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2017/12/27

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十二年以前 身辺に現れた人々 / 明治二十二年以前~了

 

    身辺に現れた人々

 

 居士が秋になって上京したのは何日頃かわからぬが、「歸郷中武市子明と中秋を三津(みつ)に賞す」ということが『筆まかせ』に見えるから、その後だったのであろう。「啼血始末」の序に「九月上旬」とあるのは上京前か、上京後か、それも明でない。

[やぶちゃん注:ここ以下、明治二二(一八八九)年の事蹟。

「歸郷中武市子明と中秋を三津(みつ)に賞す」「筆まか勢」の對」(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。これは明治二二(一八八九)年九月九日(旧暦八月十五日)で、この日、友人武市子明(本名、庫太)と三津(現在の愛媛県松山市三杉町三津浜地区。(グーグル・マップ・データ))に赴き、料亭で月を賞した。伊予歴史文化探訪に詳しい。]

 十月に至り、居士は一時常盤会寄宿舎を出て不忍池畔に下宿した。「水戸紀行」はここで成ったので、十月十七日に稿を起し、二十日に書上げたと序文に見えている。居士は水戸旅行の後、一カ月余にして病を獲たため、遂に紀行を草する遑(いとま)がなかったが、その病はまた水戸旅行が近因をなした観があるので、『子規子』を草した後、遡って「水戸紀行」の筆を執るに至ったもののようである。

 不忍池畔に宿を転じて後、一夜五百木飄亭(いおぎひょうてい)氏が新海非風(にいみひふう)とともに訪ねて来た。この晩のことは飄亭氏が後年『ホトトギス』に掲げた「夜長の欠(あく)び」なる文中に見えている。月明(げつめい)に乗じて上野を徘徊し、三人各〻当夜の事を記す約束であったが、翌日居士が「三傑句合せ芭蕉泣(なか)せ」という草稿を携え来ったのみで、他の二人は何も出来なかった。「大空に月より外はなかりけり」という非風の句が圧巻であったというによって、ほぼ大体を察すべきであろう。「三傑句合せ芭蕉泣せ」なるものはどうなったか、今は伝わっていない。

[やぶちゃん注:「五百木飄亭」五百木良三(いおきりょうぞう 明治三(一八七一)年~昭和一二(一九三七)年)は国粋主義者。飄亭は俳号。ウィキの「五百木良三」によれば、『伊予国温泉郡小坂村新場所(現・愛媛県松山市日の出町)の生まれ』で、明治一八(一八八五)年に『松山県立医学校に入学』、明治二十年には『大阪に出て、今橋の町医者のもとに寄寓し、医務手伝いのかたわら勉学にはげみ』、十九『歳で医術開業の免許を得たが、その志は「病を癒さんより国を癒すの医」たらんとするものであった』という。明治二二(一八八九)年、『上京して、旧藩主久松家の設立になる東京学生寮でドイツ語の研究に専心し、正岡子規と文学を論じ、子規から俳句の指導をうけた』。翌年、『徴兵に合格し、陸軍看護長に採用され、青山の近衛連隊に入営し』、明治二五(一八九二)年まで『軍隊生活をおくった。日清戦争で』明治二七(一八九四)年六月、『第五師団にしたがって出征し、筆名「大骨坊」で従軍日記を「日本」に』一『年間』、『連載した』。『帰国後、明治二十八年に『「日本」に入社し、陸羯南と活躍し』、翌明治二十九年には『近衛篤麿を擁し』、『国民同盟会を結成』、『中国の保全を主張した。篤麿のもとで「東洋」を発行し、対アジア対策をあきらかにした』。明治三四(一九〇一)年に『「日本」編集長となって対外硬派として論を展開し』、明治三十六年退社、『桜田倶楽部同人として対露同志会に力をつくし、翌年の『日露戦争開戦に影響』を与えた。明治三八(一九〇五)年九月五日の『日露講和条約議定書の調印に』際しては、『東京日比谷に国民大会をひらき、講和条件不服、条約破棄の世論を呼び起こした』。大正二(一九一三)年、『内田良平その他と対支連合会をおこし、翌年、『国民義会を結成』、大正四年には『大隈内閣の密命をうけて満州に』入った。昭和四(一九二九)年、『政教社にはいって「日本及日本人」を主宰した』とある。子規より四歳歳下。

「新海非風」(明治三(一八七〇)年~明治三四(一九〇一)年)は愛媛県出身の俳人。東京で正岡子規と知り合い、作句を始めた。後、結核のため、陸軍士官学校を退学、各種の職業を転々とした。高浜虚子の「俳諧師」の五十嵐十風は彼がモデルと言われる。]

