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2017/12/23

風景・人物   原民喜

 

[やぶちゃん注:初出未詳。芳賀書店版全集第二巻(昭和四〇(一九六五)年八月刊)に初めて収録された。内容と底本(後述)での配置から、戦後のものである。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅱ」の「エッセイ集」に拠った。歴史的仮名遣を用いており、拗音表記もないので、彼の原稿を電子化してきた経験から、漢字を恣意的に正字化した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

 本篇は底本全集ではエッセイ・パートに分類されているが、これは明らかに散文詩である

 第一篇「不思議な男」の「瀟洒」の「瀟」の作りは「肅」であるが、表記出来ないことと、意味から特異的に訂した

 同じ「不思議な男」の「純綿」は文脈上、そのまま(例えば、手に入れた製品が)の意味とは私には思われない。思うに、当時の何らかの性的な隠語のように思われるが、究明し得なかった。識者の御教授を乞う

 「白」の「魘されて」は老婆心乍ら、「うなされて」と訓ずる。

 同じく「白」の『「深夜の告白」の主人公サラヴアン』はフランスの詩人で作家のジョルジュ・デュアメル(Georges Duhamel 一八八四年~一九六六年)の連作小説「サラバンの生涯と冒険」(Vie et Aventure de Salavin/「深夜の告白」(Confession de minuit:一九二〇年)・「ふたりの男」(Deux hommes:一九二四年)・「サラバンの日記」(Le Journal de Salavin:一九二七年)・「リヨン人のクラブ」(Le Club des Lyonnais:一九二九年)・「あるがままに」(Tel qu'en lui même:一九三二年)の五巻構成)の第一巻。全体は小学館「日本大百科全書」によれば、『主人公サラバンは、パリに住む一介の勤め人で、対談中の社長の耳たぶを引っ張るという無償の行為によって、自らの自由を確認しようとする。彼はつねに求道者としての道を歩むが、聖徒としての修行に挫折』『すると、今度は社会主義者たちのクラブに入る。しかし彼の会った社会主義者たちは功利的、観念的な人たちで、結局クラブはスパイの密告によって壊滅する。妻に書置きを残して家出した彼は、アフリカのチュニスでレコード代理店を営みながら、更生生活を試みる。サラバンが雇った土地の青年は殺人を犯し、サラバンは青年を救おうとして身を挺』『して、覚悟の凶弾を受ける。瀕死』『のままパリに送られた彼は、清らかな目で死んでいく』という構成だそうである。私は未読なので、このシーンがどこのどんな場面に出るかは知らない。

 本篇は現在、ネット上には電子化されていないものと思う。【2017年12月23日 藪野直史】]

 

 

 風景・人物

 

 不思議な男

 

 なにをしてゐるのかわからないのだが、いつも涼しさうな顏をしてゐる。大きな革のドル入れに新圓の束を詰込み、とびきり瀟洒なみなりで出掛けて行くこともあるが、普段はもつとくだけた復員まがひの服裝――もつとも、よく見るとそれもなかなか凝つた品なのだが――で、巷をぶらぶらと步いてゐる。

 ――今日は麻雀をして、夕飯は五拾圓の天どん食つた、純綿だつたよ。

 と、夜更けにいい機嫌で戾つて來る。

 その涼しさうな顏は、やや鈍重な氣品があり、更によく見ると、空漠と汚辱の翳がまつはつてゐる。

 そんな風な男が、電車の中や百貨店のソフアに腰掛けてゐたとしても、私達は容易に普通の人間と見分けがつかないのである。といふのが、今日ではどんな贊澤な存在も煤けた周圍の色彩の中に紛れてしまふし、又、悲慘な私達の境遇ではごく普通の人間まで、とかく不思議な男ではないかと疑ひたくなるのだから。

 

 瘦せた女

 

 これは何といふ恐しく瘦せた女なのだらう。細い掌にはレースの手袋を嵌め、膚はどぎつく色彩られてゐるが、淡い藤色のドレスもしつくりせず、白革のハイヒールもちぐはぐでしかない。ちぐはぐといへば、全體が恐しく纏まりのわるい繪なのだ。額に死の刻印を押されてゐる榮養失調の女とも異るし、典雅な精神的素質をしのばす透明な女性では勿論ない。それでは、何がこの女をこんな風に荒々しく憔悴させ、思ひあがらせ、見る人にヒステリツクな印象を與へるのであらうか。

 嘗て私は山手線の電車の空いた席で、ハンドバツクをひろげ、膝の上で巨額の紙幣を數へてゐる中年の婦人を見かけたことがある。その婦人の札たばを數へる手つきは、いかにも潤ひがなく、皺くちやになつた新圓を冷然と鷲摑みにしてゐるのであつた。

