老媼茶話巻之七 鋸引刑
鋸引刑
慶長十七子(ね)五月十四日、蒲生飛驒守秀行卿、逝去し玉へり。御子息忠郷および忠知、家とくそうゐなく繼(つぎ)玉へり。
忠郷卿、幼なくおはします故、關東より跡部民部少輔・戸嶋主膳正、御兩所、御後見として付(つけ)おかせ給ふ。
爰に何ものの仕業ともしれず、町奉行滿田出雲が門の扉にはりふだをしていはく、
「甲賀丁(ちやう)、彦三といふもの 跡部殿・戸嶋殿二軒の井(ゐ)へ ちん毒を沈め申(まうし)候 御油斷被成間敷(なさるまじ)」
と書(かき)て張付(はりつけ)たり。
嚴敷(きびしく)御詮義有(あり)、彦三を召取(めしとり)、つよく拷問に懸(かけ)たれども、
「少(すこし)にても此事、夢々、不奉存(ぞんじたてまつらず)、たとへ、せめころされ申候とも是非に不及(およばず)。」
と申切(まうしきる)に付(つき)、しばらく、せめを差置(さしおき)、ごくやに、こめ、色々と御せんさく有(あり)けれども、知れざりければ、大町(おほまち)札の辻へ判金三拾枚囑託を懸けられたり。然れども、不知(しれず)。
爰に福良(ふくら)より出(いで)たる者にて、行人(ぎやうにん)町に鍛冶淸兵衞といふもの有。
此ものの女房、狐につかれ、さまざまの事、口走り、狂ひ?りければ、八田野(はつたの)村の密侶(みつりよ)覺增院玄郭といふ山伏を賴(たのみ)、二夜三日、祈禱をなす。此故にや、ものゝけ去ル。漸(やうやう)本復(ほんぶく)せり。
淸兵衞、悦び、
「氣色本復せる悦びなり。」
とて、覺增院を招き、色々、馳走をなし、さまざま、もてなす。
覺僧院、大きにのみ醉(ゑひ)て、己(おの)が能(のう)にほこり、十面(じふめん)を作り、ひじをはり、扇をならし、語りけるは、
「抑(そも)、我等と申(まうす)は、ゑんの行者の流れを汲(くみ)、日本六拾六ヶ國の尊き山山嶽々をへめぐり、當所の伏見の瀧壺江も三七(さんしち)廿一日、絶食にてうたれ、羽黑權現の靈驗をかうむり、文覺此かたの荒行(あらぎやう)を仕(つかまつ)る。去程(さるほど)に、いかなる惡靈死靈なり共(とも)、忽(たちまち)、祈落(いのりおとし)候。其上、七眼通(しちげんつう)を得て、人の過去・未來の事迄、知らずといふ事なし。天に不しぎの風雲、有(あり)。人に旦夕の禍福(クワフク)、有。凡(およそ)、俗、これを不知(しらず)。今、御内室の煩(わづらひ)に付(つき)、一算(いつさん)仕見申(つかまつりみまうし)候に、内方(うちかた)の前生(ぜんじやう)は近江國片田の浦の「へなたり」といふ貝なり。鹽干(しほひ)に送られて砂濱にあがりけるを、烏、此貝をくわへ、こくうに飛行(ひぎやう)して同國石山寺の觀音の御堂の上より落しければ、嚴石にあたり、貝、みぢんに碎(くだけ)たり。其貝の再生、又、美濃國垂井の宿の驛屋(うまや)の牛に生(うまれ)給へり。其牛、其國の來迎山阿彌陀寺の五智如來堂建立の、すへ石をはこぶとて、寺の敷石につまづひて、足を折(をり)、牛、倒れ、空敷(むなしく)なる。此牛、如來堂のすへ石をはこびける佛緣により、今、人間(じんくわん)に生れ玉ふ。しかれども、前緣をかんじ、今、又、左の足の骨を痛(いため)玉ふは、此故也。其上、當卦(たうけ)は『禍害(クワガイ)』と申(まうす)星にあたり、『禍』はわざわひと申(まうす)字、『害』は人を損し、我身を害す事なり。當卦の守り本尊は聖至(セイシ)菩薩也。よくよく佛神を敬ひ、信心を取(とり)玉へ。我(わが)申(まうす)事、すこしも疑(うたがひ)玉ふな。此春、三月始、此度、毒沈(どくしづめ)の惡事の張本人、甲賀町與右衞門・茂左衞門、此義(ぎ)顯はれざる樣にと、我等をふかく申(まうす)間、龍猛大師深祕陰惡(しんぴいんあく)の法をもつて、三日三夜の祈禱をなし、守(まもり)を兩人に懸(かけ)させ、除災(じよさい)の神符を家の西北のすみにおさせければ、此事、顯れざるのみにあらず、災轉し、打續(うちつづき)、仕合(しあはせ)よく、家門はん昌仕る。如此(かくのごとき)事、あげてかぞふるに暇(いとま)あらず。」
