原民喜作品集「焰」(正規表現版) 夢
夢
彼はその女を殺してしまはうと決心しながら、夜更けの人足も薄らいだK――坂を登つてゐた。兇器にするか、何にするか、手段はまだ考へてゐなかつた。が、その烈しい憤怒だけで、彼は女の首を完全に絞めつけることが出來さうだつた。
ふと彼は考への途中で、夜店の古本屋の爺さんを何氣なしに眺めた。爺さんは一人ほくほくしながら店をしまつてゐた。人のいい、實に和(なご)やかな笑顏が彼を見た。爺さんは今何が嬉しいのだらう、しかし彼も同時に何だか知ら胸の裡が嬉しくなつた。彼は穩かに下宿に歸つて睡た。
その夜、彼は爺さんの夢を見た。爺さんはニヤニヤ笑ひながら、「俺は知つてるぞ、君はあの女を殺す氣だね。」と何度も繰返し繰返し云つた。目が覺めると、彼の背筋はじつとりと冷汗に濡れてゐた。
翌日の夕方、彼はまたふらふらとK――坂を登つて行つた。恰度夜店が出る時刻で、昨日の爺さんも同じ處で古本を並べてゐた。彼は爺さんを一目見るや否や、わーと泣き出したい衝動に驅られた。が、兇器は夢中で爺さんの脇腹を抉つてゐた。

