もっとひどいことでもいい。全く僕が悪かったのだから」
諸戸は悲しげ誓った。だがそんなことで、私の怒りがやわらげられるものではなかった。
「あなたは自分のことばかりいっていらっしゃる。あなたはあまり自分勝手です。初代さんは僕の一生涯にたった一度出会った、僕にとってかけ換えのない女性なんです、それを、それを……」
しゃべっているうちに、新たな悲しみがこみ上げてきて、私はつい涙ぐんでしまった。そしてしばらく口を利くことができなかった。諸戸は私の涙にぬれた眼をじっと見ていたが、いきなり、両手で、私の手を握って、
「堪忍してください。堪忍してください」
と叫びつづけるのであった。
「これが勘弁できることだとおっしゃるのですか」私は彼の熱した手を払いのけていった。「初代は死んでしまったのです。もう取り返しがつかないのです。私は暗闇の谷底へつき落とされてしまったのです」
「君の心持はわかり過ぎるほどわかっている。でも、君は僕にくらべれば、まだ仕合わせだったのですよ。なぜといって、僕があれほど熱心に求婚運動をしても、義理のあるお母さんがあれほど勧めても、初代さんの心は少しもゆるがなかった。初代さんはあらゆる障碍を見むきもせず、あくまで君を思いつづけていた。君の恋は充分すぎるほど報われていたのです」
「そんな言い方があるもんですか」私はもう泣き声になっていた。「初代さんの方でも、僕をあんなに思っていてくれたればこそ、あの人を失った今、僕の悲しみは幾倍するのです。そんな言い方ってあるもんですか。あなたは求婚に失敗したものだから、それだけでは、あきたりないで、その上、その上……」
だが、私はさすがに、その次の言葉を言いよどんだ。
「え、なんですって。ああ、やっぱりそうだつた。君は疑っているね。そうでしょう。僕に恐ろしい嫌疑をかけている」
私はいきなりワッと泣き出して、涙の下から途切れ途切れに叫んだ。
「僕はあなたを殺してしまいたい。殺したい。ほんとうのことをいってください。ほんとうのことをいってください」
「ああ、僕はほんとうにすまないことをした」諸戸は再び私の手をとってそれを静かにさすりながら、「恋人を失った人の悲しみが、こんなだとは思わなかった。だが、蓑浦君、僕は決して噓はいわない。それはとんだ間違いですよ。いくらなんだって、僕は人殺しのできる柄じゃない」
「じゃあ、どうしてあんな気味のわるい爺さんがここの家へ出入りしているんです。あれは初代さんの見た爺さんです。あの爺さんが現われてから間もなく、初代さんが殺されてしまったんです。それから、なぜあなたはちょうど深山木さんの殺された日に、あすこにいたんです。そして、疑いを受けるようなそぶりを見せたんです。あなたはなぜ鶯谷の曲馬団へ出入りしたんです。僕は、あなたが、あんなものに興味を持っているなんて、一度も聞いたことがない。あなたはどうして、その七宝の花瓶を買ったんです。この花瓶が初代さんの事件に関係あることを、僕はちゃんと知っているんです。それから、それから」
私は狂気のように洗いざらいしゃべり立てた。そして、言葉が途切れると、まっ青になって、激情の余り瘧(おこり)みたいにブルブルと震え出した。
[やぶちゃん注:「瘧(おこり)」数日の間隔を置いて周期的に悪寒や震戦、発熱などの症状を繰り返す熱病。本邦では古くから知られているが、平清盛を始めとして、その重い症例の多くはマラリアによるものと考えてよい。現在は撲滅(本土は一九五〇年代に、沖縄県は米軍統治下の一九六二年に撲滅)されているが、近代には散発的な発症例が継続して起こっており、まさに本作が発表された昭和四(一九三九)年以降も全国各都道府県でのマラリア患者の発生を見なかったところはなく、特に福井県・滋賀県・愛知県・富山県・石川県では患者の発生数が多かった事実がある。病原体は単細胞生物であるアピコンプレクサ門胞子虫綱コクシジウム目アルベオラータ系のマラリア原虫Plasmodium sp.で、昆虫綱双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科のハマダラカAnopheles sp.類が媒介する。ヒトに感染する病原体としては熱帯熱マラリア原虫Plasmodium falciparum、三日熱マラリア原虫Plasmodium vivax、四日熱マラリア原虫Plasmodium malariae、卵形マラリア原虫Plasmodium ovaleの四種が知られる。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事と私の彼への哀悼詩)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。]
諸戸は急いで私のそばへ廻ってきて、私と椅子を分けてかけるようにして、両手で私の胸をしっかりと抱きしめ、私の耳に口を寄せて、やさしく囁くのだった。
