老媼茶話巻之六 老人の夜話
老人の夜話
[やぶちゃん注:老人は複数のエピソードを語っているので、リーダと行空けを施した。最後の一首は前を行空けし、そのままの表記で示した。]
赤羽隨世翁、我を以て小姪(シテツ)のごとくす。或夜、風淸く月白き夕(ゆふべ)、語られけるは、
「幼年にして土津(はにつ)靈神へ仕へ奉りける朋友朋輩、見し人、聞(きき)し人も、今壱人もなく身まかり、我、又、七拾有餘、殘曆(ざんれき)いくばくもなし。唯、あした夕べの死を待(まつ)のみなり。若き人に對し、壱人無益の長ものがたりなれ共(ども)、見し事聞し事、閑夜の茶話に聞置(ききおき)玉へ。士たるもののたしなむべきは利刃(りじん)なり。利鈍(りどん)を心見ずして帶(たい)すべからず。……
最上に村越大次郎といふ士、常々、もの荒く、人を切(きる)事を好み、村越、市店(いちみせ)にて國綱の脇指をもとめ、
『刃(やいば)をこゝろみん。』
と願ひ居たり。
折節、召仕(めしつかひ)の若黨、罪おかす事、有(あり)。幸ひ、
『國綱の道具にて手討(てうち)にせん。』
と思ひ、座敷へ若黨をよび、此者、既に殺さるゝをや知りたりけん、大脇指をさして、座を隔(へだ)て手をつき、居たり。
大次郎、手紙を差出(さしいだ)し、
「是を何某(なにがし)へ持行(もちゆけ)。」
と抛(なげ)やる。
かの者、手を延(のべ)、手紙取(とる)所を、間(ま)を見すまして拔打(ぬきうち)に、かのものゝ天窓(あたま)を打(うつ)。
若黨、前へのめりけるが、をきあがり、飛(とび)しざり、脇差を拔(ぬき)、
「むたいに人を殺さば、旦那とは、いわせぬぞ。」
と身を捨(すて)て踏込(ふんごみ)踏込、切(きり)かゝる。
大次郎、請(うけ)ひらき、切れ共(ども)切れ共、刃にふくして切れず、大次郎も數ケ所手負けるが、すきをみて、踏込、組打(くみうち)にして、取(とり)ておさへ、むたいひに、首をかき落せり。
大次郎、大力故(ゆゑ)、如此(かくのごとし)。若(もし)非力のものならば、此時、若黨に切(きり)ころさるべし。
又、同家中に魚住登理(うをずみたうり)といふて、やせがれたる男あり。家の普代に冨右衞門といふもの、登理親の代より仕へける故、登理年若きをあなとどり、我儘をいふ。ある時、登理、朋輩、饗應する砌(みぎり)、冨右衞門、いか成(なる)事、有(あり)けん、惡口を出(いだ)し、登理を訇(ののし)ル。登理、常々やわらかなりし男成(なり)しか、堪忍成難(なりがた)くや有けん、備前長光壱尺八寸の脇指をぬひて、冨右衞門を大けさに打放(うちはな)す。冨右衞門忰(せがれ)、臺所に料理をなし居たりけるが、
「是は。」
と言(いひ)て刀を拔(ぬき)て走り懸り、無二無三に打(うつ)太刀を、魚住、首をふつて、太刀をよけ、かの男がかうべをわるに、瓜をわりたるごとく、おとがいまで切付(きりつけ)たり。登理、脇ざし大わざ物故、非力の小男といへども、如此。
昔、毛利元淸と植木助冨と勝負の砌、助冨は水田國重三尺三寸手切三ツ胴の刀にて、近付(ちかづく)兵、拾人斗(ばかり)、切り伏せたると有(あり)。いにしへより、刀のきれは三ツ胴を以(もつて)、限りとす。三ツ胴は細こし二ツ。二の胴壱ツにて三ツ胴と云。三ツ胴の前切は兩車なれども三ツ胴より兩車は落難(おちがた)し。物に心得ぬものゝ、車先の落たるをみて、
「兩車つばなしに落たり。」
なといふは不覺なる事ぞかし。
以前、水崎團右衞門、ためし物をするに、「刎(はね)かふ」とといふ盜人(ぬすびと)、誅罪にあいける折、つりけさに仕懸ケ、水崎、後ろへ𢌞り、刀の既に刎かぶとか肩先へ當る折、かの者、兩手をふるひ、拔足(ぬきあし)をちゞめ、立杭(たてぐひ)を踏折(ふみをり)、立上(たちあが)らんとせし間、立げさになる右のほう骨を添(そへ)、肩先より、から竹わりに成(なし)て、ふんどし三ツ結(むすび)を拂ひ落せり。此刀は平安城藤原國俊なり。
古河(こが)の御城主に國光の脇差、有(あり)。
或時、御城主の夢に老翁まみへて曰、
