猿 原民喜
[やぶちゃん注:昭和二一(一九四六)年十一・十二月号『近代文学』初出。但し、作品内時制の前半はその十年前に始まる。だから、原民喜の妻貞恵が生きている(貞恵は昭和一九(一九四四)年九月に糖尿病と肺結核のために亡くなった)。
底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅱ」の「エッセイ集」に拠った。歴史的仮名遣を用いており、拗音表記もないので、彼の原稿を電子化してきた経験から、漢字を恣意的に正字化した。傍点「ヽ」は太字に代えた。
「三匹の猿のポスター」捜して見たが、見当たらない。銃後の防諜警戒を促すポスターか。
『シチエイドリンの「大人のための童話」』ロシアの風刺作家で保守勢力から激しい批判を受けたハイル・エヴグラフォーヴィチ・サルトィコフ=シチェドリン(Михаил Евграфович
Салтыков-Щедрин:ラテン文字転写:Mikhail Yevgrafovich
Saltykov-Shchedrin 一八二六年~一八八九年)の作品集。「大人の爲の童話」という邦題で大沢伸夫訳が昭和一七(一九四二)年に弘文堂から出版されているから、或いは、原民喜はそれを読んだか。無論、それ以前の英重訳かも知れぬ。私は未読。
本篇は現在、ネット上には電子化されていないものと思う。【2017年12月23日 藪野直史】]
猿
ちようど今から十年まへのことであるが、ある夜、私は日本橋小傳馬町にKといふ先輩を訪れた。驚いたことに、その人は猿を飼つてゐるのであつた。それもただの飼ひ方ではなく、猿と非常な仲よしになつてゐるのだつた。そのKといふ家のすぐ隣が、小鳥や犬などを賣る店で、その軒さきに一匹の猿が繫いであつたのを、Kさんが屈んで時折、眺めてゐるうち、いつの間にか猿の方でKさんを慕ひだしたので、たうとう家にひき取つて飼ふことにしたのだといふことだ。
「一杯飮め」と、壁のところに控へてゐる猿の方を、しみじみと眺めながら、Kさんは酒盃をさしむける。すると相手はテーブル近く猿臂を伸して、その盃をうけとる。私はどうも、少し不安であつた。いい加減、醉ぱらつたKさんは更に私を和泉橋のおでん屋に連れて行き、「僞り多き人の世に、僞り少なきは親子の情であるが、あの猿はこの己をさながら親の如く慕つてくれる」などと、そこで、感傷するのであつた。恰度その頃、Kさんは母親と死別した打擊もあつたのだらうが、やはり何か滅入るやうな世相の不安が、KさんにはKさんであつたのであらう。
猿に面喰らつた私は、その後ふと、突飛な話を思ひついた。
ある人が、一匹の猿を故に入れて飼つてゐるうち、猿がだんだん、その人間をあはれむやうな眼つきで眺めだす。どうもその猿の目つきが氣になりながら、その人は何となく氣が沈んでくるし、時々、矢鱈にもの狂ほしくなる。ところが、ある日、突然、何かのはずみで氣がつくと、自分の周圍がすべて猿になつてゐる。ビルの窓から覗く顏も猿だし、車掌臺に立つて電車を運轉してゐるのも猿だ。街のポスターには、三匹の猿の繪が麗々しく掲げられ、見ざる聞かざる物いは猿とある。
かういふ作品を書かうと思ふのだが、と妻に相談すると、
「ついでに、そのお猿の國では、お猿の恰好をした大砲の彈が、づしんづしん空高く飛んでゆくことにしたら」
と、私の妻はまぜつかへすのであつた。結局、その作品は仕上げなかつたが、それから五年ばかしすると、悲しいことには、ほんとうに、その猿のポスターを巷に見かけるやうになつた。それは昭和十六年の春のことだが、丸ビルの喫茶店の壁に、見ざる聞かざるものいはざるの三匹の猿のポスターを見て、私ははつとしたものだつた。
その後、私は久しくKさんに御無沙汰してゐたし、Kさんの飼つてゐた猿はどうなつたのか、遂に訊く機會もなかつた。私が最後にKさんの家を訪れたのは昭和十九年の暮で、空襲警報が出たりして、それは落着かない午後であつた。猿はもうゐなかつた。鐵兜をかむつたKさんは日本刀をとり出し、「なあに、落着かなきやいかん」と頻りに云つてゐた。
先日、私は神田驛で下車すると、小傳馬町の方へぶらぶら步いて行つてみた。すると、あの邊は燒けないで無事に殘つてゐるのを、はじめて知つた。さてはKさんとも久振りで逢へるかしら、とわくわくしながら、私はその家の前に立つた。が、その家には今はほかの人が棲んでゐた。そのかはりKさんの疎開先や消息がわかつた。Kさんは那須野の一角で今も(今は今で)相変らず人の世の腐敗を嘆じながら、俳句など作つてゐるといふ。
以前読んだシチエイドリンの「大人のための童話」のなかには、なかなか骨を刺すやうなものがあつたと私は記憶する。われわれをとりまく今日のさまざまな現象も、何かあんな風な形式で小気味よく纏まらないものだらうか。