と、大きに自慢する。
淸兵衞、このものがたりを聞(きき)て、つくづく思ふに、
『此事、容易の事にあらず。此節、嚴敷(きびしき)御詮義の科人(とがにん)ども也。若(もし)他よりもれ聞えば、我も同罪に行なわるべし。聞捨(ききすて)に難成(なりがたし)。』
と、覺增院を押留置(おしとどめき)、町奉行所へ訴へ出(いづ)る。
則(すなはち)、覺增院を町役所江召寄(めしよせ)、くわしく聞(きき)て後、與右衞門・茂左衞門を召取(めしとる)。
「いか成る意趣ありて、かゝる大逆無道の仕業(しわざ)をなしけるぞ。」
と、水火(すいくわ)のせめ、餘り嚴しかりければ、茂左衞門は終(つひ)に落(おち)ずして、せめ殺されたり。
與右衞門は、始は、
「しらず。」
と陳(ちん)しけれども、拷問、たびかさなりければ、其くるしみにたえ兼(かね)、委敷(くはしく)白狀申ける。
「元、此おこりは、彦三姉を、茂左衞門、達(たつ)て望み、我等(われら)媒(なかだち)をいたし、とやかく取持(とりもち)候得ども、彦三、合點不仕(がてんつかまつらず)、大町米屋宅右衞門と申(まうす)者のかたへ緣付申候。此恨により、何とぞ彦三に、からき目を見せ申たく、茂左衞門・私兩人しめし合(あはせ)、如此(かくのごとき)の事、工夫いたし申候。本人は茂左衞門、我は筆取(ふでとり)にて、此度の落書、かき申候得(さふらい)て、はり候。」
よし、申ける間、彦三はゆるされ、與右衞門は元和六年庚申(かのえさる)七月八日、大町札の辻江與右衞門を引出(ひきいだ)し、先(まづ)、左右のうでをきりおとし、其後、のこぎり引(びき)に行はれける。
同日、大町簗田(やなだ)が門外へ高く棚を組上(くみあげ)、そのうへ江福良鍛冶淸兵衞、上下(かみしも)を着し、囑託金三拾兩、いたゞきける。
けんぶつの諸人、山をなしける。
淸兵衞家内、三年のうちに死失(しにうせ)、跡方なく成(なり)たり。
「是、皆、金銀の欲におぼれ、人の命を絶(たち)し故、斯(かく)のごとくならん。」
と、皆人、言(いひ)けると也。
[やぶちゃん注:「鋸引刑」「のこぎりびきのけい」と読んでおく。ウィキの「鋸挽き」によれば、『死刑の一で、罪人の体を鋸で挽く刑罰である。中世および近世の日本で行われた。また、ヨーロッパや中国』『でも行なわれた』。天暦(九四七年=九五七年)年間、『厨子王丸(対王丸とも)が丹後の領主となって、由良の湊の山椒大夫を捕らえ、竹鋸でその首を断たせたという伝説がある』。『復讐刑としての意味合いも強く、縛り付けた罪人の首に浅く傷をつけ、その血をつけた鋸を近くに置いて、被害者親族や通行人に一回か二回ずつ挽かせ、ゆっくりと死なせる刑罰であり、江戸時代より以前には実際に首を鋸で挽かせていた』。『だが、江戸時代になると形式的なものになり、「御定書百箇条」において正刑のひとつ、且つ最も重い死刑として掲げられた。すなわち、その七十一に』。「人殺竝疵附御仕置之事、一、主殺。二日晒一日引?(ひきまはし)、鋸挽之上、磔。同百三、御仕置仕形之事、從前々之例、一、鋸挽、享保六年極(きめ)、一日引?、両之肩に刀目を入(いれ)、竹鋸に血を附(つけ)、そばに立置(たておき)、二日晒。挽可ㇾ申(ひきまうすべき)もの有ㇾ之(これある)時は爲挽(ひかせ)候事。但、田畑家屋敷家財共、欠所。」(漢字を恣意的に正字化し、句読点を一部変更、オリジナルに読みを振った)『とある。日本橋の南の広場に、方』三尺、深さ二尺五寸『の穴晒箱という箱を』、半ば、『土中に埋め、箱に罪人を入れ、首だけが地面から出るようにした上で』三『日間(』二『晩)見せ物として晒した(穴晒)。その際、罪人の首の左右にタケの鋸と鉄の鋸を立てかけておいたが』、『実際に鋸で首を挽くことはなく、晒した後は市中引き回しをしたうえで磔とした。元禄時代に罪人の横に置かれた鋸を挽く者がおり、慌てた幕府はその後、監視の役人を置くようにしたという』。『江戸時代に科されていた』六『種類の死刑の中で最も重い刑罰であり、主人殺しにのみ適用された』とある。