「明夜、君、變化(へんげ)の爲になやまされ給ふべし。我、常に御側にあらざる故、かゝる怪物、近付(ちかづき)候。我は國光の刀の靈なり。」
といゝて消失(きえうせ)たり。
城主、明朝、納戸(なんど)の者をめして、國光の脇ざしを取寄(とりよ)せ、是を帶し玉えり。
案のごとく、其日、夜更、人靜まりて後、城主の寢殿へ、靑ざめたる大女房、來り、障子をあけ、入(いり)たり。
城主に向ひ居て、きばをむき、目をはりて、飛懸(とびかか)らんとするけしきにみへたり。
城主、件(くだん)の國光の脇差を以(もつて)、突(つき)とめ玉へり。
女、急にのがれて、みへず。
夜明(よあけ)て尋(たづね)給へば、大きなる猫、石垣の間に逃入(にげいり)、死(しし)たり。
……名作にはかゝる希代(けだい)のためし有(ある)事、あげてかぞふべからず。」
とて、其外、樣、々昔語(むかしがたり)をなし玉へり。
其後(そののち)、間もなく、隨世翁、身まかり玉ふ。
今日の夕べ、昔を思ひ出(いだ)し、落淚、おさへ難し。
きのふみし人はととへは薄氷思ひもとけてあしきなのよや
[やぶちゃん注:「赤羽隨世」作者三坂春編は会津藩士と推定されるが、この作者が強く心惹かれ、しかも刀剣類についての極めて私的なエピソードに詳しい点から見て、この人物も年長の会津藩士の相当な人物と考えてよい。
「小姪(シテツ)」姪は甥に同じい。「小」は「かなり年下の」謂いで、さればここは、親族でもない、あかの他人であるにも拘わらず、まるで年若い甥っ子のように目を懸けて呉れたことを指していよう
「土津(はにつ)靈神」福島県耶麻郡猪苗代町にある土津神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。陸奥会津藩初代藩主保科正之を祀る。ウィキの「土津神社」によれば、同神社は延宝三(一六七五)年に『磐梯山麓見祢山』(みねやま)『の地に葬られた保科正之の墓所に造営された。「土津」(はにつ)という名称は』寛文一一(一六七一)年に『正之が吉川惟足より吉川神道の奥義を授けられた際に「土津」の霊神号を送られたことに由来している。翌寛文十二年十二月十八日(一六七三年二月四日)、正之が逝去『すると、遺言通り』、『見祢山の麓・磐椅神社の西方に葬られた。正之は生前、死後は磐梯山の神を祀る磐椅神社の末社となって永遠に神に奉仕したいと望んでいたという。そのため、土津神社は磐椅神社の末社となっている』。『正之の葬儀のときに葬儀奉行であった会津藩家老友松氏興は、神社の維持管理の方法として、神社の神田を作って』、『そこからの収益で維持することを考えた。そして、荒野を切り開いて田を開発するために造られたのが土田堰(はにたぜき)である。土田堰は長瀬川(酸川の合流地点よりやや北側の辺り)から引水され、磐梯山東麓から土津神社の境内前を通り、大谷川下流にそそぐまでの約』十七『キロメートルの堰で、磐梯山の南麓・猪苗代湖北西部一帯を灌漑している。土田堰によって開墾された村は土田新田村と呼ばれた。また、正之の墓と土津神社を守り、祭事を行う人々のために造った集落が土町(はにまち)である。土町は土津神社の門前に位置し、住民は年貢や賦役を免除されていた』ともある。この話柄の老人はこの神社「へ仕へ奉りける」とし、そうした「朋友朋輩」がかつて沢山いたが、今は(当時の同僚で生きている者は)私一人となってしまったと言っていることから、三坂春編の生年が元禄一七・宝永元(一七〇四)年頃と推定されているから(政之逝去から約三十年後の出生)、まさに三十年前の土津霊社が創建され、その初期、亡き藩主の御霊を守るために藩から派遣された若き藩士の一人であったと考えてよいのではなかろうか。三坂は一貫して彼を「老人」「翁」と称しており、この話を聴いて間もなく、彼は亡くなったというから(本書の序は寛保二(一七四二)年で、本文には彼が自らを「七拾有餘」と言っている)、三坂が聴いたのが、三坂が非常に若い頃(だからこそ「小姪」と三坂は言っている)、二十代とするなら、この赤羽翁は政之の逝去の頃に生まれて、その十数年前後に若侍として土津霊社に奉仕したと考えてよいのではなかろうか?
