子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十二年以前 啼血三旬号子規
啼血三旬号子規
明治二十二年(二十三歳)の四月三日、吉田匡という友人と共に水戸に遊んだ。東京より徒歩で藤代に一泊、翌日は雨中土浦を経て石岡まで行った。三日目も徒歩の予定であったのを、疲労のため中途から人力車で水戸に入った。この行の一の目的は菊池仙湖氏の家を訪(と)うにあったが、菊池氏が入違いに上京してしまったので、同夜は水戸市中に泊り、その翌日舟で那珂川を下って大洗に遊んだ。この旅中の顚末は「水戸紀行」一篇に詳(つまびらか)であるが、那珂川の舟中で居士は非常な寒さを感じ、震慄(ふるえ)が止まなかった。後にして思えばこれが最初の発病の原因になったらしい、と居士自身記している。前年一塊血を見たのも鎌倉の風雨の中であったし、この水戸行も雨の中を大分濡れて歩いている。那珂川の震慄は結果となって現れたので、この徒歩旅行は多少の無理があったのかも知れない。
[やぶちゃん注:「明治二十二年」一八八九年。
「吉田匡」(名は「ただす」と読んでおく)宿舎としていた常盤会(ときわかい)寄宿舎(本文後述)の松山出身の舎友。
「菊池仙湖」菊池謙二郎(慶応三(一八六七)年~昭和二〇(一九四五)年)は後の歴史研究者で衆議院議員。仙湖は号。藤田東湖を中心とした水戸学の研究で知られた。同い年であった正岡子規・夏目漱石らと交友があった。ウィキの「菊池謙二郎」によれば、『水戸藩士にして水戸支藩石岡藩家老も務めた』『菊池慎七郎の二男として水戸に生まれ』た。『茨城中学校(水戸一高の前身)入学』後、退学、明治一七(一八八四)年五月に上京し、『共立学校へ転学』した。この時、正岡常規と同級となった。『東京帝国大学文科大学国史科を卒業』、『山口高等学校教授、津山中学校校長、千葉中学校校長、第二高等学校校長を歴任』、『さらに清に渡って東亜同文書院監督兼教頭、三江師範学堂総教習兼両江学務処参議となった』。『帰国後は水戸中学校校長を務め』たが、大正一〇(一九二一)年に『「国民道徳と個人道徳」という講演で祖先崇拝の無意味を説いたところ』、『批判を受け』、『辞職を余儀なくされた。これに対し』、『水戸中学生が復帰を求めて同盟休校をする騒ぎに発展した』。大正一三(一九二四)年の第十五回『衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした』。明治十七年九月、共立学校の同級では子規と二人だけが『大学予備門に進み、子規と親しくな』った。翌明治十八年三月頃には、『神田猿楽町板垣方で子規』と『同宿』となっている。同年九月、子規と一緒に学年試験に落第している。『ベース・ボールをやり、子規はCatcher、菊池仙湖はpitcherの役だった』という。その後もしばしば子規の「筆まか勢」に彼の名が登場している。ここに記された通り、明治二十二年四月、子規が吉田匡と二人で、『水戸市まで大部分、徒歩で旅行し、謙二郎の実家を訪問、この時のようすを』「水戸紀行」(国立国会図書館デジタルコレクションの画像(大正一四(一九二五)年アルス刊「子規全集」第八巻。以下、同じ)でここから視認出来る)『として、半年後にまとめている』。『人力車で常磐神社のもとに着いた後、仙波湖』(千波湖。ここ(グーグル・マップ・データ)。彼の号の由来。彼の実家はこの湖畔にあった)『を離れ』、『「坂を上れば上市なり、町幅広く店も立派にて松山などの比にあらず」と記し、大工町への坂を上り、現在の国道』五十『号線の泉町方面への道筋と一致する。宿に寄った後、謙二郎の実家を訪ねたが、子規が二日前、旅に出た直後に出したはがきも届いておらず、謙二郎が今実家の下を通った列車に乗って上京した直後のため、謙二郎には会えなかった。子規はノートに
この家を鴨ものぞくや仙波沼
と記している』。『帰京後、子規が謙二郎を訪ねたところ、会えなかったことを残念が』った。『子規は、この旅が病の元となったとしている』。『同年、子規は朋友として』十九『人を挙げ』ているが、七人目に厳友として菊池を、次に畏友として夏目漱石を挙げている。『また、かつて仙湖』は『子規を十返舎一九にたとえたことがあると』ともある。]
