原民喜作品集「焰」(正規表現版) 溫度
溫 度
音樂室の壁に額があつた。中年の猫背の紳士が時雨に濡れて枯芝のなかを散步してゐる――冷え冷えする繪だ。濡れ雜巾を持つた儘、どうした譯か、彼女はたつた一人で掃除當番をしてゐたのだが、ガラス窓の外にはやはり繪に似た時雨雲があつた。
すると突然、先生がやつて來た。はずみと云ふものは恐しく、彼女は何でもないのに眞赤になつてしまつた。恐らくその音樂室が冷え冷えしてゐたためでもあらうか。
彼女は身體が熱(ほて)つたり、冷えたりした。街で靑年達を拾つたり、捨てたりした。
一人の靑年が彼女を抱いて自棄にキリキリ踊つた。彼女は平氣で從いて𢌞つた。すると間もなくその男から彼女は結婚を申込まれた。
もしも子が生れるとすれば、(ふと、彼女は女學校時代の氣分に戾りつつあつた。)do, si, la, sol, fa, mi, re, do ……この子の父は誰に似てゐるのだらう。
すると突然、良人がやつて來た。彼女は單純に顏を赧(あから)めた。
[やぶちゃん注:この「中年の猫背の紳士が時雨に濡れて枯芝のなかを散步してゐる――冷え冷えする繪だ」これは私にはベートーヴェンのそれにしか思えない。例えば、この絵。因みに、次の「出發」には主人公が「ベートーヴエンの第五交響樂」を聴くシーンが登場する。]