「いろいろな事情が揃っていたのですね。君が僕に疑いをかけたのも、まんざら無理ではないようです。でも、それらの不思議な一致には、全く別の理由があったのです。ああ、僕はもっと早くそれを君に打ちあければよかった。そして君と力をあわせて事に当たればよかったのだ。僕はね、蓑浦君、やっぱり君や深山木さんと同じように、この事件を一人で研究してみたのですよ。なぜそんなことをしたか、わかりますか。それはね、君へのお詫び心なんです。むろん僕は殺人事件には、少しも関係がないけれど、僕は初代さんに結婚を申し込んで君を苦しめた。その上初代さんが死んでしまったのでは、君があんまり可哀そうだと思ったのです。せめて下手人を探し出して、君の心を慰めたいと考えたのです。そればかりではない。初代さんのお母さんは、あらぬ嫌疑を受けて検事局へ引っぱられた。その嫌疑を受けた理由の一つは結婚問題について娘と口論したことだったではありませんか。つまり間接には僕がお母さんを嫌疑者にしたようなものです。だから、その点からも僕は下手人を探し出して、あの人の疑いをはらして上げる責任を感じたのですよ。しかし、それは今ではもう必要がなくなった。君も知っているでしょうが、初代さんのお母さんは証拠が不充分のために、ことなく帰宅を許されたのです。きのうお母さんがここへ見えられての話でした」
だが疑い深い私は、この彼のまことしやかな、さもやさしげな弁解を、容易に信じようとはしなかった。恥かしいことだけれど、私は諸戸の腕の中で、まるで駄々っ子のようにふるまった。これはあとで考えてみると、人の前で声を出して泣いたりした恥かしさをごまかすためと、意識はしていなかったけれど、私をさほどまでも愛してくれていた諸戸に、かすかに甘える気持もあったのではないかと思われる。
「僕は信じることができません。あなたがそんな探偵のまねをするなんて」
「これはおかしい。僕に探偵のまねができないというのですか」諸戸は幾らか静まった私の様子に、少しく安心したらしく、「僕はこれでなかなか名探偵かもしれないのですよ。法医学だって一と通り学んだことがあるし。ああ、そうだ、これを言ったら、君も信用するでしょう。さっき君はこの花瓶が殺人事件に関係があると言いましたね。実に明察ですよ。君が気づいたのですか、それとも深山木さんに教わったのですか。その関係がどういう物だか、君は知らないようですね。その問題の花瓶というのはここにあるのではなくて、これと対になっていたもう一つの方なんですよ。ホラ、初代さんの事件のあった日にあの古道具屋から誰かが買って行った、あれなんです。わかりましたか。とすると、僕がこの花瓶を買ったのは、僕が犯人でなくて、むしろ探偵であることを証拠立てているではありませんか。つまり、これを買ってきて、この花瓶というものの性質をきわめようとしたんですからね」
ここまで聞くと、私は諸戸のいうところを、やや傾聴する気持になった。彼の理論は偽りにしてはあまりにまことしやかであったから。
「もしそれがほんとうならば僕はお詫びしますけれど」私は非常にきまりのわるいのを我慢して言った。「でも、あなたは全くそんな探偵みたいなことをやったのですか。そして何かわかったのですか」
「ええ、わかったのです」諸戸はやや誇らしげであった。「もし僕の想像が誤まっていなかったら、僕は犯人を知っているのです。いつだって、警察につき出すことができるのです。ただ残念なことにほ、彼がどういうわけで、あの二重の殺人を犯したかが不明ですけれど」
「え、二重の殺人ですって」私はきまりのわるさも忘れて驚いて聞き返した。「ではやっぱり、深山木さんの下手人も、同一人物だったのですか」
「そうだと思うのです。もし僕の考え通りだったら、実に前代未聞の奇怪事です。この世の出来事とは思えないくらいです」
「では聞かせてください。そいつはどうしてあの出入口のない密閉された家の中へ忍びこむことができたのです。どうしてあの群衆の中で、誰にも姿を見とがめられず、人を殺すことができたのです」
「ああ、ほんとうに恐ろしいことです。常識で考えては全く不可能な犯罪が、やすやすと犯されたということが、この事件の最も戦慄すべき点なのです。一見不可能に見えることが、どうして可能であったか。この事件を研究する者は、先ずこの点に着眼すべきであったのです。それがすべての出発点なのです」
私は彼の説明を待ちきれなくて、性急(せっかち)に次の質問に移っていった。
「一体下手人は何者です。われわれの知っているやつですか」
「多分君は知っているでしょう。だが、ちょっと想像がつきかねるでしょう」
ああ諸戸道雄は、はたして何事を言い出そうとするのだ。私には、今や朦朧(もうろう)とその正体がわかりかけてきたような気がする。かの怪老人は全体何者なれば諸戸の家を訪れたりしたのであろう。彼は今どこに隠れているのであるか。諸戸が曲馬団の木戸口に姿を見せたのは、なにゆえであったか。七宝の花瓶はいかなる意味でこの事件に関係を持っていたのであるか。今や諸戸に対する疑いは全くはれたのであるが、彼を信用すればするほど、私は種々雑多の疑問が、雲のごとく私の脳裏に浮かび上がってくるのを感じないではいられなかった。
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