「慶長十七子(ね)五月十四日」グレゴリオ暦一六一二年六月十三日。
「蒲生飛驒守秀行」複数回、既出既注。
「忠郷」蒲生忠郷(たださと 慶長七(一六〇二)年~寛永四(一六二七)年)は陸奥会津藩第二代藩主。初代藩主蒲生秀行長男。母は徳川家康の三女振姫。藩主継承後は重臣層の抗争や藩内での訴訟が続いていたが、官位は正四位下参議にまで昇進した。しかし、疱瘡に罹患、享年二十六で夭折した。ウィキの「蒲生忠郷」によれば、正室『との間には嫡子が無かったため、本来なら蒲生氏は断絶するところであったが、母が家康の娘であるということで、出羽上山藩』四『万石を領していた弟の忠知』(後注参照)『を後嗣として伊予松山』二十四『万石が与えられ、』三十六『万石の減封となったものの』、『存続を許された。会津には蒲生氏に代わって加藤嘉明が』四十『万石で入った』とある。
「忠知」出羽上山藩主・伊予松山藩主蒲生忠知(ただとも/ただちか 慶長九(一六〇四)年~寛永一一(一六三四)年)は蒲生秀行の次男で忠郷の実弟。ウィキの「蒲生忠知」によれば、『家臣蒲生郷治によって養育され』、慶長一七(一六一二)年に『松平の名字を与えられ』ている。寛永三(一六二六)年には上山(かみのやま)藩(現在の山形県上山市周辺を領有した)四万石の藩主となったが、翌年、兄忠郷が嗣子なくして早世したため、前注のようなはからいがなされた。『信心深かった正室の影響か、治世は良好で(暴君伝説も伝わるが、定型のものである)、寺院の建築、移築を行うなどの治績を残している。また居城である松山城の完成に特に力を注ぎ、二之丸を整備したと伝わる』。寛永七(一六三〇)年には『再び勃発した重臣の抗争を裁いた』が、『この裁判沙汰はなかなか決着がつかず』、三『年にも及び、忠知は幕府の裁定を仰いで決着を図り、ようやくにして事態の解決を見た。結果として、福西・関・岡・志賀らの老臣が流罪・追放されるだけでなく、家老の蒲生郷喜の弟である蒲生郷舎も暇を出され、召し放つ事態に陥っ』ている。寛永十一年、『参勤交代の途上、京都の藩邸で急死した。享年』三十一。『死因は不明だが、兄・忠郷と同じく疱瘡が原因とも言われる。嗣子がなかったため、蒲生氏は断絶した』とある。因みに、彼蒲生忠知に纏わる怪奇談があるとし、『忠知の死により』、『近江蒲生氏の系統は断絶したが、これは祟りが遠因となったという巷説がある。忠知が藩主の座を継いで以降、世継ぎの男子が生まれないまま時を重ねていたが、やがて藩内の妊婦に憎悪を向けることとなり、妊婦を捕まえては腹を割き、母子共々殺害するという惨劇を繰り返していたという。非業の死を遂げた妊婦の怨念により、蒲生家は断絶に至ったと伝えられ、その証拠として松山城には「まな板石」なる物が残され、城址公園となった今でも』、『すすり泣く声が聞こえるという(ただし、姫路城の「御菊井戸」など、城郭にはこの手の話がついてまわることは考慮せねばなるまい)』とある。
「家とく」「家督」。
「そうゐなく」「相違無く」。
「繼(つぎ)」底本は「續」。編者の訂正添字に代えた。
「跡部民部少輔」徳川家忠の家臣に、同姓と酷似した官位を持つ名を見出せる。
「戸嶋主膳正」不詳。
「滿田出雲」秀行の父蒲生氏郷が伊勢松坂から会津に入府した際につき従がって来た家老に満田出雲守の名があるから、その末裔と思われる。
「はりふだ」「貼り札」。落書(らくしょ)。
