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2017/12/27

原民喜についての私のある感懐

原民喜は昭和二六(一九五一)年二月号『女性改造』に発表した「遙かな旅」の中で(太字やぶちゃん。靑土社版全集を底本にしつつ、漢字を恣意的に正字化した)、
 
 

 翌年の春彼の作品集がはじめて世の中に出た[やぶちゃん注:先ほど、ここで全電子化注を終えた作品集「焰」。昭和一〇(一九三五)年三月白水社刊。自費出版。]。が、彼はその本を手にした時も、喜んでいいのか悲しんでいいのか、はつきりしなかつた。……彼が結婚したばかりの頃のことだつた[やぶちゃん注:貞恵との結婚は昭和八(一九三三)年三月。]。妻は死のことを夢みるやうに語ることがあつた。若い妻の顔を眺めてゐると、ふと間もなく彼女に死なれてしまふのではないかといふ氣がした。もし妻と死別れたら、一年間だけ生き殘らう、悲しい美しい一册の詩集を書き殘すために……と突飛な烈しい念想がその時胸のなかに浮上つてたぎつたのだつた。
 
 
 
と綴った(因みに、かく綴ったこの翌月の三月十三日、原民喜は鉄路に自らの体を横たえたのであった)。

 彼の妻貞恵は昭和一九(一九四四)年九月、重い糖尿病と肺結核のために亡くなった
 
 その十一ヶ月後、民喜は広島の実家で被爆した。
 
 原民喜の被爆を綴った「夏の花」の冒頭は(同前の仕儀で処理した)、
  
 
 私は街に出て花を買ふと、妻の墓を訪れようと思つた。ポケツトには佛壇からとり出した線香が一束あつた。八月十五日は妻にとつて初盆にあたるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑はしかつた。恰度、休電日ではあつたが、朝から花をもつて街を步いてゐる男は、私のほかに見あたらなかつた。その花は何といふ名稱なのか知らないが、黃色の小瓣の可憐な野趣帶び、いかにも夏の花らしかつた。
 炎天に曝されてゐる墓石に水を打ち、その花を二つに分けて左右の花たてに差すと、墓のおもてが何となく淸々しくなつたやうで、私はしばらく花と石に視入つた。この墓の下には妻ばかりか、父母の骨も納まつてゐるのだつた。持つて來た線香にマツチをつけ、默禮を濟ますと私はかたはらの井戸で水を吞んだ。それから、饒津(にぎつ)公園の方を𢌞つて家に戾つたのであるが、その日も、その翌日も、私のポケツトは線香の匂がしみこんでゐた。原子爆彈に襲はれたのは、その翌々日のことであつた。
 
 
で始まる。これは無論、事実であるが、彼が被爆当日から起筆しなかったのは、決して題名「夏の花」のための小手先の伏線ではなかったことは言うまでもない。  
 彼の中の、
もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残らう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために……


というかつての思いこそが、この書き出しを確かに選ばせたのである。

   *

 我々は原民喜を、専ら、「被爆文学者」「『水ヲ下サイ』の被爆詩人」として認知し、多くの読者はそれを当然のこととしている。恐らく、向後も彼は「原爆の詩人」として認識され続け、「被爆体験を独特の詩やストイックな文体で稀有の描出を成した悲劇の詩人」として記憶され続けることは間違いない。

   *
 
 彼の盟友であった遠藤周作が四十年以上前のTVのインタビューの中で、原民喜のことを回想し、
 
――戦後、一緒に神保町を歩いていた時、彼がいなくなったので振り返ってみたら、立ち止まった彼が、交差点の都電の架線から激しく迸る火花を、固まったようになって、凝っと、見つめ続けているのを見出し、被爆の瞬間が彼の中にフラッシュ・バックし続けている、と強く感じた――
といった思い出を述べておられたのを思い出す。

   *

 原民喜は妻の死によって激しい孤独と悲哀のただ中に突き落とされた。それは、一年後には死のう、という嘗ての自身の思いを現実の目標とするほどに鞏固な痛烈な覚悟であったと私は思う。

 しかし、その一年後の彼の定めた生死の糊しろの部分で、恐るべき原爆体験が彼を襲ったのであった。
 
 しかも、戦後、彼は「夏の花」以後の著作を以って、文壇や読者や文化人らから「被爆詩人」「原爆文学者」という名を奉じられてしまった。
 
 愛妻貞恵の死から生じた死への傾斜に加え、それに意識上、不幸にして直結する形での被爆の地獄絵の体験は、彼をして激しいPTSDPost Traumatic Stress Disorder:心的外傷後ストレス障害)に陥らせたことは、最早、誰も否定しないであろう。遠藤の見たそれは、まさにその病態の一つであると私は思っている。

   *
 
 私は何が言いたいのか。
 
 それは、彼を自死に追い込んでしまった責任の有意なある部分は、彼を純粋な詩人・小説家としてではなく、悲惨で稀有な被爆体験をした「悲劇の被爆文学者」としてレッテルし、彼に対し、意識的にも無意識的にも、そうした「被爆文学」の「生産」を要請し続けた文壇や文化人、ひいては、そうしたものを求め続けた我々読者にこそあったと私は思うのである。

 彼は確かに被爆以前から、愛妻を失ったことによる自死願望があったし、さらに溯れば、それ以前、独身時には、放蕩の末の、昭和七(一九三二)年夏の、長光太宅での発作的なカルチモン自殺未遂などもある。
 
 しかし、だからと言って、我々の恣意的な彼への被爆詩人レッテル化という決定打が正当化されるわけではない。

 彼は決して著名な「原爆詩人」などにはなりたくはなかった

 彼は――悲しい美しい一冊の詩集を書き残した一人の孤独な詩人――としてこの世から消えて行きたかったのである。「雲雀」のように…………
 
 それをかくも祭り上げてしまったのは――我々読者――である。
 
 我々は――詩人原民喜を虐殺した一人――なのである。
 
 我々はその償いのためにも――被爆以前の詩人原民喜を――原爆関連作品以外の作家原民喜にもスポットを当て――味わい――後代へと継ぐべき義務と責任がある――
 
私は今、大真面目に、そう考えているのである。
 

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