原民喜作品集「焰」(恣意的正字化版) 四月五日
四月五日
四月五日 山村家から招ばれたので晝から出掛ける。山村家の裏庭には櫻が咲いてゐる。緣側にアネモネの鉢が竝べてある。靜かな家だ。髮の長いよく肥えた人が庭さきの日向に籐椅子を出して、それに腰をかける。
「始めて髮をハイカラにしようと思ふのだからいいやうにしてくれ」とのことだ。何しろよく伸びたものだ、どこかこの人は弱々しいから、もしかすると病氣上りかも知れない。その人の髮に鋏を入れて居ると、弟らしい人が緣側に出て來る。兄が髮を刈るのを珍しがつて見物だらう。やがて適宜に鋏を入れて顏剃りを了へると、一休みする。弟の方も大分伸びてるので五分刈りにしてくれとのことである。で、早速とりかかる。この人は自分より、三つ四つ年下らしく見える。何だらう、今十五か六だらうと、バリカンを動かしながら考へる。散髮が了つて、洗面所で髮を洗つてから、
「顏を剃りませうか。」と訊ねる。すると困つたやうな樣子で、
「まだ是迄剃らなかつたのですが……」
自分はその返事に一寸興味を感じたので、
「では剃つてみませうか。」
「さうしてもらひませうか。」
自分は到頭その少年の頰に剃刀をあてた。頰に剃刀があたる度にびくびくしながら何だかこれから生れ變らうとでもしてるやうな、可憐な身構へが自分にとつて親しみを感じさせた。
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