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2017/12/26

原民喜作品集「焰」(恣意的正字化版) 牛を調弄ふ男

 

 牛を調弄ふ男

 

[やぶちゃん注:「調弄ふ」は「からかふ」(揄ふ)と訓じている。]

 

 その少女は馬鹿なのか善良なのか、とにかく調子はづれの女だつた。それにその喫茶店の制度が、一々客のテーブルの側を巡囘させて、「いらつしやいませ、今日は誠に結構なお天氣で御座います。」と御機嫌伺ひをやらせるのだから少し變つてゐた。誰だつてこんな所へ本氣で來る筈はないと安永は思つた。その彼だつていい齡をして何が面白くてこんな場所に來るのか解らなかつた。が、三日その少女を見ないと何だか物足らないし氣になる程安永はよく其處へ行つた。

 その日、安永は月給を貰つて吻とした輕い氣持で其處のドアを押した。

「いらつしやいませ、今日は誠に結構なお天氣で御座います。」少女は紋切型をとり澄ました態度で無表情に述べた。

「エヘヘヘ」

 安永は何時もなら怺へてゐるところを最初から噴き出した。が、少女は一寸もそんなことで氣持を損ねた容子もなく首を一寸斜に傾(かし)げながら、

「あの何をお召し上りになりますか。」と靜々と伺ふのだ。

「左樣で御座いますなあ、えーと、あ、さうだ、ヨーヨーはないかね。」

「かしこまりました、伺つて參ります、暫くお待ち下さい。」

 少女の去つた後で安永は思はず舌を出した。何ぼ何でも何時もながらあんまりひどい。一體この女は正氣なのか、間拔けなのか。世智辛い都會の眞中で、これはあんまり悠長過ぎはすまいか。尤ももしかすると相手はこいつを賣りものにしてゐるのかも知れないが、さうだとすると一寸薄氣味が惡い。安永はこれまで自分の接した數々の女と彼女とを比較してみたが、比較にならぬ程その少女はまだ稚(おさな)かつた。

「あの御生憎樣、ヨーヨーは御座いません。」

「そいつは殘念だなあ。」

 安永はもう一度彼女を調弄つてやらうかと思つたが、少し氣の毒になつた。

「だつたら紅茶でもくれ給へ。」

 間もなく紅茶が運ばれて來ると、

「どうぞ御ゆつくり。」と少女は一揖して安永の側を離れた。彼はおもむろに紅茶を啜りながら、今度少女が側にやつて來たら何と云つて調弄はうかと考へた。今日はとても陽氣で、爽快だから、もし假りに安永がこの少女に熱烈な戀を打明けたとしても、あまり不自然ではなからう。安永は自分がもつともつと若くて學生か何かだつたらと思つた。彼は煙草をスパスパ吸ひながらレコードを聽いてゐた。そのうちに少女はまた彼の側にやつて來た。

「何か面白いことはないかね、君。」

「左樣で御座いますね、何がよろしう御座いませう。」

 少女は眞面目さうにぢつと考へ出した。

「何だつて面白けりやいいよ。一つ飛切り面白いものを見せてくれ給へ。」

 すると少女は急に思ひあたつた樣に懷に手を入れた。

 何を出すのかと思ふと、それは一通の手紙だつた。

「見てもかまはないね。」

「どうぞ御覽あそばせ。」

 彼は甘つたるいレター・ペーパーに竝べられたインクの跡に目を走らせた。それはつまり極くありふれたラブレーターであつた。何のつもりでこんなものを見せるのだらう、安永は輕い驚きとともに少女を見上げた。

「ふん、どうも有難う。」と、彼は手紙を返したが、もうこの少女を調弄ふ氣にはなれなかつた。

 やがて彼は其處を出ると、とめどもなく街を步き𢌞つた。譯のわからぬ寂しさが安永にはあつた。自分は幾分彼女を妬いてゐるやうにも思へた、が、そんな馬鹿な筈はないと打消すのであつた。かう云ふ時の癖として、彼は屋臺店で電氣ブランを飮んだ。すると彼は遽かにまた活氣づいて來た。

 彼は電車を降りると砂利道の上をよろよろと步いた。後から肥車を牽いた牛がやつて來た。彼は急にその柔和な牛に對して特に親愛の情を覺えた。

「やあ、牛よ、牛よ、牛太郎君。」

 彼は女の頤の下をくすぐるやうな積りで牛の頤を摩さすつた。牛は一向手應へもなくぢつとしてゐた。死んだ俺の女房だつたら、今にきつと怒り出すのだがなあ――と彼はいよいよ調子づいて牛の耳のあたりを撫でた。

「澄ますなかれだ、おい、ハハハ、こん畜生!」

 突然、安永は身を退かうとした。が、既に遲かつた、彼は牛の怒りの角に觸れて、その儘路上に悲鳴を揚げた。

 

[やぶちゃん注:「怺へて」「こらへて」(堪(こら)へて)。

「稚(おさな)かつた」「おさな」のルビはママ。歴史的仮名遣は「をさな」が正しい。

「一揖」「いちいふ(いちゆう)」と読む。「揖」は両手を胸の前で組み合わせて行う礼式の意。軽く御辞儀をすること。一礼。

「ラブレーター」ママ。

「電氣ブラン」ウィキの「電気ブラン」によれば、現在の東京都台東区浅草にある「神谷バー」の創業者神谷伝兵衛が作ったブランデーが混合されたアルコール飲料。『当時電気が珍しかった明治時代に誕生した、ブランデーベースのカクテルである。大正時代に流行した文化住宅・文化包丁などの』「文化~」と『同様に、その頃は最新のものに冠する名称として』「電気~」が『流行しており、それにブランデーの「ブラン」を合わせたのが名前の由来である。発売当初は「電氣ブランデー」という名で、その後「ブランデー」ではないことから現在の商標に改められた』アルコール度数は当時、四十五度と有意に高く、『口の中がしびれる状態と、電気でしびれるイメージとが一致していたため、ハイカラな飲み物として人気を博した。ただし発売元の合同酒精では、電気ブランという名称の由来は「電気との言葉がひどくモダンで新鮮に響いたから」とし、「口の中が痺れるため」という説は否定している。ブランデー、ジン、ワイン、キュラソー、そして薬草が配合されている。材料の詳細、配合の割合は今も秘密にされている』とある。太宰治の「人間失格」の中で、登場人物の堀木は『酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証』すると記す。確かに。口当たりがよく私も好きだが、吞み過ぎると確実に足にくる。但し、ここは屋台のそれであるから、剽窃した偽物の可能性が高い。

「肥車」「こえぐるま」。糞尿 を運ぶ車。

「死んだ俺の女房だつたら」少なくともこの台詞を吐いている安永は実際の原民喜ではない。本作品集「焰」は昭和一〇(一九三五)年刊行であるが、民喜の妻貞恵が亡くなるのは九年後の昭和十九年九月である。]

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