「甲賀丁(ちやう)」既出既注であるが、再掲しておく。現在の福島県会津若松市相生町(あいおいまち:ここ(グーグル・マップ・データ))の中の旧町名。ウィキの「相生町(会津若松市)」によれば、『甲賀町(こうかまち)は若松城下の城郭外北部、当時の上町に属する町で、南側は甲賀町口、北側は滝沢組町に接する幅』四『間あまりの通りであった。傍出町として大工町があったほか、甲賀町は文禄年間の成立で、蒲生氏郷が日野(近江)から移住した商工業者を置いた町であるとされる。このため、かつては日野町と呼ばれていたが、加藤氏が甲賀町と改称したとされる』とある。
「ちん毒」「鴆毒」。想像上の鳥である鴆(ちん)の羽にあるとされた猛毒。酒に浸したものは、よく人を殺すとされた。転じて、「猛毒・毒物」の意となった。ここも、それ。
「たとへ、せめころされ申候とも是非に不及(およばず)」「たとえ、拷問のために責め殺されましたとしても、やっておらぬことをば、やったと申すことは、これ、決してでき申さぬ!」。
「ごくや」「獄屋」。
「こめ」「籠め」。
「せんさく有(あり)けれども」「穿鑿」。本人はもとより、彦三やその関係者をつぶさに取り調べたけれども。
「知れざりければ」それらしい(犯行を行った)証拠や疑いが全く見出せなかったので。
「大町(おほまち)」既出既注であるが、再掲する。現在の福島県会津若松市大町(ここ(グーグル・マップ・データ))附近。
「札の辻」高札を掲げる高札場。より多くの通行人の眼に入るように、複数の道の交差する街道や町の辻に設けられることが多かった。
「判金三拾枚囑託を懸けられたり」「判金」は「慶長金銀」で、広義には江戸幕府が慶長六(一六〇一)年から鋳造し,流通させた複数の金(或いは銀)貨幣を指すが(金貨では狭義には十両の大判を指す)、後には一両小判も指し、ここは後で「囑託金三拾兩」と言い換えているから、後者である。「嘱託(金)」は嘱託銀(しょくたくぎん/そくたくぎん)のこと。江戸幕府が犯罪に関する密告を奨励するために出した褒賞金制度。特に切支丹取り締りのために出された物(訴人報償制)が知られる。
「福良(ふくら)」不詳。或いは現在の栃木県小山市福良か。
「行人(ぎやうにん)町」現在の福島県会津若松市行仁町(ぎょうにんまち)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「鍛冶淸兵衞」不詳。
「八田野(はつたの)村」現在の福島県会津若松市河東町(かわひがしまち)八田(はった)八田野。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「密侶(みつりよ)」密教の僧侶の資格を持つという意味か。しかし「山伏」とあり、後で酒に酔ってべらべらお喋りするところからは、怪しい自称に違いない。
「覺增院玄郭」不詳。
「十面(じふめん)」しかめっ面(つら)。不服の貌ではなく、威厳を示すための嚇しの表情である。
「ゑんの行者」「役(えんの)行者」。役小角(えんのおづの)。七~八世紀に大和の葛城山に籠って修行した呪術者。妖言を吐いたとの理由で、伊豆に流されたと伝えられる。修験道の開祖と仰がれる伝説上の人物。
「へめぐり」「經?り」。
「伏見の瀧壺」現在の福島県会津若松市東山町の東山温泉にある伏見ヶ瀧(ふしみがたき)。阿賀野川の支流湯川にあり、雄瀧(落差約五メートル)と雌瀧(落差約六メートル)からなり、古くから伝説が多い。ここ(グーグル・マップ・データ)。その一つはウィキの「伏見ヶ滝」によれば、「藤身ヶ滝悲恋の伝説」と称し、昔、『あるところに藤という娘がいた。ある男に想いを寄せていたその娘が、その恋が叶うように』、『と滝の不動明王に願掛けをしていると、明王が現れ』、『「東山の入口に松の古木がある。その松の木に石を投げ、その石が枝に留まり落ちてこなかったら』、『願いはかなう」と言った。娘は何度も何度も石を投げたが、すべて枝に留まることなく』、『落ちてしまった。悲嘆した娘はこの滝に身を投げてしまった』。『それ以来』、『人々はこの滝を藤身ヶ滝と呼ぶようになり、今では伏見ヶ滝と呼ばれるようになった』という。
