原民喜作品集「焰」(正規表現版) アトモス
ア ト モ ス
穩かな海に突き出してゐる丘の一角で、一人の人間が勝手な瞑想をしてゐた。恰度彼が視てゐる海の色は秋晴れの空と和して散漫な眺めではあつたが、それは肩に暖かい日光が降り注ぐためでもあつた。彼は芝生の上に落ちてゐる自分の影法師を眺めて、何か微妙な苦惱を貪つてゐた。そこには何か解きあかしたい一つの感覺があつた。鹽分を含んだあたりの空氣を彼は吸つては吐き、吐いては吸つた。そのうちに彼は不圖無意味に近くかう口遊(くちずさ)んだ。
――時間とは溫度のことか。
それから大分後のことではあるが、彼は溫度の相違に依つて動く永久に停まらない時計が既に發明されてゐるのを識つて急に變な氣持がした。そしてその機械が自分より偉大な感覺を持たされてゐるのを意ふと、一そう變な氣がした。
[やぶちゃん注:「アトモス」“atmos.”で“atmosphere”(地球の大気・大気圏(重力によって留められている空気の層))の省略形であるが、実は以下の「溫度の相違に依つて動く永久に停まらない時計」、スイスのル・サンティエに拠点を置く十九世紀前半に創業された高級時計会社「ジャガー・ルクルト」(Jaeger-LeCoultre)が本書刊行の八年前の一九二八年に作り上げたほぼ永久的に動き続ける置時計「アトモス」“ATMOS”の名である。システムその他は銀座の高級時計専門店「GINZA RASIN」の公式サイト内のこちらを参照されたい。]

