老媼茶話巻之七 燒松炙(タイマツアブリ)
燒松炙(タイマツアブリ)
西方(しにかた)に淸運寺といふ小寺あり。住僧秀山といふ出家、女犯肉食(ニヨホンニクじき)をこのみ、あまつさへ、博奕をうち、てらの什物(じふもつ)まてでもうち込(こむ)。
此故に、おのがすむ寺へ火をつけ、燒(やき)はらひ、本尊阿彌陀も燒(やき)、失ひ、
「急火(きふくわ)にて本尊の什物・衣類、悉く燒(やけ)て、漸(やうやう)、身壹ツ逃出(いで)たり。」
と僞りけれども、御詮義のうへ、罪咎(つみとが)、のこらず顯(あらは)れ、藥師堂にて、燒松(たいまつ)やき、行(おこなは)れける、となり。
[やぶちゃん注:「燒松炙(タイマツアブリ)」前々条及び前条の私の注で引用した中村彰彦氏の「なぜ会津は希代の雄藩になったか 名家老・田中玄宰の挑戦」(二〇一六年PHP研究所刊)によれば、やはり先に示した『会津若松市図書館にある『贈従二位左中将保科正之之事実略』という資料』に、これが挙っており、『木ヲ立テ首械(くびかせ)ヲ以テ罪人ニ繋(つな)ゲ、両手ヲシテ竹(の)輪ヲイダカシメ、麻、葦ヲ束ネ、火ヲ点ジ、左右前後ヨリ之ヲ持チテ焚ク。罪人、踴躍絶叫シテ死ス。之ヲ焼松炙(たいまつあぶり)ト云フ』とあるのが、この残酷刑の正確事実をよく伝えている。
「淸運寺」こちらのデータによれば、現在の鶴ヶ城の西方、福島県河沼郡会津坂下町字北中甲(ここ(グーグル・マップ・データ))に同名の浄土宗の寺院はあるが、ここかどうかは定かでない。
「秀山」不詳。
「うち込(こむ)」賭け物として賭博場へ持ち込んでしまう始末であった。
「藥師堂」この刑場は「藥師堂の人魂」の注で子細に検証した。是非、そちらを参照されたい。]
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