当時居士は常盤会寄宿舎にあった。旧松山藩主たる久松家が、同藩子弟のために建てたので、明治二十年十二月創立以来、居士はこの寄宿舎の人となっている。舎生の文章を集めた『真砂集』なる小冊子が出来たのは、二十二年四月の事であったが、居士はこの書のために「詩歌の起原及び変遷」を草した。『真砂集』とは常盤会寄宿舎が本郷真砂町にあったからの名であろう。「詩歌の起原及び変遷」は居士の文章が印刷に附された最初のものだという点でも興味があるが、居士の興味がどういう方角に向っていたかを卜(ぼく)し得る上からも注目する必要がある。
[やぶちゃん注:「詩歌の起原及び変遷」国立国会図書館デジタルコレクションの同前画像のここから視認出来る。]
五月九日の夜、居士は突然喀血した。翌日は朝寝して学校へは行かなかったが、医師の診察を受けただけで、午後は集会へ出るために九段まで行った位だから、さほどの事とも思わなかったのであろう。然るに同夜十一時頃再び喀血、それより午前一時頃までの間に、ほととぎすの句を作ること四、五十に及んだところ、翌朝またまた喀血した。子規と号するはこの時にはじまるのである。
この喀血の模様は、二十二年九月に至って居士の草した『子規子』一巻に委しく記されている。『子規子』は「啼血始末(ていけつしまつ)」「読書弁(どくしょをべんず)」「血のあや」の三篇より成り、一夜四、五十吐いたというほととぎすの句が「血のあや」に当るものではないかと思われるが、名前だけで内容は伝わっていない。「啼血始末」の中に「卯の花をめがけてきたか時鳥(ほととぎす)」「卯の花の散るまで鳴くか子規(ほととぎす)」などとあるのが、僅にその片鱗を示しているに過ぎぬ。「啼血始末」は閻魔大王の訊問に答えて自己の体質、病を獲(え)るに至るまでの経過を審(つまびらか)に陳述するという体裁のもので、居士の病に関する最も清細な記録である。那珂川の舟中の寒かったこと、帰京後数日を経て後、腹痛に伴う震慄が一夜に三度起ったことなども記されている。居士の喀血は一週間ばかり続いて漸く止んだ。
[やぶちゃん注:「子規子」国立国会図書館デジタルコレクションの同前画像のここから視認出来る。判事閻魔大王・立合検事牛頭赤鬼・同馬頭青鬼と被告正岡子規の台詞からなるレーゼ・ドラマ風の「啼血始末」は二十二の子規が既にして俳諧的諧謔の真骨頂を捉(つらま)えていることを示す快作である。]
繫將生命細如糸
啼血三旬號子規
不敢紅塵衣帶涴
猶期靑史姓名垂
廿年人事幾甘苦
五尺病軀多盛衰
遮莫東風又新歳
且陪諸友共傾巵
繫ぎ將(も)つ生命 細きこと 糸のごとし
啼血 三旬 子規を號す
敢へて 紅塵に衣帶を涴(けが)さず
猶(なほ)期す 靑史に姓名の垂るゝを
廿年の人事 甘苦 幾ばくぞ
五尺の病軀 盛衰 多し
遮莫(さもあらばあ)れ 東風(とうふう) 又 新歳(しんさい)
且(しばら)く 諸友に陪(ばい)して 共に巵(さかづき)を傾けん
とは、翌二十三年の歳始書懐の詩であるが、痰に血痕を印することは一カ月余に及び、医師もその長いのに驚いたとあるから、「啼血三旬号子規」は必ずしも誇張ではなかったのである。
[やぶちゃん注:「涴」「汚(けが)す」に同義。「靑史」歴史。紙のなかった時代、青竹の札を炙って文字を記したことに由来する語。]
居士は最初の喀血の翌日、医師から肺患の宣告を受けた時、意外に感じたと「啼血始末」の中で述べている。この年の春学校で測ったところによると、肺量は二百二十リットルあり、充盈(じゅうえい)と空虚の胸周の差も殆ど二寸あったから、その辺の懸念はあまりなかったのだそうである。けれども十一日朝、三度目の喀血を見てからは、静臥の外に方法はなかったらしく、「無口のお願をかけたが、獅子にでも出つくわして死んだまねをする樣に、かれこれ難儀をしました」とある。医師は帰国静養をすすめ、親類なども同意見であったが、居士はそれに従わず、試験を済まして後、はじめて帰省の途に就いた。松山に帰ったのは七月七日であった。
[やぶちゃん注:「充盈(じゅうえい)と空虚」空気を肺にめいっぱい吸い込んで空気を充満させた状態を「充盈」、すっかり吐き出した状態を「空虚」と言っているものと思われる。
「無口のお願をかけたが、獅子にでも出つくわして死んだまねをする樣に、かれこれ難儀をしました」底本は「無口のお願をかけたか、獅子にでも出っくわして死んだまねをするように、かれこれ難儀をしました」であるが、先の国立国会図書館デジタルコレクションの「啼血始末」の当該画像で訂した(「啼血始末」の被告正岡子規の台詞)。但し、文脈からは「が」は「か」の方が正しいかも知れぬ。]