「利刃(りじん)」よく切れる刃物・切れ味の鋭い刀で、以下の実際の名刀話のままであるが、ここはそこから、臨機応変に迅速に状況を判断して動くことを諭している。
「利鈍(りどん)を心見ず」鋭利か鈍麻かを試みることなしに。
「最上」出羽(羽前)村山郡山形(現在の山形県山形市)に居城(山形城)を置いた山形藩。
「村越大次郎」不詳。
「國綱」鎌倉時代の山城国の京粟田口派の刀工で、粟田口六兄弟の末弟である国綱及びその流れを汲むとされる一派。
「刃にふくして切れず」「刃に服して切」り殺さ「れず」、と読んでおく。
「むたいひに」「ひ」は衍字であろう(但し、底本には編者注記はない)。「無體に」でここは、無理矢理、の意。
「魚住登理(うをずみたうり)」不詳。読みは私の推定。
「備前長光」ウィキの「長光」より引く。『鎌倉時代後期の備前国(岡山県)長船派(おさふねは)の刀工。長船派の祖・光忠の子とされる。国宝の「大般若長光」をはじめ、華やかな乱れ刃を焼いた豪壮な作から直刃まで作行きが広く、古刀期においてはもっとも現存在銘作刀が多い刀工の一人である』。
「壱尺八寸」五十四・五四センチメートル。
「大けさ」「大袈裟」。上段に振りかぶって袈裟懸けにすること。
「かの男」冨右衛門の息子。
「おとがい」「頤」。下顎。即死したものと思われる。我儘な父親のために命を落としたこの青年が可哀想だ。
「毛利元淸」織豊時代の武将で毛利元就の四男が同姓同名であるが、戦国史には詳しくないので、不詳としておく。
「植木助冨」不詳。「冨」の字は底本のママ。
「水田國重」江戸初期の寛文(一六六一年~一六七三年)頃の備中の刀鍛冶。
「三尺三寸」九十九・九九センチメートル。一メートルの長刀。
「手切三ツ胴」刀剣の実際の人体を用いた据え物切りに於いて三人分の人体(通常は罪人の死体)を重ね置いたものを、一刀のもとに鮮やかに両断し得た刀を「三つ胴」と称した。「手切」(「てぎり」であろうか)はよく判らぬが、普通に刀を以って普通に振り下ろしてすぱっと切ることと採っておく。要は、鋸引きのようにしたり、手で背を押して斬ったりしないことかと思う。
「三ツ胴は細こし二ツ。二の胴壱ツにて三ツ胴と云。三ツ胴の前切は兩車なれども三ツ胴より兩車は落難(おちがた)し」刀剣には詳しくなく、意味不明である。以下の「物に心得ぬものゝ、車先の落たるをみて」「兩車つばなしに落たり。」「なといふは不覺なる事ぞかし」を含めて識者の御教授を切に乞うものである。ウィキの「試し斬り」によれば、「兩車」の「車」というのは人体の腰の部分を指すようである。脊柱骨三本よりは二人分の腰部の切断の方が難しそうではある。
「水崎團右衞門」不詳。
「刎(はね)かふ」「刎(は)ね公」か?
「あいける折」「あい」はママ。
「つりけさ」「吊り袈裟」であろう。木か柱から繩で吊り下げ、下半身(ここは以下のシークエンスを見る限り、中腰のような感じで地面に固定したものか)を動けぬようにした(そうしておかないと暴れて上手く試し切り出来ない)相手を袈裟懸けに斬るものであろう。
「刎かぶとか肩先へ當る折」意味不明。表記は底本のママ。思うにこれは「と」は衍字で、『「刎かふ」が肩先』の意ではあるまいか? 謂わずもがなであるが、「袈裟懸け」とは、一方の肩から他方の腋(わき)へ向かって刀で斬り下げることを指す。
「拔足(ぬきあし)をちゞめ」「足を縮め」、「拔き」の意であろう。地面に竹や棒杭で固定されてあった腰から下の、特に足を力任せに引き抜いて外したのであろう。
「立げさ」斜めではなく、体幹に対してより縦に打ち込む袈裟がけのことを言うか。
「右のほう骨を添(そへ)」「右の頰骨を添へ」斬りにしつつ、「肩先より」「から竹わり」(唐竹割り。ここから、相手が暴れたことから、予定していた普通の袈裟がけにする余裕がなくなり、明らかに肩の首により近い位置から縦に真っ直ぐ下していることが判る)にしたというのであろう。
「ふんどし三ツ結(むすび)を拂ひ落せり」体幹を縦割りにしたが、腹部上方で手前にさっと引いたのであろう。褌の方は、その結び目の部分だけが、ぱっと切れただけだった、というのである。
「平安城藤原國俊」不詳。鎌倉後期の刀工で来国行の子に来国俊がいるが、彼は藤原を名乗っていないと思う。
「古河(こが)の御城主」下総(現在の茨城県古河市)にあった古河藩の初期でも藩主は目まぐるしく変わっている。
「國光」新藤五国光(しんとうご くにみつ 生没年不詳)は鎌倉後期の相模国の名刀工。永仁元(一二九三)年~元亨四(一三二四)年までの在銘作刀が残存する。相州伝と呼ばれる作風・系統の実質的な創始者である。
「玉えり」ママ。
「きのふみし人はととへは薄氷思ひもとけてあしきなのよや」整序すると、
昨日見し人はと問へば薄氷(うすごほり)思ひも溶(と)けて味氣(あじき)なの世や
である。三坂には悪いが、あんまり上手い歌ではない。]
« ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 飛ぶ島(ラピュタ)(11) 「死なない人間」(2) / 飛ぶ島(ラピュタ)~了(帰途、日本に寄るシークエンス有り) | トップページ | 柴田宵曲 俳諧博物誌(16) 雀 一 »