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2017/12/10

柴田宵曲 俳諧博物誌(23) 狼  二

 

        

 

 狼と人との交渉が何時頃から険悪になったか、『孤猿随筆』には「狼史雜話」の一篇があるが、はつきりした年代はわからぬらしい。人獣間の歴史も固(もと)より平和な方がいいので、人とる沙汰が聞えるよりは

 狼も喰はでめでたしやまの春   南山

 

の方が実際めでたいに相違ないのである。

[やぶちゃん注:「孤猿随筆」既注であるが、再掲しておく。柳田國男の「孤猿隨筆」は昭和一四(一九三九)年創元社刊。

「狼史雑話」は「孤猿隨筆」に載るが、初出は昭和七(一九三二)年九月及び翌昭和八年十一月に発行された、雑誌と思われる『日本犬』である。全十七章。但し、柳田の記述は実際には殆んど江戸期のものばかりで、戦国以前、中世はもとより中古の文献を渉猟した形跡がない、私に言わせれば、異様に偏頗なものである。]

 

 『孤猿随筆』はまた、維新前後の地方の刑場が甚だ乱雑で、夜その附近を通ると必ず狼の唸り声を聞いたものだという老人の話を挙げ、「これは以前も戦闘の跡とか、飢饉その他の大災害のあった土地とかには、幾度かくり返されたろうと思う光景で、今はもう信じ難いほどの昔の事になっている」といい、「それよりも更に一般的なのは埋葬法の変遷で、かつては普通人の墓地などは、殆ど狼の劫掠(ごうりゃく)を防ぎ切れぬような簡単な装置のものばかり多かったのが、追々と深葬の風が普及し、石の工作はまたこれを保護するようになった」ということが附加えられている。俳諧の狼は概して太平で、戦場や刑場などは取入れられておらぬが、

 

 狼の葬の火を掘る時雨(しぐれ)かな 相夕(さうせき)

 

の一句は、右の説を立証するものとして、一読寒気を覚えしめる。少くともわれわれの目に触れた範囲では、この句の如く凄然(せいぜん)たるものを知らぬ。「ひよつと喰べし」という鉢敲の上には、若干の滑稽を感ずるほど、狼と疎遠なわれわれも、この一句の持つ真実味には打たれざるを得ない。句中に点じた「火」の一字が時雨の天地をいよいよ暗からしむると共に、凄涼の度を加えているような気がする。

[やぶちゃん注:ここで宵曲が言い、引用しているのは、「孤猿随筆」の中の、前に出た「「狼史雜話」ではなく、その前の、以前に注した、「狼のゆくえ――吉野人への書信」――」(昭和八(一九三三)年十一月)の「九」の一節なので注意が必要である(別作品からの出典であるのにそれを謂わないのは宵曲の非常によくない点であると私は思う)。

 因みに、この相夕という俳人、全く知らないが、確かに、鬼趣のこの一句、慄っとするほど素敵である。

「劫掠(ごうりゃく)」「劫略」とも書く。歴史的仮名遣は「ごふりやく」であるが、古くは「こふ(こう)」と清音ともされる。意味は「脅して奪い取ること」の意。]

 

 狼の身もたのまれぬ夜寒(よさむ)かな 乙州(おとくに)

 

 これは山野の狼の事をいったのか、作者自身の主観を狼に託したのかわからぬが、夜寒の中に身を置いて考える時、人の恐れる狼の身も甚だたのみ難い存在になって来る。不思議な所に想を寄せたものである。

 山犬と狼とが別種であるかどうかということに関しては、いろいろ説もあるらしいが、柳田国男氏は「近世の事実に拠って、二つの異なる習性をもつ狼と山犬とが、併存するものと推断することは出来ぬと思う」といっている。俳諧の狼は割合に多いが、山犬の句は極めて少い。