三度目の喀血があった十一日に、故山の叔父大原恒徳氏に送った手紙には「右の肺がわるき故何をするも左手をつかふは眞の杞憂にして苦痛のわけには無之(これなく)候」とある。居士は幼少の時から左利で、箸なども左で使いつけており、それをやかましくいわれるため、学校へ弁当を持って行かなかったという位だから、左手で手紙を書いたりすることは、格別苦痛でもなかったろうと思われる。また同じ手紙に「病氣の事母上はじめ他の方々へはなるべく御話無之樣祈上(これなきやういのりあげ)候」とあり、病気の程度などは母堂に秘してあったらしいが、松山に帰ってから暫くたってまた喀血した。この時は居士自身気管の出血だろうと判断し、医師に見せたら果してそうであった。十日ばかりで癒えたということである。
この故山における喀血は時日がわからないが、「読書弁」の終に「明治二十二年八月十五日褥中(ぢよくちゆう)筆を執りて記す」とあるのは、その際の臥林を指すのではないかと思う。「読書弁」は喀血後の居士が、病によって廃学せず、読書を棄てざる所以を述べたもので、「啼血始末」では閻魔大王の法廷で青鬼がこれを朗読することになっている。居士はこの文章において、先ず人間の慾望の総量を同じと見、それを充す慾望の種類の割当に各人各様の差があるといい、然る後己(おのれ)の読書慾に及んだ。
[やぶちゃん注:「明治二十二年八月十五日褥中(ぢよくちゆう)筆を執りて記す」国立国会図書館デジタルコレクションの同前画像のここ。
「読書弁」「讀書辯」は国立国会図書館デジタルコレクションの同前画像のここから全文を視認出来る。
以下、引用は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。国立国会図書館デジタルコレクションの同前画像の当該箇所を視認にして表記を訂した。]
多情の人に至りては其多情の爲に生命の慾を減殺することあり。他語以て之を言へば生命を輕んずることなり。自分の讀書の慾も少しはこの域に達し、此慾の爲にならば多少は生命を減消するもかまはぬとの考を起したり。自分は固より朝に道を聞て夕に死を恐れざる聖人にもあらず、又此世に生を受けし限りは人間の義務として完全無缺の人間に近づかんといふが如き高尚なる德を有するものにはあらねども、自分も亦沐猴にあらず、鸚鵡にあらず、食ふて寢ておきて又食ふといふ樣な走戸行肉となるを愧づるものなれば、數年前より讀書の極は終に我身體をして脳病か肺病かに陷らしむるとは萬々承知の上なり。只〻今日已に子規生なる假名を得んとは思の外なりしかども、これもよくよく考へて見れば少し繰あげたるのみにて、今更驚くにも足らざるべし。
という一節の如きは、慥に居士の性格を見るべきものである。一年廃学して五年なり十年なりの生命を延し得ればいいようであるが、多情なる自分は到底徒然に一年の長日月を経過することは出来ない。一年廃学の結果として、自分の慾の大部分たる読書慾が減却された後、何を以てこれを充すか、というのがこの文章の主眼であるらしい。
[やぶちゃん注:「沐猴」は「もくこう(もっこう)」で、猿の類を指す。]
思うに当時の居士の周囲には、廃学乃至休学に関する意見があり、「読書弁」はそれに対して学を廃せざる所以を述べたものと見るべきであろう。「読書弁」の終に近いところにある「客問ふて曰く、然らば君をして廢學せしむる方これなきか。曰く、有り。只〻行ひ難きのみ。何ぞや。曰く、我に鉅萬の財を與へて息ふ存分に消費せしむるのみ。客瞠若たり。我曰く、誰か我に鉅萬の財を與ふる者ぞ。天を仰いで呵々として大笑す」の問答の如きは、暗にその消息を語っているように思う。外聞から見た居士は世上一般の勤勉学生の類ではなかったかも知れぬ。しかしその学問とか、読書とかに対する態度はもっと本質的であり、根柢に確乎不動のものが横(よこたわ)っている。徒(いたずら)に歳月を空費するに堪えぬということは、恐らく居士の一生を通じて渝(かわ)らなかったに相違ない。
[やぶちゃん注:以上の引用部は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ。それで訂した。
「鉅萬」(きよまん(きょまん))の「鉅」は「多い」の意。
「瞠若」(だうじやく(どうじゃく))とは驚いて目を見張るさま。]
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