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2017/12/15

明恵上人夢記 56

56

一、同二月十九日の夜、高階(たかしな)に宿る。夢に云はく、一院より御使ひ來る。即ち御札を賜はる。其の 御名は家信と云々。其の御札の狀に云はく、「摧邪輪(ざいじやりん)」を借り召す。卽ち、「摧邪輪」の所説の如く、造らるゝ物に寶樹等、有り、又、四人の菩薩像有り。予、思はく、下卷に此の四人の菩薩を出せりと云々。其の御札の狀に、此に候ふ物、此の圖を造りしなり。本を賜はりて見合せむが爲に之を借り召す。又、予に見せしめむが爲に之を賜はる也。心賢く人の借りしに遣はさずして置きて之を進上せむと思ふと云々。案じて曰はく、大明神幷(ならび)に賀茂の事也。【家信御名□由と云々。】

[やぶちゃん注:「同年」前に柱の「一」のあるのが気になる(貼り添えした可能性)が、クレジットからは無理なく、前の「55」から続くから、一応、建保七(一二一九)年と採っておく。

「高階(たかしな)」底本注に『あるいは高階泰経男経仲か。経仲は建保四年(一二一六)年出家、六十歳』とある。「朝日日本歴史人物事典」によれば、高階経仲(保元二(一一五七)年~嘉禄二(一二二六)年)は公卿で後白河院及び後鳥羽院の近臣。高階泰経(大治五(一一三〇)年~建仁元(一二〇一)年)は後白河院の近臣。若狭守高階泰重の子。寿永二(一一八三)年に従三位に叙せられた。九条兼実の「玉葉」によれば後白河『法皇第一の近臣』で、法皇の寵愛ぶりとその権勢は丹後局(高階栄子)とも比されるほどだった)の子で本名は業仲。仁安三(一一六八)年に蔵人となり、後、石見守・常陸介・右衛門佐を歴任、従四位上・右馬頭となるが、文治元(一一八五)年十二月、源義経と行家の謀反への加担が疑われて頼朝の怒りを買い、父泰経とともに解官された。後に許されて、播磨守・内蔵頭となり、父と共に後白河法皇に近侍して、院庁の別当を務めた。法皇の没後は後鳥羽上皇の側近として仕え、院別当となり、常に院御所に祗候した。元久元(一二〇四)年に正三位に叙せられている。但し、夢を見た泊まった屋敷は高階経仲邸ではあっても、夢のロケーションはそうだとは述べていないので、注意が必要

「一院」底本注に『後鳥羽院』とある。当時、現に後鳥羽院の寵臣であった高階経仲の家に泊まって見た夢に後鳥羽院からの手紙が届くといふのは、腑に落ちる。言わずもがなであるが、これは後に起こる「承久の乱」(承久三(一二二一)年五月勃発)で完敗した後、上皇は同年七月に出家し、隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島。現在の海士(あま)町)に配流される。

「其の 御名は」一字空けはママ。「一院」に敬意の改行や字空けがない以上、この字空けは不審で、最後の割注から見ると、或いは「其の御名は□由家信」の謂いで「□由」の箇所は法号辺りであったのではなかろうか? それを明恵は夢の中ではっきり聴いたのだが、覚醒後には忘れてしまっていたので、「□」と欠字にしたのであろう。

「家信」底本注に『あるいは藤原雅長男家信か。家信は嘉禎二年(一二三六)八月二十二日没、五十五歳』とある。正三位・非参議。詳細な事蹟が伝わらないので、夢の意味を解読することが出来ない。

「摧邪輪(ざいじやりん)」底本の編者ルビは「さいじやりん」であるが、一般に「ざい」と濁る。明恵が尊敬していた法然の著した「選擇本願念佛集」(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)の誤った解釈や邪見を徹底的に反駁した書。全三巻。法然が称名念仏を浄土往生の正業とする立場に対、そこに大乗仏教に於ける発菩提心(ほつぼだいしん)の意義が欠落していることを、激しい口調で批判している。建暦二(一二一二)年十一月二十三日に脱稿したが、翌年、明恵はさらに「摧邪輪莊嚴記」(ざいじゃりんしょうごんき)一巻を著して、さらにその主張を補足している。この夢は明恵の法然批判への強い自信と覚悟が漲っていることは確かであう。

「借り召す」自敬表現。

「大明神幷に賀茂の事也」よく判らぬが、私は前に出た「一院」や「家信」なる実在の高貴な人物名が、実はそれらの御方を指すのではなく、諸々(住吉・伊勢・春日など)の「大明神」及び、現在の京都府京都市にある賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の二つの神社が祀る「賀茂の」神(古代の賀茂氏の氏神で、古くは賀茂大神とも称した)という仏の垂迹神であると解読し得たという風に採った。なお、「賀茂」を具体に挙げたのは京の神霊の代表だから特に問題を私は感じない。]

□やぶちゃん現代語訳

56

 同二月十九日の夜は、高階家に滞在した。そこで、こんな夢を見た。

 

……後鳥羽院からという御使いの者が到来する。直ちに、その使者から、御手紙を賜はった。しかし、その差出人は院ではなく、御前には何故か、「家信」何某とあるのであった……。

 其の御手紙のある条に曰く、

――「摧邪輪(ざいじゃりん)」を借り召したい。即ち、「摧邪輪」の所説が説くように、仏によって造られた対象に宝樹などがあり、また、四人の菩薩像が、ある。私(家信)が思うには、当該書の下巻に、この四人の菩薩のことを解説してある――

と……

 さらに、その御手紙の別な条には、

――その書に於いて貴僧が語った対象について、私は私なりにその図像を造って描いてあるのである。そこで、貴僧のその「摧邪輪」を賜わって、私の想起した図像と一致伊しているあどうか校合そて見合わせようと思うたがために、この「摧邪輪」を借り召すのである。また、実に私に見せんがためにこそこの「摧邪輪」は存在するのであるから、是が非でも、この「摧邪輪」なる優れた書を私に賜はるように。心を賢くして澄まし、誰か、人の借りんとしても決して遣わさずして、私の手元に置き、そうして、私の確信が正しかったと納得した暁には、これを後鳥羽院に進上しようと思うておる――

と……

 

 覚醒後に考えてみるに、この「一院」や「家信」と仰せられたのは、実は諸々の「大明神」並びに「賀茂の神」のことだったのだ、と腑に落ちたのであった。【家信様は御名を「□由」とか申すとか……。】

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