[やぶちゃん注:以上も前の段落と同じく、「狼のゆくえ――吉野人への書信」――」の「六」の一節。なお、以上の柳田國男のそれらの引用は原本を確認出来ないので、歴史的仮名遣や正字化を行わなかったが、ちくま文庫版全集と校合はした。違った細部はあるにはあったが、同全集は現代の読者の読み易さを考えて編集が加えられているので、必ずしも、宵曲が誤っているとは断定出来ぬので、底本のままとした

「山犬」以前に注したが、これは野生の犬(反対語は「里犬」)・野犬のことである。或いは「ニホンオオカミ」の別名としても用いられた。江戸期の動物画や随筆類では、野生の犬に似ているが、独立した動物種のようにまことしやかに書いたものがあるが、そんな種は存在しない。]

 

 萩原や一夜はやどせ山の犬     芭蕉

 

という句は、「狼も一夜はやどせ萩がもと」あるいは「蘆の花」となつている。先ず同じものと見てよかろう。この句は萩を持出したせいか、臥猪(がちょ)の床と似た趣になって、山犬乃至(ないし)狼の感じはそれに蔽われた形であるが、

 

 山犬を馬が嗅(かぎ)出す霜夜かな 其角

 

の句は頗(すこぶ)る恐しい。人は馬背に跨りつつあるか、荷を負わせて共に歩みつつあるか、とにかく霜夜の道を行くに当って、人がまだ何とも感ぜぬ先に、馬は山犬の匂を嗅ぎつけたらしく、突如として身顫(みぶるい)するという趣であろう。黒闇々(こくあんあん)たる霜夜の天地の中において、声や形によることなく、襲い来るもののけはいを感ずるところに、動物の鋭敏な感覚も窺われ、夜行の寒さも骨に沁み入るように思われる。

[やぶちゃん注:芭蕉の、

 

 萩原(はぎはら)や一夜(ひとよ)はやどせ山の犬

 

は貞享四(一六八七)年の作で、この句形は「續虛栗」(ぞくみなしぐり)・「泊船集」のそれ。かの「鹿島紀行」(鹿島詣)にも、

 

 萩原や一よはやどせ山のいぬ  桃靑

 

の表記・署名で載る。異国編の「泊船集」(はくせんしゅう)には、「萩原や一夜はやどせ山の犬」の別案として、

 

 狼も一夜はやどせ萩がもと

 

を載せ、支考編の「笈日記」には、

 

 狼も一夜はやどせ芦の花

 

を載せる。この「芦(蘆)の花」は許六の「泊船集書入」にも載る。どう考えても、「山の犬」がいい。

 一方、其角の句の方は、

 

 山犬を馬が嗅出(かぎだ)す霜夜哉

 

で「皮籠摺」や「五元集」に載る句で、後者には「山行」の前書がある。この鬼趣もいいが、先の相夕の句にはまるで及ばぬ。]

 

狼の犬誘ひよる霜夜かな   嘯山

 

 狼と犬との境界線がやや明瞭でないため――少くともその祖先を同じゅうするために、犬と狼との交渉については、童話の世界にもいくつか話が伝えられている。家を守るに堪えなくなった老犬が、予(あらかじ)め狼と打合せて置いて、主人の幼児の奪われたのを取返して来る、その殊勲によって今まで老耄(ろうもう)せりとして無用視されていた者が、俄に優遇されるようになるなどという話は、いささか人間的才覚に終始し過ぎた嫌があるが、畢竟犬と狼との間に他の獣と異る因縁が存在するため、こういう想像も成立つのであろう。『青い鳥』の森の場でチルチルに向って来る狼も、犬を兄弟と呼んで誘惑的な言辞を弄している。囁山の狼は何のために犬を誘いに来るのかわからない。ただ「猿どのゝ夜寒訪ひゆく兎かな」のような普通の友好でなく、何か目的があるらしく考えられるのは、やはり彼らの特別関係を意識しているためかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「フジパン」公式サイト内の「民話の部屋」の岩手県で採取された民話「犬と狼」(再話者・六渡邦昭氏)がある。これは後半で、狼が報酬として家の鶏を要求し、それを断ったところ、狼は鬼とともに老犬を食おうとする。しかし一緒に飼われている猫が助太刀をして、めでたしめでたし!――お読みあれ。朗読音声もある。

