老媼茶話巻之六 狼
狼
武州江戸のもの、奧州の名所松嶋を見に、はるばると下りけるに、松嶋江行詰(ゆきづま)て、山道に迷ひ、山中へ入りけるに、人目(ひとめ)稀(まれ)なる谷影に、時雨(しぐれ)も月も嘸(さぞ)もるらんと、あさましき賤(しづ)が家(や)あり。
「道をとはん。」
とおもひ、案内を乞ひ立入(たちいり)けるに、内には年寄りたる翁(おうな)と姥(うば)と有(あり)。
娘と覺敷(おぼしく)て、廿(はたち)餘りの美女、しずのおだ、をへて、姥が側に有り。
容氣、至(いたつ)て美麗なりしかば、旅人、愛念を生じ、暫(しばらく)休(やす)らいみるに、誠に天性の美人なりしかば、姥に向ひ、
「そこつに候得ども、懸(かか)るいぶせき山中に侘敷(わびしく)住(すみ)玉はんより、御娘を我(わが)妻にあたへ玉へ。然らば、老人夫婦をも武藏へ引取(ひきとり)殘曆(ざんれき)をたのしませ候はん。」
といゝければ、夫婦、申樣(まうすやう)、
「我等は齡(よは)ひ、すでにかたむき、あすをも知らぬ老の身にて候まゝ、この山中にすみ果て候とも、壱人の娘、世にあらせたく候。御望(おのぞみ)ならば、參(まゐら)せ候はん。」
といふ。
旅人、大きに悦び、老人夫婦に金子(きんす)多くあたへ、松嶋の見物は差置(さしおき)て、急ぎ江、戸へ歸り登りけるが、三年を經て、妻、申樣、
「かりそめに父母にたち離れ、既に三年に及(および)候。其内(そのうち)、便りもなさゞれば、さこそ恨(うらみ)て過(すぐ)し玉ひなん。此度(このたび)、思ひ立(たち)、奧州江下り、父母に對面申度(まうしたし)。」
と侘(わび)ければ、男、元より富有(フクユウ)の者なるうへ、松嶋も又、みまほしく、妻の望(のぞみ)にまかせ、供人少々にて、奧州へ下りける。
程なく、件(くだん)の處に至り、ありこし宿を尋ねけるに、庵の跡は有(あり)ながら、柱、倒れ、壁、落(おち)て、絶(たえ)て、人もなく見へにけり。
片原(かたはら)を能(よく)みるに、大きなる狼の骸(むくろ)の雨風にくちたるが、弐疋、打重(うちかさな)り、死居(しにゐ)たり。
死(しし)て久敷(ひさしき)とみへて、肉は殘らず、かれけれど、皮・ほねは尚、全く續き有(あり)。
女、此死骸を見て、
「我(わが)父母、すでに人の爲に殺され玉へり。口惜しさよ。」
といふて、身ぶるいすると見へしが、忽ち、大きなる狼となり、ほへ怒(いか)て夫に懸向(かけむか)ふ。
夫、大きに驚き、刀を拔(ぬき)、ふせぎけるが、終(つゐ)に狼に喰殺(くひころ)さる。
供の男ども、是を見て、跡をも見ずして、逃歸(にげかへ)りけるとかや。
[やぶちゃん注:これはかなり知られた狼の異類婚姻譚で、複数、存在する。私の読んだものは二つあり、孰れも東北が舞台であったが、私の記憶では、最後がこのように凄惨でないものもあったやに思う。今直ぐにそれらを提示出来ないが、書棚の中にはあるはずのものであるから、見出し次第、書誌等を示す。
「行詰(ゆきづま)て」進んだ道が完全な行き止まりで。
「もる」「漏る」。
「しずのおだ」ママ。「倭文(しづ)の苧環(をだ)」。苧環(おだまき)で「しづ」(上代は「しつ」と清音)は梶(かじ)の木や麻などで青・赤などの縞を織り出した古代の布を作るために、紡いだ糸を巻いて中空の玉にしたもの。
「をへて」不詳。「を」は格助詞で、「へて」は動詞らしいが、ピンとくるものが浮かばぬ。或いは「をへ」で「終(を)ふ」(ハ行下二段動詞)で、「巻き終えて」の意か。
「そこつ」「麁忽・粗忽」不躾な急な軽はずみな無礼なること。思慮もなき失礼なこと。
「いぶせき」山家(やまが)のこととてひどく不便で窮屈な。
「殘曆(ざんれき)」余命。
「片原(かたはら)」「傍ら」。
「かれけれど」「枯れけれど」。]