 

 菎蒻

 

 樹木と坂の多い、住宅街では、ライラツクの花が咲いて、樺・楠・樅などの若葉がそよいでゐた。朝はいろんな小鳥が空で囀り、久振りに自然の惠みを素直な氣持でながめることが出來さうであつた。だが若葉の訴えがだんだん色濃く入亂れて來るにつれて、人は笑はなくなつた。冷たい雨や、濕氣の多い日ばかりがつづき、靑葉の濁つたながめは、うつろな胃袋のなかの感覺と類似して來た。

 しーんとして、主食の缺配が二十日もつづいてゐる白晝、人は細い路を通つて省線驛の方へ出掛けて行く。

 その、ひつそりとした細い路の中ほどに黃色の塀をめぐらした家があり、三尺幅の木戸がいつも開け放しになつてゐた。すぐそこに小さな卓があり、卓上にガラス張りの小さな函が置いてある。そして、その函の中にはやや厚みのある、こんにやくが二箇――色に濃淡の別があつたが――竝べてあり、〘内金四圓也〙と肉太に誌れた表札大の木札が立ててある。そのガラス函は、天井は板張りになつてをり、古道具らしいさびを持つてをり、まことに二箇のこんにやくを容れておくには應はしい器であつた。だが、あたりのすすけた綠やわびしい通行人の姿をかすかに映す、そのガラス函は、それ自體また飢ゑの描く夢のやうでもあつた。

 立ちどまつて買ふほどの人は見かけなかつたが、色目のわるいこんにやくは時折ブルブルと戰慄してゐた。どうかすると、猛然とその檻を飛出し人民の中へ跳ねて行きたがつてゐるやうでもあつた。

 

 

 

 六月下旬、記錄破りの夏が訪れて來た。すると銀座は忽ち白の裝ひで汎濫した。どの人間もどの漫步者も白の輕裝で、土曜日の午後、四丁目から七丁目までの舖道は全く白のうごめきに魘されてゐるのであつた。強烈な光を反射さす、そのおびただしい、白いものは、軍の織維品が姿を變へたものらしいのであるが、ひもじい人間の、くらくらする目には、夢のなかの蝶類のやうにも想へるのである。さういへば、飾窓のなかの可憐な籠に盛られた二十圓のトマト、(まさに熟れようとしてゐる、その色澤は美しい小娘のやうであつた) 桐の小箱に詰められた粒の揃つた、みごとな枇杷(七拾五圓)、それから五拾圓のソーセージ(このしつとり澱んだ重味のあるセピアはどうだらう)すべて、さういふ食料品は既にたべものといふ觀念から遊離して、見るものの頭をひどく呆けさすのであつた。だからここでは「深夜の告白」の主人公サラヴアンでなくとも、ついふらふらと一杯十五圓のクリームの前に立留まつたりするのである。

 しかしながら、もつとしつかり地面に足をつけて步いてゐる連中も、たしかにゐるのであつた。殆ど隙間のない人波のなかで向ふからやつて來た二人連れの中年の紳士がいま、すばやく身を屈めて、煙草の吸殼を拾ひとつた。いかにも、ものなれた動作ではあつたし、後から押寄せて來る人波によつて、二人の姿は忽ちカツトされてしまふのであつた。

 

 陰氣な畑

 

 燒跡の畑に玉蜀黍が勢よく伸びてゐた。驟雨のあがつた夕方、隱元、トマト、胡瓜など、好もしい綠を湛へてゐる。

 見れば、畑と道路の境には、鉢植の蘇鐵が置いてあるのだ。それは嘗ては路上に捨てられて顧みられなかつたものなのであらう。

 通りがかりの詩人は思はず路傍にたたずんで、今こまかに目を働かしながら、人間の營みについて、暫し夢想に耽けりだした。畑の中には、鳳仙花や朝顏の姿さへ見出せる。それは實に久振りにめぐりあふ草花で、しをらしい人間の營みがここにも微笑んでゐるかに想はれた。

 だが、詩人の夢想はあまり長くはつづかなかつた。

 氣がつくと、向の片隅から凝と陰瞼な目を光らしながら彼の方を見守つてゐる男がゐた。

 相手は今にもこちらへ飛掛つて來さうな、激しい表情を湛へてゐる。(さうか、野菜泥棒にされるところだつたのか)踵のすりきれた靴をひきづりながら彼は空腹の巷へ步いて行つた。

 また雨になるらしい暗い雲がすぐ向ふの空に渦卷いてゐた。



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