「青い鳥」ベルギーの詩人で作家のモーリス・メーテルリンク (Maurice Maeterlinck  一八六二年~一九四九年:正式名はメーテルリンク伯爵モーリス・ポリドール・マリ・ベルナール(Maurice Polydore Marie Bernard, comte de Maeterlinck)。但し、本人の母語であるフランス語を音写すると「メーテルランク」、ベルギーのフラマン語(オランダ語のベルギー方言)や、彼の今一つの母語でもあるオランダ語では「マーテルリンク」に近い音である。なお、この“maeterlinck”はフラマン語で「計量士」「測量士」を意味する語である。以上はウィキの「モーリス・メーテルリンク」に拠った)作のフランス語でL'Oiseau bleu。五幕十場から成る童話劇で一九〇八年発表。宵曲の言っているのは第三幕第五場のワン・シーンである。

「猿どのゝ夜寒訪ひゆく兎かな」これは与謝蕪村の「蕪村句集」の秋に載る句。

 

   山家

 猿どのゝ夜寒(よさむ)訪(とひ)ゆく兎かな

 

で、初案は「百歌仙」に載る、

 

 猿どのゝ夜さむ訪(おとな)ふ兎かな

 

である。これは、

 

   山居の僧に

 雪を汲(くみ)て猿が茶を煮けり太山寺  其角

 

の句を踏まえたもので、深山の友の家を蕪村が訪れんとする事実を、仙境に擬えて童話化した一句である。ここは新潮日本古典集成の清水孝之校注「與謝蕪村集」の注を参考にさせて戴いた。]

 

 若草や狼かよふ道ながら       芭蕉

 狼の道をつけたる落(おち)ばかな  程已

 狼に道や絶(たえ)けん鹿の聲    蓼太

 

 この三句にあっては狼は全く陰の役者になっている。狼の常に往来するような道も、春が来れば美しい若草が萌える。冬になって落葉が積れば、その上にまた狼の通う道がつく。そういう現象はもともと何の関係もないにかかわらず、二つ並べて見ると季節の推移が今更の如く感ぜられる。蓼太の句は狼が出没するために、鹿が通わなくなるという意である。空を行く鳥に鳥の道があり、水を行く魚に魚の道があるように、獣にもそれぞれ適う道が走っているとすれば、道を外にして存在する者は現世にないのかもわからない。但(ただし)芭蕉の場合は狼が通うことを知っているだけで差支ないが、程已の句は何によって狼たることを判断するか、馬のようにこれを嗅分(かぎわ)ける能力などは、普通の人間にあるべくも思われぬ。強いていえば狼が動物として遺(のこ)す証拠物件による外はなさそうである。

[やぶちゃん注:宵曲が芭蕉作として出す「若草や狼かよふ道ながら」は大蟻編の芭蕉書簡集「翁反故(をきなほご)」に載る句であるが、この書は偽書であることが判っており、この句も芭蕉の句でない可能性が頗る高い。一九七〇年岩波文庫刊の中村俊定校注「芭蕉俳句集」でも「存疑の部」に入っており、山本健吉「芭蕉全発句」(二〇一二年講談社学術文庫刊)にも採られていない。如何にもな、駄句である。]

 

 狼の糞に露見る山路かな   玉珂(ぎよくか)

 

 獣の糞までも詩材として見遁(みのが)さをかったことは、慥に他の文芸に見られぬ俳諧の特色であった。これには已に子規居士の詳しい説があつて、新に贅言(ぜいげん)を加える必要を認めぬが、「俳句では他の詩でいへぬやうな些細な事までいへるのであるから、その觀察が隅から隅まで行き屆くやうになるのは自然の傾向」である事、「俳人の觀察の區域が廣くて總ての物を網羅するやうの傾向は、終に糞小便の研究に迄及んで、しかもそれをどれだけに美化したか」という事は、俳諧と他の詩歌とを比較するに当り、閑却すべからざるものと思われる。史邦(ふみくに)の如きは「霞野(かすみの)や明(あけ)立春の虎の糞」という句まで作っているが、当時としては所詮(しょせん)想像的産物たるを免れぬ。狼の糞は珍しい点では虎に及ばぬとしても、自然な点においてはかえって勝っている。