「七眼通(しちげんつう)」仏教の「六道」を超えた七番目の超越した世界、或いは天文占星術の水星・金星・火星・木星・土星・太陽・月の七天体(それで完成された宇宙と見做されていた)といった解釈に基づく、神聖数としての七、神通力としてのそれを指すようである。
「不しぎ」「不思議」。
「御内室」奥方。
「一算(いつさん)」基本は、易で占うために爻(こう:卦(け)を構成する基本記号。長い横棒(─)と真ん中が途切れた二つの短い横棒(--)の二種類)によって計算すること。
「近江國片田の浦」滋賀県大津市北部の琵琶湖西岸の堅田(かたた)地区の古称で広域地名。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「へなたり」古え、数種の香料を練り合わせて作る練り香の素材の一つとして、一部の巻貝の蓋が好んで用いられ、それを一般名詞で「甲香(へなたり)」と呼んだ。私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」の「六浦」の「産物」の項にある「甲香(カヒカフ)」を見られたいが、但し、その殆どは海産腹足類(巻貝)である。例えば、和名にその名をし負う、吸腔目カニモリガイ上科キバウミニナ科
Cerithidea 属 Cerithideopsilla 亜属ヘナタリCerithidea cingulata も海産である。しかし、堅田では淡水産のカワニナ類(タイプ種としてはカニモリガイ上科カワニナ科カワニナ属カワニナ Semisulcospira libertina)ということになる。
「鹽干(しほひ)に送られて」琵琶湖クラスでも視認出来るような潮汐現象は起こらない。寧ろ、この怪しい馬鹿坊主覺增院玄郭なる輩は実は琵琶湖もろくに知らないのではなかろうか? 琵琶湖は海と繋がっていて堅田の浦を海浜と勘違いしているからこそ、こんな墓穴を思わず掘ってしまったのではなかろうか?
「くわへ」ママ。「咥(くは)へ」。
「こくう」「虛空」。
「石山寺」滋賀県大津市石山寺にある真言宗石光山(せっこうざん)石山寺(いしやまでら)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「みぢん」「微塵」。
「美濃國垂井の宿」中山道の宿場で美濃国不破郡垂井村(現在の岐阜県不破郡垂井町)にあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「驛屋(うまや)」私の推定当て訓。
「來迎山阿彌陀寺」「其國」は美濃となるが、この山号寺号で「五智如來」を祀るこの寺は不詳。識者の御教授を乞う。
「すへ石」ママ。「据え石」。
「人間(じんくわん)」六道の呼称で私がかく読みを振った。
「かんじ」「感じ」。感応し。
「與右衞門」不詳。
「茂左衞門」不詳。
「我等をふかく申(まうす)間」「を」は「に」の方が通りが良い。
「龍猛大師深祕陰惡(しんぴいんあく)の法」不詳。怪しげな外法であろう。
「守(まもり)」護符。
「すみに」「隅に」。
「おさせければ」「押させければ」。押し張り付けさせておいたので。
「はん昌」「繁昌」。
「覺增院を押留置(おしとえもき)」饗応を続けさせて、帰らぬように、留め置かせ。
「元和六年庚申(かのえさる)七月八日」一六二〇年八月六日。
「大町簗田(やなだ)」現在の会津若松市大町四ツ角大町堅町一丁目附近。文禄元(一五九二)年に蒲生氏郷が城郭を建築して城下街を建設した際に協力した会津商人の筆頭であったのが簗田家であった。ここ(サイト「碑像マップ」内「會津商人司簗田家屋敷跡」碑。地図有り)。]
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