 十一月二十一日、居士は大磯に遊び、故林館に投宿した。大谷是空(おおたにぜくう)氏が脳を病んでここにおったので、数日同宿したのである。この時の事は「四日大尽(よっかだいじん)」なる一篇に悉(つく)されている。居士はこの一篇に冠するに「水戸紀行裏」なる文字を以てした。「水戸紀行」は病を獲(え)る前の記録、「四日大尽」は病後の保養である点からいっても、明に表裏をなすわけであるが、その内容も自らこれに伴うものがある。「水戸紀行」は雨に濡れて歩いたり、菊池仙湖氏が不在だったり、宿屋で冷遇されたり、那珂川で震慄(ふるえ)を覚えたり、失望と落胆とを以て充されているに反し、「四日大尽」は放林館を中心に大磯をぶらぶらしたに過ぎぬから、「得意と快樂とを以ておはりぬ」というのは、いささか誇張であるにしても、とにかく明るい気分に終始している。篇中の俳句も十余に及んでいるのは、同宿者が是空氏だった関係もあろうと思われる。

[やぶちゃん注:「大谷是空」正岡子規の最も親しい友人の一人であった、俳人で教育者・評論家の大谷藤治郎(慶応三(一八六七)年~昭和一四(一九三九)年)。美作国西北條郡西苫田村(現在の岡山県津山市内)出身。東京大学予備門に入学、子規・漱石らと同級となった。この明治二十二年に脳痛のために退学、郷里や大阪の地で療養後、津山尋常中学校創立とともに教員となった。明治三〇(一八九七)年には津山の地を離れ、汽船会社に勤務し、中国に渡航するなどしたが、明治四二(一九〇九)年頃から『中外商業新報』の論説・社説を担当、その後ほぼ亡くなるまで執筆を続けた(以上は和田克司氏の論文「正岡子規と大谷是空」PDF)に拠った)。

「四日大尽」(「四日大盡」)国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。]

 この十二月居士は故山に帰省している。冬季休暇の帰省はこの時がはじめてである。けだし病後の故であろう。藤野古白を伴い、途中大磯、浜松、名古屋に各二泊、京都に三十三間堂を一見するなど、帰省としてはかなり悠々たる道中であった。

 二十二年中の居士についてはなお記すべきものが少くない。第一は夏目漱石氏との交遊である。居士が漱石氏の「木屑録(ぼくせつろく)」に加えた評語に

 余知吾兄久夫。而與吾兄交者。則始千今年一月也。

 (余の吾兄(ごけい)を知るや久し。而れども吾兄と交はるは、則ち、今年一月に始まるなり。)

とあるから、二十二年に入ると間もなくはじまったものらしい。漱石氏の後年語ったところによると、交際し始めた一原因は寄席の話にあったそうである。「二人で寄席の話をした時、先生大いに寄席通を以て任じて居る。ところが僕も寄席の事を知つてゐたので、話すに足ると思つたのであらう。それから大いに近よつて來た」のだという。同じ予備門に籍を置いていたのだから、顔位は早くから知っていたに相違ないが、互に相許すまでには大分時間がたっている。明治文壇に不朽の痕迹をとどめた両者の接近が、学問や文章でなしに寄席の話であったのは頗る面白い。子規居士に宛てた漱石氏の書簡で、今伝わっている最古のものは、居士の喀血当時医師について意見を質した当時の一通であるが、例の天然居士米山保三郎なども、漱石氏と共に医師を訪ねた一人のようである。

[やぶちゃん注:同年の「筆まか勢」に「木屑錄」の一章もある(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。但し、この「評語」はここにはない。

 以上の漱石の引用は夏目漱石「正岡子規」(『ホトトギス』明治四一(一九〇八)年九月号初出)。岩波旧全集で校訂した(底本には誤りがある)。

「子規居士に宛てた漱石氏の書簡で、今伝わっている最古のもの」明治二二(一八八九)年五月十三日附正岡常規宛書簡(旧全集書簡番号一)。正岡子規を診ている山崎医師を『不注意不親切なる醫師』と断じており、追伸部分に『何れ二三日中御見舞申上べく又本日米山龍口の兩名も山崎方へ同行し呉れたり』と、米山保三郎(既出既注)の名も出る。]

 もう一つ面白いのは、両者の名を不朽にした子規、漱石の号が各〻この年にはじまっていることであろう。子規の号が喀血に因ることは前に記した。漱石の号もこの年の五月、居士の「七草集」に評語を加えるに当ってはじめて用いられたので、「七草集には流石の某(それがし)も実名を曝すは恐レビデゲスと少しく通がりて當座の間に合せに漱石となんしたり顏に認(したた)め侍り」と手紙で断っている。しかも漱石なる号は居士が松山時代に一度用いたことがあるというに至っては、いよいよ出でていよいよ奇といわなければならぬ。

[やぶちゃん注:引用は明治二二(一八八九)年五月二十七日附正岡常規宛書簡(旧全集書簡番号二)の追伸部。表記に違いがあったので校訂した。]