[やぶちゃん注:以上の正岡子規のそれは恐らく(後者の引用は確実に)明治三三(一九〇〇)年の評論「糞の句」である。後者は新字体旧仮名の引用を中原幸子氏の論文『正岡子規の取り合わせ観 ――「俳諧大要」から「糞の句」へ――」で現認出来たので、本文を訂し、漢字を恣意的に正字化した。前者はそれに合わせるため、私が恣意的に歴史的仮名遣に直し、漢字を正字化した。出典を含め、もしも誤りがあれば、御指摘頂きたい。]

 

 狼の糞を見てより草寒し       一茶

 狼の糞見て寒し白根越(しらねごえ) 子規

 

 この二句は大体同じところを捉えている。地上に認めた糞が狼のそれであると知った時、慄然として寒さを感ずるというのは、気持の上において、玉珂の句より更に一歩蹈入ったものがあるかと思う。

[やぶちゃん注:一茶の句は「七番日記」に所載する文政元(一八一八)年の作。子規の句は「寒山落木 五」に載る明治二九(一八九六)年の作。]

しかし狼の糞に著眼することは、必ずしも玉珂や一茶にはじまるのではない。元禄の俳人も夙(つと)に連句の中にこれを用いている。

 

 木佛(きぼとけ)の御首(みくし)計(ばかり)はふるされし

                    休計

  勘解由(かげゆ)がひらふ狼の糞  西吟(せいぎん)

 山ふかみなを山ふかみ啼(なく)梟(ふくろ)

                    休計

 

 木仏の首ばかりになっているのは、鏡花氏の「水雞(くいな)の里」に出て来る兀仏(こつぶつ)のようで薄気味が悪い。そういう背景の下に拾った狼の糞も、恐らく日を経て乾からびているのであろうが、蕭条たる山中の気を感ぜしむるに十分である。「山ふかみ」は西行の「山ふかみけぢかき鳥の聲はせで物おそろしき梟の聲」を蹈えているらしい。三句相俟って荒廃した山中の御堂か何かを描き出している。これは綜合的効果というべきもので、如何に狼の糞を巧に使ったにしても、一句の上に望むのは最初から無理である。

[やぶちゃん注:『鏡花氏の「水雞(くいな)の里」』「水鷄(くひな)の里」「鷄」が正しい表記)は明治三四(一九〇一)年三月発行の『新小説』発表の百鬼夜行の付喪神や異類妖怪のオン・パレード小説(サイト「鏡花花鏡」の九〇番からPDFで縦書版全篇がダウン・ロード出来る)。三年後に戯曲「深沙大王」(しんじゃだいおう)に仕立て直された。

「兀仏(こつぶつ)」鏡花の「水鷄の里」の冒頭に連呼されて出るが、そこでは『兀佛(はげぼとけ)』(禿げ仏)とルビされている。以下、ややネタバレとなるが、場所は越前白鬼女川(しらきじょがわ)岸の水鶏の里の、荒れ果てた深沙大王を祀った祠(ほこら)で実はもうその「兀佛」の声の主自体が人間ではない、鼬の妖怪が首の抜けた賓頭盧の像を罵って言った台詞なのである。

「山ふかみけぢかき鳥の聲はせで物おそろしき梟の聲」「山家集」の「下 雜」(八一九八番歌)及び「夫木和歌抄」の「廿七 雜九」に載る一首。

 

 山ふかみけ近(ぢか)き鳥のをとはせで物恐ろしきふくろふの聲(こゑ)

 

