北條九代記 卷第十一 中院本院御落飾付西園寺實兼太政大臣に任ず
○中院本院御落飾付西園寺實兼太政大臣に任ず
同九月、中院龜山〔の〕院、御落飾まします。御年四十一歳、法號をば、金剛覺(こんがうがく)と稱し奉る。禪法の御歸依、淺からず。今の南禪寺は此院の皇居にてぞ侍りける。同四年二月に本院後深草〔の〕院、御飾(おんかざり)落し給ふ。御年四十八歳、法諱(はふゐ)をば、素實(そじつ)と號し奉る。同十二月、西園寺前〔の〕内大臣實兼公を太政大臣に任ぜらる。鷹司〔の〕右大臣兼忠公を左(ひだり)に轉じ、二條内府兼基公を右府(うふ)に轉じ、德大寺〔の〕大納言公孝(きんたか)公を内府に任ぜらる。往始(そのかみ)、後堀河〔の〕院、貞應元年に西園寺公經を太政大臣に任ぜしより以來(このかた)、實氏、公相(きんすけ)、實兼に至るまで、四代相續ぎて、太政大臣に任ぜらる。攝家の人々は、淸華(せいくわ)の威に押(おさ)れて顔色なきが如くなり。皆、是、關東の計(はからひ)として斯(かく)は爲(せ)らる〻事なれば、力及ばぬ御事かなと、憤(いきどほり)を含む人もあり。四代相國とはこの西園寺の御事なり。
[やぶちゃん注:「同九月、中院龜山〔の〕院、御落飾まします」誤り。時系列が前後している。前条は正応三年三月九日(一二九〇年四月十九日)に発生した伏見天皇暗殺未遂事件の顛末を語ったものであったが、亀山上皇(元第九十代天皇)の出家は正応二(一二八九)年九月七日である。
「法號をば、金剛覺(こんがうがく)と稱し奉る」ウィキの「亀山天皇」によれば、法号は「金剛源」とあり、彼は『禅宗に帰依し、亀山法皇の出家で公家の間にも禅宗が徐々に浸透していく。その一方で、好色ぶりでも知られ、出家後も様々な女性と関係をもって多くの子供を儲けている』ともある。
「同四年二月に本院後深草〔の〕院、御飾(おんかざり)落し給ふ」誤り。元第八十九代天皇後深草上皇の出家は正応三(一二九〇)年二月で、亀山天皇と同じく得度は南禅寺で行われた。ウィキの「後深草天皇」によれば、これを以って『公式の院政を停めたが、その後も政治への関与が続き、持明院統の中心としてその繁栄に努めた』とある。
「法諱(はふゐ)」底本は「ほうゐ」とルビする。「法」は呉音の場合は歴史的仮名遣を「ホフ」、漢音の場合を「ハフ」とするが、かなり古い時代から「はう」が慣用的に広く用いられているので、どれでも決定的に誤りとはされないから、正直、好きな読みで構わない気もする。私も断然、「はう」である。
「同十二月、西園寺前〔の〕内大臣實兼公を太政大臣に任ぜらる」これは「同」が前の後深草院落飾の記事の誤りを受けて正応四年となるので、不幸中の幸いで正しい。西園寺実兼(「さねかぬ」とも読む。既出既注)が太政大臣に任ぜられたのは正応四(一二九一)年十二月二十五日である。後に出る西園寺公相の子。
「鷹司〔の〕右大臣兼忠」(弘長二(一二六二)年~正安三(一三〇一)年)は鷹司兼平の次男であったが、兄基忠の養子となった。後に関白・摂政に登りつめた。
「二條内府兼基」(文永四(一二六七)年~建武元(一三三四)年)は関白二条良実の子。後に太政大臣・関白となった。
「右府(うふ)」右大臣。
「德大寺〔の〕大納言公孝」(建長五(一二五三)年~嘉元三(一三〇五)年)は徳大寺実基の子。後に従一位太政大臣となった。
「内府」内大臣。
「後堀河〔の〕院」承久の乱後に幕府の意向で即位した、元第八十六代天皇の後堀河天皇(建暦二(一二一二)年~天福二(一二三四)年:在位:承久三(一二二一)年~貞永元(一二三二)年)。「院」と言っているが、これは単に尊称であって「貞應元年」(一二二二年)当時の彼は現役の天皇である。
「西園寺公經」(承安元(一一七一)年~寛元二(一二四四)年)。さんざん既出既注。
「實氏」(建久五(一一九四)年~文永六(一二六九)年)は公経の子。太政大臣就任は寛元四(一二四六)年。
「公相」(貞応二(一二二三)年~文永四(一二六七)年)西園寺実氏の二男。太政大臣就任は弘長元(一二六二)年。
「淸華(せいくわ)」既出既注であるが、再掲しておく。現行では「せいぐわ(せいが)」と濁るのが一般的。「清華家(せいがけ)」で公卿の家格の一つを指す。最上位である摂関家(摂家)に次ぐもので、大臣家の上に位する。大臣・大将を兼ね、太政大臣に昇ることが出来る格である。一般に辞書類では三条(転法輪(てぼりん)三条)・今出川・大炊御門(おおいのみかど)・花山院・徳大寺・西園寺・久我(こが)の七家とされるが、この時期には必ずしも固定されていたものではないようである(また、後には醍醐・広幡を加えて「九清華」とも称した)。例えば、ウィキの「清華家」には、『清華家に相当する家格はすでに院政期には成立している。大臣・大将・皇后などの地位は、摂関政治期には当然摂関とその近親が独占するものであった。しかし後三条天皇の治世以降、摂関家が外戚の地位を失い、代わって外戚となった家系が、のちに清華家と呼ばれることになる家格の原形をつくった。したがって、清華家の家格は大臣・大将に昇進できるということのほかに「娘が皇后になる資格がある」ということも見逃してはならない。平清盛・源頼朝はいずれも清華家の家格を獲得していたのであり、そのゆえにこそその子弟は大臣・大将(平重盛、源実朝など)となり』、『皇后(平徳子)となることができた。足利義満以後の歴代室町殿が大臣・大将を歴任したこともこの文脈で理解しなければならない。なおいわゆる「七清華」は、清華家の家格を有する多数の家系(たとえば藤原北家閑院流の山階家・洞院家、村上源氏顕房流の土御門家・堀川家)が中世を通じて断絶したり』、『清華の家格を失ったりした結果、最終的に』七家しか『残らなかったことを意味しており、はじめから家系が固定していたわけではない』という記載があるからである。なお、「華族」(かぞく/かそく/かしょく)は本来、古くは、この清華家の別名であった。
「四代相國とは」「四代相國」と世間で称されたのは、の意。「相國」は太政大臣の唐名。]
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