 第二は内藤鳴雪翁との交渉である。居士はそれ以前にも、同郷の人々と共に翁に漢詩の添削を乞うたことなどがあったが、この年翁が服部嘉陳(よしのぶ)氏に代って常盤会寄宿舎の監督となるに及び、俄に親しい間柄となった。居士が喀血したのは、服部氏がまさに帰国せんとする際だったというから、翁はそれ以前に監督となったものであろう。当時居士はいまだ俳句に多く力を用いず、従って翁も直にその世界に引入れられるようなことほなかったが、故山以来の詩友である竹村黄塔(たけむらこうとう)が入舎してから、翁と三人の間に言志会なるものが結ばれることになった。言志会の草稿たる「言志集」は鳴雪翁の手許にとどまり、その内容の一斑は後年翁が紹介されたことがある。文学的価値からいえば殆ど見るに足らぬものであるが、翁が俳句界に足を踏み入れる素地はこの間に作られたもののように思う。但当時は鳴雪と号するに至らず、南塘あるいは破蕉の号が用いられていた。

[やぶちゃん注:「内藤鳴雪」(弘化四(一八四七)年~大正一五(一九二六)年)は元伊予松山藩藩士、後に明治政府の官吏で俳人。本名は師克(もろかつ)、後に素行(もとゆき)と改名した。俳号鳴雪は訓の「なりゆき」で「何事も成行きに任す」の当て字という。ウィキの「内藤鳴雪」によれば、『伊予松山藩の上級武士内藤房之進と八十(やそ)の長男として、藩の江戸中屋敷に生まれ』、八『歳のときから父に漢籍を教わり、また、草双紙類を好み、寄席や義太夫も知った。なお、同時期に小使として出仕していた原田左之助(後の新撰組幹部で十番隊隊長。当時』十五、六歳)『と会っており、遊んで貰った事もあった』。安政四(一八五七)年、『父の転勤で一家の故郷松山に移り、藩校明教館で漢学を学び、また、剣術も習ったが』、「武」より「文」に優れたという。文久三(一八六三)年十七歳の時、『元服して師克を名乗り、幹部の卵として明教館に寄宿し、大原武右衛門(正岡子規の母方の祖父)に漢詩を学んだ』。翌年、『藩主の嗣子松平定昭の小姓となり、翌年の第二次長州征伐に従っ』ている。慶応三(一八六七)年、『隠居した前藩主松平勝成の側付とな』り『(春日)チカを娶』る。同年、命ぜられて『京都の水本保太郎の塾に学び、翌年』、『水本の転勤に従って東京の昌平坂学問所へ入寮した』明治元(一八六九)年、『松山に戻り、翌年から権少参事として明教館の学則改革に携わった』。明治一三(一八八〇)年三十三歳の時、『文部省へ転じ』、『累進して』『書記官・往復課長』・寄宿舎舎監(東京に学ぶ松山の子弟のための常磐会という寄宿寮)・『参事官兼普通学務局勤務』を勤め、明治二四(一八九一)年に退官したが、寄宿舎監督は続けた。『寄宿生の、正岡子規・竹村黄塔・その弟の河東碧梧桐・五百木瓢亭・勝田主計らに、漢詩の添削をしてやった』りしたが、翌明治二五(一八九二)年四十五歳の時、二十一も年下の子規の俳句の弟子となった

「服部嘉陳」常盤会寄宿舎初代監督。子規の縁戚でもあった。抹消歌であるが、この時の送別に詠んだ一首が、

 

 ほとゝぎすともに聞かんと契りけり血に啼く別れせんと知りねば

 

とされる。]

 五百木飄亭氏のことは前にちょっと述べた。飄亭、非風、それに藤野古白を加えた三人は、明治俳壇の先駆者として、最も早く居士の身辺に現れた人々である。その飄亭氏が上京して、常盤会寄宿舎の人となったのは、この年の五月であった。

 本郷の夜店に『風流仏』を発見して、大に愛読するに至ったのもこの年の秋であるらしい。はじめこの善が出版された当時、その文章のむずかしいことと、内容の面白いこととを説いた同室の友人というのは、新海非風ではないかと思うが、よくはわからぬ。居士は最初友人が『風流仏』を読むのを聞いて、その意味がよくわからず、とにかく人に解し難い文章を書く者は尋常でないと感じたところから、これを買ったのであった。『風流仏』は『書生気質』以後に以て、居士の深く傾倒した第一の小説である。『風流仏』に関しては後に改めて説かなけれはならぬが、ここではさし当り『風流仏』を夜店に得て愛読するに至ったことだけを記して置くことにする。

[やぶちゃん注:「風流仏」幸田露伴(慶応三(一八六七)年~昭和二二(一九四七)年:子規と同年)作の小説。明治二二(一八八九)年『新著百種』に発表。旅先で出会った花売りの娘に恋した彫刻師珠運の悲恋を描いた露伴の出世作。

「書生気質」既出既注の坪内逍遙(春廼屋朧)の小説「當世書生氣質」。]

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