で、「け近き」は「親しみのある鳥」の意。宵曲はルビも振らずにこの一首をポンと出しているのであるが、二箇所の「聲」を変えて読ませることは、この和歌を既に知っている人間にだけに出来る芸当。或いは、宵曲自身孰れも「こゑ」と読んでいたものか? だとすると、知ったかぶりをして逆に墓穴を掘ったとしか言えない。「をと」「こゑ」と読むことを知っていてわざとルビを振らなかったとしたら、実に厭ったらしい行いである。

 

 狼の祭や猛きこゝろにも    嘯山

 烏來て豺(さい)の祭を覗きけり

                同

 狼のまつりか狂ふ牧の駒    太祇

 狼の跡を喰はんと祭るめり   之房(しばう)

 狼のまつりに染めるすゝきかな 晋佶(しんきつ)

 

 秋の季題に「豺祭獣」というのがある。春の「獺祭魚(だっさいぎょ)」と対をなすべきものであるが、歳時記には月令を引いて、「此は戌月(いぬづき)の候と記す。獸を祭るとは、之を天に祭るなり。禽(きん)を戮(りく)するとは、之を殺して以て食ふなり」とあるだけで、よくわからない。

[やぶちゃん注:引用した歳時記が具体的に何かも判らぬし、調べる気もないが、表現が文語であるから、漢字を恣意的に正字化した。

「豺祭獣」音なら「さいさいじゅう」だが、気持ち悪い。これは訓じて、「豺(やまいぬ)、獣(けもの)を祭る」であり、歳時記では晩秋の季語とする。他に「狼の祭り」「豺(やまいぬ)の祭り」などとも柱立てするらしい。七十二候(しちじゅうにこう)の中の「霜降初候」(日本の「霜始降」(霜、始めて降る):十月二十三日~二十七日頃)の、中国での呼称「豺乃祭獸」(豺(さい)、乃(すなは)ち、獸を祭る):山犬が捕らえた獣を並べて食らう)に由来)の時期を指すという。「豺」は山犬或いは狼で、彼らが狩った禽獣を捕獲後に祭るようにして並べるという伝承に因んだ季語で、宵曲も言っているように初春の「獺、魚を祭る」、また、初秋の「鷹、鳥を祭る」に対応するものである。

「月令」「がつりょう」(現代仮名遣)と読む。古漢籍に於いて月毎(ごと)の自然現象・古式行事・儀式及び種々の農事指針などを記したものを指す一般名詞である。有名なものは「禮記」のもので、調べてみると、まさに「月令」に、

   *

鴻雁來賓、爵入大水爲蛤。鞠有黃華、豺乃祭獸戮禽。

   *

とあった。歳時記という奴は、実は判っていない奴が判ったような顔をして、判らんことを当然の如く書き連ねた、似非(えせ)博物書であると、私は昔から思っている。]

 

 狼に寒鮒(かんぶな)を獻ず獺(うそ)の衆 子規

 

という句は芋銭氏の画にでもありそうな趣で、獣と獣に或(ある)交渉を認めた所が面白いけれども、前の「豺祭獣」と直接関係はあるまい。獺祭魚は李義山(りぎざん)の故事があり、延(ひ)いては子規居士の獺祭書屋となったりして、文字の上から見ても雅馴(がじゅん)である。狼の祭は想像しただけでも殺風景で、何ら詩興を鼓するものがないと思われるのに、こんなに句があるのは意外であった。尤も句はいずれもあまり妙でない。豺狼猶(なほ)之(これ)を祭る、いわんや人間をやというようなことにでもして置こう。

[やぶちゃん注:子規の句は明治三一(一八九八)年冬の作。

「獺祭魚は李義山の故事があり」「李義山」は晩唐の政治家で妖艶と唯美の名詩人であった李商隠(八一二年或いは八一三年~八五八年)のこと。ウィキの「獺祭魚李商隠によれば、彼は『作中に豊富な典故を引いたが、その詩作の際』、『多くの参考書を周囲に並べるように置いた』ことから「獺祭魚」と呼ばれた(前者では自らそう号したとあるが、後者に従った)という。

「子規居士の獺祭書屋」正岡子規は自らを「獺祭書屋主人」(だっさいしょおくしゅじん)とも号した。]

 

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